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「種火」をどこに残すか

2021年08月09日 | 読書
 『廃校先生』(浜口倫太郎 講談社文庫)

 『廃校先生』という書名は、多くの意味を持たせたのではないか。直接的には「よし太」という地元教員(講師)を指している。それは6章の文章中に「僕は、廃校先生です」とあり、続けて「指で数えられるほどの生徒しかいない学校でしか先生はできません」と語られる。限られた人数の子への全力注入宣言でもある。


 ふと、初任で勤めたへき地校から平場の学校へ異動した年を思い出す。重度の不登校の子を受け持った。社会的に話題になり始めた頃だ。情熱でなんとかなると走っていた無能教師は、他の子らに「オレよ、今Kのこと迎えに行ってくるから」と何度学級を空けたことか。そのゆえ、燻っていた問題は見えなかった


 現実に戻れば、今の教師志望者にそれは許されない。それゆえ「廃校」であり、絶滅は目の前といっていいのかもしれない。もっと俯瞰すれば、地域コミュニティの弱体化、人間関係の希薄化を示している。だから、この物語に登場する人物の存在や集まり、語らいは懐かしくもあり、忘れられた濃密さを思い出させる。



 「伝わるのはエネルギー」論は、自分が今も抱えている思想?だ。その関わりで語れば、本来、学校とはエネルギーの行き交う場であるべきで、その姿は非常に小さく弱々しい現状だ。経済至上主義、管理社会の中では非常に効率が悪く、優先度が低くとらえられ、置き去りにされている印象だ。「廃校」のように見える。


 解説の藤原和博は本文から「学校とは種火」という一節を引用し、学校論、地域論を展開している。「いつでも火が熾せるようにしておくために残しておく火」は不可欠である。様々な地域で多くの学校が閉じ、校舎解体が進んでいる。「種火」の重要性を認識し、学校に替り得る「人」と「場」を意識せねばならない。


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