すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

今年の旧盆を記しておく

2021年08月19日 | 雑記帳
8月13日(金)
 16時退勤。去年までは実家の兄たちと一緒に墓参し、その後供養をしていのたが、自粛規制?がかかり個別に行うことにした。家族を墓地で待っている間に、一本隣の筋を見ていたら、思わずそちらのS家墓碑を拝みそうになり、直前で気づく。苦笑いしたがご先祖様に叱られそうなうっかりだ。コロナ禍2年目の旧盆。


8月14日(土)
 4日間休みが続く。12日にノーゲームになった甲子園の秋田明桜戦は昨日に続き今日も中止である。大会開催の是非はあるにしろ、今年の雨は酷い。コロナ感染もあり混乱している。昨夜放送された終戦ドラマ「しかたなかったと言うてはいかんのです」を見る。終戦間近の生体実験がテーマ。納得のドラマだった。


8月15日(日)
 本来なら成人式の日だったが、延期になっている。隣市では開催されたが制限がきつく人数も少ない。式とはいえ賑わい感がないと正直可哀そうだ。昨夜のNHK音楽番組「ライブ・エール」は、miletと森崎ウィンの『イマジン』がよかった。エールの送り方は様々なれど、誰しも直接声で励ましたいと思っている。


こどもの世界はどこまでも自由だ 8.18撮

8月16日(月)
 コロナ感染拡大、洪水や土砂崩れ、まさに「災害列島」という響きがぴったりする。パラリンピックも無観客が決まったようだが、学校による観戦は検討中という。無理があるなあ。来週の読み聞かせ用のPPTを3歳の孫に見せる。ぽかんとしている。今夜は盆踊りが無観客で開催される。笛の音は聞こえてこない。


8月17日(火)
 昨日の盆踊り配信をyoutubeで孫と一緒に見る。太鼓の真似をしたり、踊りのように動き廻ったり…後継者に育つのだろうか。一ヶ月半ぶりにかかり付けの医院へ。薬をもらう。その後、隣市へ行って給油したり、小物を買ったりする。今日は県内で29名という感染者。過去最大である。過疎県へもいよいよ近づくか。


8月18日(水)
 久しぶりの出勤。今日で休館措置が解ける。結構問い合わせの電話も多くあった。明日からたくさん来館してほしいとブログアップ。午後から放課後子ども教室で読み聞かせをするためにT小へ出向く。「おおきなかぶ~」の初披露。どの子も喜んでくれた。帰館後、来週予定していた県南規模の会議延期の連絡が入る。

そのコメントの暴力性を想う

2021年08月18日 | 雑記帳
 (昨日から続く)しかし、肝心なのは楽観に到る団結をどのように構築していくかであることは自明の理だ。今回の五輪をめぐる様々な問題をみても、道遠しの感は否めない。日本人の勝利を単純に喜ぶ自他の姿を客観視できることを手がかりにしながら、感覚を研ぎ澄まして地道に情報を拾い、道を定めていきたい。


 Aeraに載った斎藤幸平氏の「東京五輪失敗の根本原因はコロナではない」という論考を読んだ。招聘問題から一定のことは知っていたし全体像は掴みやすかった。華やかな準備は「五輪のための開発ではなく開発のための五輪」に見えるし、利権を得る者のための犠牲は多い。「祝賀資本主義」とは、言い得て妙だ。


 多様性がクローズアップされた五輪、競技結果以外の個別エピソードに目を留めることができただろうか。自分の認識は足りなかった。サッカーの南アフリカ選手のコロナ感染が報道された時、対戦相手だった日本チームにコメントが求められ、その状況を「自分たちには得でしかない」と語ったのはスター選手だった。



 この発言が「勝利至上主義の典型」であり、「スポーツマンシップ精神」と相容れないことは、少し考えれば容易にわかるはずだが、大きく取り上げられない。いかに競争型社会に毒されているかの証明でもある。華やかな活躍ばかりが脚光を浴びるように仕組まれて、大会全体の暴力性は薄められて、見えづらくなる。


 「暴力性」とは、市場社会の交換価値を高める行為の究極かもしれない。結局は弱い者からの搾取か。様々なイベント、大会に潜むと自覚したい。もちろんスポーツの意義もアスリートの価値も認め、尊重する。ただ、メダルを取れずにピッチで号泣した選手は、何が満たされないのかを自らに問いかけただろうか。

楽観と団結で未来を…

2021年08月17日 | 読書


 経済の本に何度か挑戦している。難解なものは手を出さないが、それでも断片的にしか理解できない。今回も書名に添えられている「美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい」に惹かれて手にしたが…。比喩や逸話を理解するだけの基礎知識を持っていないことが露呈した(笑)。それでも引き寄せた話はある。


『父が娘に語る経済の話』
  (ヤニス・バルファキス  ダイヤモンド社)



 「なぜ。こんなに『格差』があるのか」という問いから始まる。この答えは、いわば「経済」があるからだ。経済とは本来人を幸せにするために活動なのだろうが、仕組みとして困難なことが読み進むにつれて沁みてくる。凡人が学ぶべきは、その流れを作っていく本質的な観点を見定めて、活かすことではないか。


 まず、経済の基本になる要素は「余剰」ということ。それは歴史的に土地を耕すことから始まった。今頃そうかと思ったのは「文字----それは余剰を記録するためのものだった」という件。農耕社会の中で共有倉庫に預けた穀物の量を記録したのが始まりであり、農耕の発達しなかった社会では文字が生まれなかった。


 その発展と拡大が格差へとつながっていく。物々交換から市場が出来たのはいいが、「市場のある社会」から「市場社会」への飛躍が経済を強固にし、同時に複雑な連鎖をもたらす。どこまでも「交換価値」が「経験価値」を凌駕していく社会。人民からの搾取も自然環境破壊も、全ては交換価値の優先から生じてくる。


 「狩人のジレンマ~全員で鹿を狙うか、ひとりでうさぎを狙うか」に合点する。協力して鹿を仕留めると全員が信じることが鹿狩りの成功につながる。だが、一人が不安を持てば失敗の恐れが生じる。それは現在における消費、生産そして雇用に通じていると言う。未来をどう予想するか、楽観と団結の力が基本なのだ。

 しかし、それは…

「大きな蕪」は大問題

2021年08月16日 | 絵本
 少し挑戦の気持ちを抱いて『ももたろう』(ガタロー☆マン 誠文堂新光社)を取り上げたのは5月だった。「言葉や画のパフォーマンスを楽しむ」形で確かに盛り上がった。根がお笑い好きなので、おふざけバージョンと思われても魅力は感じる。この夏、その「おかしばなし」の第二弾が新着本として図書館へ並んだ。


『おおきなかぶー』(ガタロー☆マン 誠文堂新光社)



 「ももたろう」の筋におけるアレンジは、家来となる動物の登場順が主たるものだった。しかしこの本は、発端は原作?同様なのだが、おじいさんの助けとなる者たちの登場順はもちろん、登場の仕方や結末まで、脚色がかなり強めだ。一定のパターンで流れるが、ページごとの語尾には変化があり、単純ではない。


 気づいた方もいるだろうが書名が少し違う。「~~ぶー」の箇所である。オチが臭い形をとり、聞き手が子どもだったらウケるか。結末も大きく変わっている。なにしろ「へでたし へでたし」だから…。ロシア民話をもとにしたとは到底口にできない(笑)。「ももたろう」との類似もあり、二作続けて読めば楽しめるかな。


 さて、全く関係ないが「かぶ」は何故「」なのか。草かんむりに「無」である。そもそも「生い茂った雑草」を表わす。「隠されて見えない」という意味は、食用となる球状の根が見えない?ではない。結局「よくわからない」象徴とされる字だと推論できた。だから「大きな蕪」とはなかなか抜けない「大問題」なのだ。

「デザインあ」を今さら推す

2021年08月14日 | 雑記帳
 孫相手の時間が増えたこともあり、Eテレを見る機会が多くなった。主に3時半過ぎからだ。なかでも「デザインあ」は秀逸だと見始めた時から思っていた。 (現在はあの小山田問題で休止中のようだ) 大人の目で見ても純粋におしゃれと感じるし、ヘェーと見入ることが多い。人気デザイナー佐藤卓が関わっている。


 https://www.nhk.or.jp/design-ah/


 佐藤卓はインタビューに答えて、次のように語る。「つまりデザインとは、人とモノ、人と人との関係を『より良くつなげる』ための観察・思索・知恵・行動のプロセスなんです」。1つのテーマを、様々な視点からとらえる映像が多いし、「働きかけて変化させる」パターンも目立つ。プロセスを学習するポイントだ。

 ★

 先日初めて「香川照之の昆虫すごいぜ」という番組を観た。存在は知っていたが虫にさほど興味はないので機会はなかった。今回カミキリムシを取り上げて、採集する様子から実際に「髪」(紙ではなく)を切るのかまでを実演する箇所など、彼のキャラクターを十分に生かした展開は実に見せる内容に仕上がっていた。
 https://www.nhk.or.jp/school/sugoize/


 その続きで『ハロー、ちびっこモンスター』という、子育て中の親等を対象とした番組も観てみた。実際の家庭の様子を交えながら、父親がミッションをクリアしていくかをスタジオから助言したり解説したりする内容だ。辛口のアドバイザーや具体的な手立てを示す保育士によって、解決の方向が明快に伝わってきた。
 https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/tag/index.html?i=30338

 ★

 「NHK教育放送」時代のイメージとはずいぶんと変わった。TVという媒体の使い方も多様化しているが、幼児のいる家庭ではいまだに「流れている」感覚が正直ある(反省込めて)。そのなかでEテレの存在が大きいとすれば、全体像をしっかり捉え、選択的に接したい。ネットとの相互活用も結構面白いようだ。

「おめん」を読む

2021年08月13日 | 絵本
 「顔の形に似せ、顔につけるもの」を「」という。神楽や能、演劇などで着用するが、それはそのまま役割や人格を表わすという意味がある。着用していないのに「面をかぶっているような」と表現されるとき、それは内部を見せない、または大きなギャップがあることを指す。考えると「面」とは凄い道具である。


『おめん』(夢枕獏・作 辻川奈美・絵  岩崎書店) 



 怪談シリーズの「悪い本」「おろしてください」に続いて取り上げる。今年出た新作である。作者はあの『陰陽師』も書いているはず。深く納得するストーリー。ある娘が他の子への妬み、嫉みを心に抱えたときにあらわれた「おめん」。それをかぶり、呪い始めると次々に実現してしまう。「いい気味」と喜ぶ娘は、ある日…。


 目に見えるものと見えないもののつながりが強調される、予想できた筋立てではある。しかしダイレクトな文章と細密な絵が相まって、ちょっとした異空間が展開しているような風景が進む。呪いが最高潮に達したときに、口に出される「どんどろぼろぞうむ でんでればらぞうむ」という語も非常にパワーを感じる。


 どう読むか。これは女声がふさわしい。しかしそうであっても低めがあうだろう。そうなら男声でも可能かもしれない。いや、逆に登場人物と同化しない方が伝わる場合もある。対象は小学校高学年になろうが、感性の違いによって受け止め方は差がでるかな。もしかして悩む子がいたりして…。その経験は大事だ。

このインデックスを使いこなせ

2021年08月12日 | 読書
 野口芳宏先生を招いての研修会が開かれるというので、参加する前に頭を「教育モード」にしようと選んだ。しかし、結局『三流のすすめ』を読み進めず、さらに他の文庫本に手を出し、昨日読了となった。本はすっきりした構成で読みやすかった。今の教育を考えるときのインデックス的な使い方が出来る一冊だ。


『教えられること 教えられないこと』(明石要一  さくら社)


 内容の大半は承知済みだ。しかしいくつか現在の自分にフィットする部分もあった。今もってなぜ野口先生の研修会に参加するのか、自ら問いかけたことはなかったが、もしかしたら「口伝」を求めているのかもしれない、と気づかされた。「『文書』と『口伝』」の項は、現実の場と照応させると、とても面白く思えた。



 五輪競技を観つつの期間だったので、紹介された有名な言葉について考えた。「勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなし」…世界でも第一人者と認められている日本選手の数人が敗れた。サッカーや陸上競技リレーはメダルを取れなかった。必ず訳がある。それをどこまで突き詰め、打開していけるのか。


 その意味で最終章の「『積み上げ方式』から『逆算方式』へ」という項は、これからの学びとして典型的かもしれない。「降りていく学び」という言い方もあった。目標に向かって進むことは同じだが、そのルートや時間配分などに差が出てくる。個々として結局、何を大事にしたいか。「今」の充実度が問われる気がする。


 「弥生文化」「縄文文化」「海洋文化」「狩猟文化」の特性にふれた箇所も興味深い。社会変化の激しさ、地域社会の現状など複雑に絡まる今、個人としてどの特性が強く、足りない部分にどう対応していくか、と考えてみることは有益だ。特化的か汎用的かいずれであれ、教育も人生も決断するのは自分だ。

コロナと五輪と立秋の頃

2021年08月10日 | 雑記帳
8月5日(木)
 30℃を超す日が続いている。東京はコロナ感染者5000人超。予想はしていたが、この先がどうなるかだ。図書館は休館が続いているが、閉架資料整理のいい機会ととらえ職員が汗を流している。私は予定していた盆踊り紙芝居をブログアップする準備を始める。外壁と屋根の工事があるので、周囲に足場が組まれた。


8月6日(金)
 今日も自転車通勤。こちらの方が涼しい(笑)。10月予定の絵本ライブ講師の方とメールのやりとりをする。まだ先行き不透明である。午後は地元高校関係者と打ち合わせ。来月から総合のサポートを依頼される。何かお役に立てれば…。国内ではコロナ感染者が総計100万人を超す。家人は今日が一回目の予防接種終了。


8月7日(土)
 立秋。朝、自転車でコンビニへ行くが今日も暑いなと感じる。家で過ごすのが無難だ。『廃校先生』を読了し感想を書き始めたが、何だかぴんとこない。サッカーや卓球など観ているうちにいつも眠くなるが、野球は早く始まってくれたので最終回まで観た。ようやく金メダル。いい投手が多い。次のWBCが楽しみだ。



8月8日(日)
 男子マラソンを観てから、カニ売り出しの広告に誘われ隣市スーパーへ。でもショボいのでがっかり。昼は冷や麦そして連続の西瓜。今年は出来がいいらしく知り合いから多く頂く。どれも美味し。二人なので殿様食い(笑)をしてしまう。五輪閉会式…いいのかあんな密で、と思いつつ、いつものごとく就寝モードへ。


8月9日(月)
 閉会式に盆踊りのVTRが映ったというので驚く。撮影関係者も固く口止めされていたな。Twitterの好反応が多い。しかし、朝刊掲載の中島岳志「『夢への逃避』が終わる」を読み、午後は知人のブログを見て「メディアスポーツ」を考え、問題の在り処を忘れないようにする。明朗で快活なままでは締めくくれない。

「種火」をどこに残すか

2021年08月09日 | 読書
 『廃校先生』(浜口倫太郎 講談社文庫)

 『廃校先生』という書名は、多くの意味を持たせたのではないか。直接的には「よし太」という地元教員(講師)を指している。それは6章の文章中に「僕は、廃校先生です」とあり、続けて「指で数えられるほどの生徒しかいない学校でしか先生はできません」と語られる。限られた人数の子への全力注入宣言でもある。


 ふと、初任で勤めたへき地校から平場の学校へ異動した年を思い出す。重度の不登校の子を受け持った。社会的に話題になり始めた頃だ。情熱でなんとかなると走っていた無能教師は、他の子らに「オレよ、今Kのこと迎えに行ってくるから」と何度学級を空けたことか。そのゆえ、燻っていた問題は見えなかった


 現実に戻れば、今の教師志望者にそれは許されない。それゆえ「廃校」であり、絶滅は目の前といっていいのかもしれない。もっと俯瞰すれば、地域コミュニティの弱体化、人間関係の希薄化を示している。だから、この物語に登場する人物の存在や集まり、語らいは懐かしくもあり、忘れられた濃密さを思い出させる。



 「伝わるのはエネルギー」論は、自分が今も抱えている思想?だ。その関わりで語れば、本来、学校とはエネルギーの行き交う場であるべきで、その姿は非常に小さく弱々しい現状だ。経済至上主義、管理社会の中では非常に効率が悪く、優先度が低くとらえられ、置き去りにされている印象だ。「廃校」のように見える。


 解説の藤原和博は本文から「学校とは種火」という一節を引用し、学校論、地域論を展開している。「いつでも火が熾せるようにしておくために残しておく火」は不可欠である。様々な地域で多くの学校が閉じ、校舎解体が進んでいる。「種火」の重要性を認識し、学校に替り得る「人」と「場」を意識せねばならない。

『廃校先生』のページを開いて

2021年08月08日 | 読書
 先月、新潟の庭野三省先生より地元紙に連載している書評をまとめた冊子をいただいた。約5年間の集約、その継続力はいつも刺激的だ。『私の名作巡り』と題され、近代文学小説が主な対象である。縁の薄い分野であり圧倒される思いで眺めるのみだったが、中に最近の文庫本が一冊紹介されており、興味を持った。


『廃校先生』(浜口倫太郎  講談社文庫)


 私も当事者として閉校・廃校を経験してきただけに、この書名に惹かれないわけがない。楽しみにページを開いた。ただ小説としては…劇画チックというか、繊細な表現が乏しく、わりとベタな展開が多い。解説を読むと「放送作家として」との表記があり納得した。「学校エンタテインメント」として読むにはお手軽だ。


 ただ経験者として指摘できる、首を傾げる事項も多かった。地域差による事情ではないと思うが…、例えば児童数7人の学校で複式学級がない偶然、学年担任に対して別学年の副担任をさせる措置…そう設定しないと物語が動かなくなるか…いや、そんな箇所で読みが滞っては、物語として楽しめないと途中から反省した。



 前半部で「教育」「学校」について考えさせられる一節があった。「先生に向いている人の条件」だ。それが全体を貫くテーマにも見える。主人公の一人である新任女性教員が叔父に悩みをこぼしているとき、教育振興課に勤める彼が、校長から聞いた言葉として紹介する。「自分が先生に向いていないと考えている人や


 共感できる考えだ。もちろんそれが全てではない。ただ、重さや頻度は個人によって違うが、自己内部の葛藤なしに子どもに向き合うことは不遜と言える。様々なタイプの先生がいていい。子どもの前に立つ、後ろから押す、傍らで寄り添う…そして一歩離れ「目指す先生像」と対峙できなければ、務まらない仕事だ。
 つづく