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「一流の三流人」と…

2021年08月03日 | 読書
 「一流の三流人」と題付けしようと考えた所に、自分の陥穽の深さを感じた。一流になりたかった、そして到底なれない現実に気づいてからも、その思いは水底に沈んだ泥のように、時々何かの拍子に心を濁らせたかもしれない。その意味で、結構な浄化作用を果たしてくれた一冊である。しかし、まだ投入が必要だ。


『三流のすすめ』(安田登  ミシマ社)


 「三流」とは、広辞苑によると「二流にも達しない、かなり低い程度」とある。「一流」とは「第一等の地位。最もすぐれている段階」と記され、どちらもごく一般的な意味である。しかし、電子辞書にある他の二つの辞典で「三流」を引くと、第一義は「三つの流派」なのである。一流も「一つの流派」の意味がある。



 中国古典『人物志』にある使われ方として、「一流とは『一つのことの専門家』、二流とは『二つのことの専門家』」という意味を紹介し、「三流」とはいくつもの専門を持つことと肯定的なとらえ方をする。秋田弁では「クサレタマグラ」だなと思ったりしたが…。『人物志』では、国を任せるにふさわしい人という評価だ。


 ともあれ一定世代以上であれば、「一流をめざせ」信仰は少なからずあったのではないか。そして多くは挫折し、諦めや誤魔化しでしのいでいる(笑)。著者はそれを「敗者を作るためのシステムが組み込まれた社会」だと断じ、「堪え性もなく、天賦の才能もない人」は、早く手放して「三流」の生き方をするように勧める。


 「これぞ三流!」と題された第一章、六つのポイントは面白い。「①飽きっぽい②ものにならない③役に立たない④評価されない、求めない⑤短絡的⑥究めない」…いわゆる「前向き志向」と正反対だ。しかし「前」が見えない今だからこそ、「常に『今』が起点」の「『三昧』的な生き方」は、実に魅力的にみえてくる。
 つづく