すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

辛口は元気にするぞ

2021年08月06日 | 雑記帳
 最近、「辛口」があまり見えなくなった。俗にいう「辛口コメント」の類だ。何かといえばクレームがくる社会なので、自重する者が多いということか。それでもネット上では、誰がこんなことを語った、こんな言葉を使ったということが連日載っている。それに反応する衆は依然健在で、かえって軽重がつかずにいる。


 個人的に印象深い辛口としては、NHKの五輪開会式直前のスタジオ放送で、サンドイッチマンの冨澤が語ったブラックジョーク。「辞任・解任された方々が勢ぞろいして、どうなっているんだと炎上した炎で…(聖火の点火)」これはなかなか痛快、暑さもすううっと引いてくる。NHKのお叱りも人気者には通じまい。


 放送されない局の報道番組だったが、8/2に政府が発表した、コロナ感染患者の入院対象を重症者らに限定する方針に対して「2人とも至急お辞めになったほうがいい」と怒った倉持医師の発言もすかっとする。自らのTwitterでは「日本においては努力や英知を集結はせず、ほぼほぼ自助」と、切れ味鋭く迫っている。


 しかし、それらはホントにそんなに辛口かとも思う。まともな意見、見識であり、言ってみれば日常会話であるレベルではないか。それを辛いと感じてしまうほど、世の中が甘く、だらけてしまっているのかもしれない。こういうときは、せめて辛い食べ物でギリッとするかと、雑誌で見かけた、とあるラーメン店へ。



 夏季限定「冷辛中華」…このネーミングに惹かれ注文すると、レベルがあり「ふつう・ちょい辛・激辛・超辛」の4種類という。控えめに(笑)激辛を指定。それが上記の写真である。冷たいので最初はさほど感じなかったが、とにかく唇にクル。ティッシュでふき取りながら完食。少し痛いが、辛さは体を元気にするぞ!

内向き五輪の甘い罠

2021年08月05日 | 雑記帳
 火曜日朝刊の「解読 オリンピック」に、森達也が次のように書いた記事が目に付いた。

「57年前の東京五輪。菅義偉首相が国会でいきなり思い出を滔々と語り始めたアベベ選手やヘーシンク選手だけでなく、女子体操のチャスラフスカ選手など、多くの外国人選手が話題になった。でも今回の五輪で、これほどに注目される外国人選手はいるだろうか。あなたは名前を挙げることができるだろうか。」



 1964年その時、小学校3年生だった自分も視聴覚室の白黒テレビ(観音開きの戸付)を見た記憶があるし、上記選手だけでなく水泳のドン・ショランダーも強く印象づけられた。しかし今回は何だか日本人の活躍(そして不振)ばかりが気になる。外国のスター選手がいないわけではない。…森は、続けてこう書いている。

「明らかに日本人の関心がドメスティック(内向き)になっている。」


 日本人が日本選手に関心を持つことはけして悪くはない。しかし、五輪精神にのっとれば、どこか行き過ぎていて、おかしな流れになっていることに気づかされる。メダル数を連日話題にしたり、個人にスポットを当てて「物語」を強調したり…テレビが視聴率を上げるための演出に、みんなどっと乗っかっている。


 今回の五輪は様々な視点から語ることができる。個人として今の世界をどう見るかの踏み絵にもなっていると感じる。いずれにしろ、森の指摘にあるような傾向の強い自分や社会を、客観視できることは大切だ。それを巧く利用する輩に支配されないために…そいつらは「多様性」「夢」「希望」と甘い言葉で近づいてくる。

禍も福もなく、ゆるゆると

2021年08月04日 | 読書
 『三流のすすめ』(安田登 ミシマ社)からもう少し。この本は第四章以降、中国古典の解説書のような内容になるが、冒頭にはこうだ。「孔子は三流人の代表」…その「三流」とは「多能」を指すことは容易に理解できる。論語の中の章句では「子曰く、君子は器ならず。」が該当し、一つの専門家に留まらない主張をする。


 三流人になるための一つのキーワードとして、有名な「不惑」を取り上げている。「四十にして惑わず」の部分を、『論語』に関する出版物も出している著者は、「不惑」ではなく「不或」と言ったと推論する。字の意味から「惑わず」ではなく「区切らず」と導く。つまり「四十にして区切らず」…殻を破る奨めである。



 『中庸』からは「博学・審問・慎思・明弁・篤行」が五つの方法として挙げられている。特に印象的なのは「明弁」。「明らかにこれを弁じ」ということは、つまりアウトプット指しているだろう。どうやったら他者に伝わるかに心を砕く。この行為は「内側に向いていた学びが、外側に開かれる」ことを意味している。


 ある講座をきっかけに始まったシュメール語による公演を、一緒に行うチームの姿が実に面白い。団体行動が苦手なメンバーは忘れ物や遅刻などにも動ぜず、そうした事態にあるメンバーが呟いた一言を「全員が言うように」になったとある。それは「おもしろくなってきたぜ」。どんなふうにしのぐかを楽しむのである。


 これは先日書いた桜井章一の、大谷を評する言葉に通じる。つまり勝負強さはピンチを迎える心持ちに宿る。そして、三流人の生き方は「螺旋的生き方」と言い換えられれば「あざなえる禍福」と常に寄り添ってぐるぐるまわり、葛藤や後悔などする暇がないはずだ。三流人になり、禍も福もなくゆるゆる生きよ!

「一流の三流人」と…

2021年08月03日 | 読書
 「一流の三流人」と題付けしようと考えた所に、自分の陥穽の深さを感じた。一流になりたかった、そして到底なれない現実に気づいてからも、その思いは水底に沈んだ泥のように、時々何かの拍子に心を濁らせたかもしれない。その意味で、結構な浄化作用を果たしてくれた一冊である。しかし、まだ投入が必要だ。


『三流のすすめ』(安田登  ミシマ社)


 「三流」とは、広辞苑によると「二流にも達しない、かなり低い程度」とある。「一流」とは「第一等の地位。最もすぐれている段階」と記され、どちらもごく一般的な意味である。しかし、電子辞書にある他の二つの辞典で「三流」を引くと、第一義は「三つの流派」なのである。一流も「一つの流派」の意味がある。



 中国古典『人物志』にある使われ方として、「一流とは『一つのことの専門家』、二流とは『二つのことの専門家』」という意味を紹介し、「三流」とはいくつもの専門を持つことと肯定的なとらえ方をする。秋田弁では「クサレタマグラ」だなと思ったりしたが…。『人物志』では、国を任せるにふさわしい人という評価だ。


 ともあれ一定世代以上であれば、「一流をめざせ」信仰は少なからずあったのではないか。そして多くは挫折し、諦めや誤魔化しでしのいでいる(笑)。著者はそれを「敗者を作るためのシステムが組み込まれた社会」だと断じ、「堪え性もなく、天賦の才能もない人」は、早く手放して「三流」の生き方をするように勧める。


 「これぞ三流!」と題された第一章、六つのポイントは面白い。「①飽きっぽい②ものにならない③役に立たない④評価されない、求めない⑤短絡的⑥究めない」…いわゆる「前向き志向」と正反対だ。しかし「前」が見えない今だからこそ、「常に『今』が起点」の「『三昧』的な生き方」は、実に魅力的にみえてくる。
 つづく

きっと大谷はよくみている

2021年08月02日 | 雑記帳
 五輪真っ盛り。勝負を分けるにはいくつかの要素がある。今、一番強い日本人なら、五輪には参加していないがあの大リーガーだろう。彼について伝説の勝負師はこう書いている。

 「大谷はバッターとしてはチャンスと、ピッチャーとしてはピンチと日々戦っている。これは私の勝手な推測だが、彼はチャンスよりもピンチのほうが好きなのではないか。彼はピンチを楽しんでいる。リスクを楽しんでいる」

 「雀鬼」と称される桜井章一の言葉である。大谷の構えの「力み」のなさを強調し、その活躍している姿の訳を語っている。テレビに映された場面だけで凡人は判断できないが、桜井であれば見抜けるのだろう。「勝ち続けるヤツは所作が美しい」とも記す。無駄のない所作とは、精神の在りかたの現れで間違いない。


 ふと思い出した語に「あざなう」がある。慣用句として「禍福はあざなえる縄の如し」が有名である。広辞苑によると「この世の幸不幸は、より合わせた縄のように、常に入れかわりながら変転する意」である。この「幸不幸」と「チャンス・ピンチ」も、同様のとらえ方が出来るのではないか。そしてどう向かうか。


 そのようなことはよく言われてきた。ただ、いかに心構えを作るか、勉強しなければと堅くなっては逆効果だ。桜井は「感覚」の大切さを貫いてきている。「知識」ではなく、「感覚を磨く」ことだ。それは人工物や一般常識を重視しないところから始まる。取り戻すためにまず「自然と触れ合うことが不可欠」という。



 養老孟司は一日に数分間「自然物」を見るススメをよく書く、桜井は薔薇園や公園ではなく、土手にある雑草や花をよく見に行く。そこに注ぐ眼差しが鍵になるか。一方で、満員電車の中でも乗客の様子に注視して「感覚を磨く」も可能と記す。観察は感覚を研ぎ自分自身をも俯瞰できる。きっと大谷はよくみている。