『三流のすすめ』(安田登 ミシマ社)からもう少し。この本は第四章以降、中国古典の解説書のような内容になるが、冒頭にはこうだ。「孔子は三流人の代表」…その「三流」とは「多能」を指すことは容易に理解できる。論語の中の章句では「子曰く、君子は器ならず。」が該当し、一つの専門家に留まらない主張をする。
三流人になるための一つのキーワードとして、有名な「不惑」を取り上げている。「四十にして惑わず」の部分を、『論語』に関する出版物も出している著者は、「不惑」ではなく「不或」と言ったと推論する。字の意味から「惑わず」ではなく「区切らず」と導く。つまり「四十にして区切らず」…殻を破る奨めである。
『中庸』からは「博学・審問・慎思・明弁・篤行」が五つの方法として挙げられている。特に印象的なのは「明弁」。「明らかにこれを弁じ」ということは、つまりアウトプット指しているだろう。どうやったら他者に伝わるかに心を砕く。この行為は「内側に向いていた学びが、外側に開かれる」ことを意味している。
ある講座をきっかけに始まったシュメール語による公演を、一緒に行うチームの姿が実に面白い。団体行動が苦手なメンバーは忘れ物や遅刻などにも動ぜず、そうした事態にあるメンバーが呟いた一言を「全員が言うように」になったとある。それは「おもしろくなってきたぜ」。どんなふうにしのぐかを楽しむのである。
これは先日書いた桜井章一の、大谷を評する言葉に通じる。つまり勝負強さはピンチを迎える心持ちに宿る。そして、三流人の生き方は「螺旋的生き方」と言い換えられれば「あざなえる禍福」と常に寄り添ってぐるぐるまわり、葛藤や後悔などする暇がないはずだ。三流人になり、禍も福もなくゆるゆる生きよ!
三流人になるための一つのキーワードとして、有名な「不惑」を取り上げている。「四十にして惑わず」の部分を、『論語』に関する出版物も出している著者は、「不惑」ではなく「不或」と言ったと推論する。字の意味から「惑わず」ではなく「区切らず」と導く。つまり「四十にして区切らず」…殻を破る奨めである。
『中庸』からは「博学・審問・慎思・明弁・篤行」が五つの方法として挙げられている。特に印象的なのは「明弁」。「明らかにこれを弁じ」ということは、つまりアウトプット指しているだろう。どうやったら他者に伝わるかに心を砕く。この行為は「内側に向いていた学びが、外側に開かれる」ことを意味している。
ある講座をきっかけに始まったシュメール語による公演を、一緒に行うチームの姿が実に面白い。団体行動が苦手なメンバーは忘れ物や遅刻などにも動ぜず、そうした事態にあるメンバーが呟いた一言を「全員が言うように」になったとある。それは「おもしろくなってきたぜ」。どんなふうにしのぐかを楽しむのである。
これは先日書いた桜井章一の、大谷を評する言葉に通じる。つまり勝負強さはピンチを迎える心持ちに宿る。そして、三流人の生き方は「螺旋的生き方」と言い換えられれば「あざなえる禍福」と常に寄り添ってぐるぐるまわり、葛藤や後悔などする暇がないはずだ。三流人になり、禍も福もなくゆるゆる生きよ!