すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

極私的「桜」問題

2018年05月09日 | 雑記帳
 ここ10年は欠かさず県内外の桜を観に出かけた。しかし今年は残念ながらタイミングが合わず、用事が重なったこともあり、叶わなかった。ただ、例年のごとく暇を見つけて二度三度と町内の桜は撮っておいた。町内限定だが継続できた。ずっと撮り続けてきた廃校地の桜が年々勢いを欠いていくことが少し哀しい。

☆今年の桜マイベストショットは→「ただいまのけしき」
 よろしければご覧ください。


 さて、桜の季節も終わりかと思ったらふと頭をよぎったことがある(数年に一度は浮かぶことだが)。小学生の5年6年を「桜組」として過ごした。学年に4学級があり、「松組」「竹組」「梅組」の次にその名前がつけられた。学校内外に様々なエピソードを持つ学級だったが、それは置いといて、何故4番目が「桜」なのだ?


 桜とは日本の「国花」であり、多くの国民が他の花とは異なるランクで眺める花ではないか。また、その潔さは大和魂的?精神性ともマッチしている、特別の存在ではないか。それが「松」「竹」「梅」の後塵を拝しているとは、どういうわけか。もちろん「松竹梅」が昔から縁起物に使われることは承知しているが…。


 そもそも松竹梅の縁起の良さとは何かと調べると、世の中にはいろいろと教えてくれる人がいっぱいあり、勉強になる。中国の故事やら歴史的な登場順など、確かに強い背景があるようだ。しかし単純に納得できたのは、松の「いつでも緑」、竹の「しなやかにまっすぐ伸びる」、梅の「一番先に咲く」という特性だな。


 桜のライバル(笑)たる梅は、なんといっても「」という字がつくりの中にも入っている強さがある。おめでたさという点で言えば、いかに国花であっても見劣りするのか。それにしても「桜前線」報道は風物詩であるし、桜を観ることだけが「花見」と称されるではないか。これほどのスーパースターはいないのに。


 縁起という点では、「潔さ」が逆に働いているとも考えられる。さらに「さくら」という語のもう一つの意味「売り手と共謀する者」が気にかかる。追究してみると「芝居のただ見客」に由来し、「パッと派手なことを言って客集めし、パッと消える」からの連想らしい。いいも悪いも端的さが好きなのかな、我が同胞たち。

言葉こそ敬意の制球力

2018年05月08日 | 読書
 「申告敬遠」とは関わりなくこの新書を読み始めた。そしたらこんな一節が…「結局、敬語を使うということは『敬遠』です。『敬して、遠ざける』という効果がある」。納得!野球の敬遠の正式用語は「故意四球」であり表面上の敬意と言えるが、実際生活では虚実いずれであっても、言葉こそが敬意の制球力となる。


2018読了50
 『勘違いの日本語、伝わらない日本語』(北原保雄 宝島社新書)


 著者は辞典の編纂者。国語学の権威である。前半は敬語、後半は「ぼかし表現慣用句等を取り上げて、現代日本で行き交っている日本語の実態について明らかにしている。学習としては結構難しい敬語だが、まずはその原則について考えさせられた。「敬意を表す対象を見極める」という一言で、言葉遣いを見直せる。


 「尊敬語・謙譲語・丁寧語」はよく言われる。著者はその三つに「丁重語・美化語」を加え5つ提示している。国でも「敬語の指針」として5分類化されている。同じ「お手紙」一つとっても「先生に差し上げたお手紙」と「先生からいただいたお手紙」と「押し入れにあるお手紙」では、語の分類が異なるのである。


 チェーン店の過剰とも思える敬意?表現の間違いはよく指摘されている。自分でもよく理解していない表現もあった。例えば「お申し出ください」という言い方も要注意だ。「申し出る」が目上に対して言う意味なので、お客を対象に使うと、自分が目上になるニュアンスが出てしまう。語そのものを知る必要がある。


 「ぼかし言葉」は自分でもよく使ってしまうので、アイタタタと感じた。何故ぼかすのかは常々感じていて、多くは自信のなさに通じている。いわば、逃げ道の確保…政治家や芸能人の謝罪の言葉などにもよく表れている。「とは思います」「~~という形」「~~的」「とか」…その曖昧さに助けを求めてるみたいな~(笑)


 日本語のウンチク本としても面白い。しかし著者の意図は「伝わる日本語」という箇所にある。そのために「もっと言葉を学べ。言葉をいじることに興味を持ちすぎるな」と警告する。教育に関しても「『話す教育』に偏りすぎ」と指摘する。コミュニケーション能力重視の陰で「読むこと」を貧弱にしてはならない。

その導入が失わせる物語

2018年05月07日 | 雑記帳
 プロ野球中継を見ていたら、「申告敬遠制」なるものが導入されていた。大リーグでも採用されていて、時間短縮や国際的な足並み揃えというのが理由らしい。確かに、初めから敬遠であるのなら投手がわざわざボール球を4球も投げる必要があるのか、という考えはあるだろう。しかし…と思う。そこに物語はないのか。


 かつてかの長嶋が敬遠に対してバットを持たずに打席に立ったことや、新庄やクロマティが無理矢理打ってサヨナラヒットにした…というレベルのことを言っているわけではない。敬遠という駆け引きを、観る側が受け止める心理や次の想像が球場から無くなってしまうのが、残念なのだ。簡単に済ませばいいのか。


 報道によると「投手たちの多くは、投げなくていいのならできれば投げたくないと、口をそろえている」ようだ。敬遠とは投手にはある意味で「敗北宣言」だから、その状態を見られること自体は好まないだろう。ただその「作戦」に対して、当事者である打者、バッテリーらの心境を想像する場は確実に薄くなる。


 チームプレー、データの重視、分業化が野球にも顕著になっている今、プレイヤーの内面に思いを馳せる時は、無駄と言えるのか。それでいいか…と少し検索したら、話題のイチローは「『空気感があるでしょう。4球の間に。面白くないですよ』と異議を唱えていた」とあった。さすがです。そこにも躍動はあるのだ。


 こういう風潮がアマ球界、高校野球などにも波及してくるのだろうか。それは教育的な観点からみたらどうなるか、という思いも湧く。しかしこの導入が象徴する「無駄」の感覚は、やはりゲームの面白さを追求するものではなく、経済的、商業的な観点に依存していることは明確だと思う。世界はそう動いている。

脳はそんな者を味方する

2018年05月06日 | 雑記帳
 NHKの朝ドラ『半分、青い』は、今のところ可もなく不可もなくという感じで見ている。多彩な俳優がキャスティングされているが、まだくっきり迫ってこない気もするのだ。さて金曜の放送で主人公の鈴愛(すずめ)が面白いことを言ったなと感心した。漫画家を目指して上京することを反対される場面があった。


 就職試験を落ちた訳を母親に非難された時、自分はわかっていて正直に立ち向かったと鈴愛は返答した。結果、その意気込みに負け漫画家志望が許されるのだが、後日その返答が「まったく口から出まかせ」だったとサラリという場面がある。あまりに意図的でないその発言は、キャラクターの特徴をよく表していた。


 ここでふとTwitterで紹介されていた池谷裕二氏の文章が浮かんできた。「脳は理由を問われると作り話をします」ドラマ中の鈴愛も、何も考えず言ったのかもしれない。池谷氏の文はこう続く。「しかも、でっちあげたその理由を本人は心底から『本当の理由』だと勘違いしています」そこは微妙だが近い感覚が見える。


 というのは、何故そんな出まかせを言ったかを問われ、「勝負のしどころだと思った」という言い方をしたからだ。問い詰められて本能的にそう感じた脳は、もっともらしい理由を作りだす。池谷氏は言う。「真の理由は、自分ではアクセスできない無意識の世界に格納されています」。そこにアクセスできる力を感じた。


 あくまでドラマ上の話ではあるが、そうした人物こそが波乱の世を生き抜く資質を持つ。ここが分岐点、踏ん張りどころという時に、独特の感性で切り抜ける…それは口任せ、身体任せという面が強いのではないか。天性のものか、培った能力かは違いがあるにしろ、「脳」はそんな者を味方する、と思えてならない。

この危険性を直視せよ

2018年05月04日 | 読書
 我々の世代は子どもの頃に「漫画を読むと馬鹿になる」と言われ、次は「テレビ」そして「ゲーム」等と同様に繰り返された。その真偽はある程度検証されているだろうが、確たる周知の結論にならないまま、ぼんやりと忘れられている。では「スマホ」はどうなのだ。稀代の研究者はかなり危機感を持ち、発信する。

2018読了49
 『スマホが学力を破壊する』(川島隆太 集英社新書)


 一般人に「スマホの悪影響は?」と訊ねた時、コミュニケーションのあり方、使用時間の分別、ネットへの依存等々考えられる答があると思う。それらが「学力を破壊する」まで到るか、と問われれば、多くは使い方次第といった地点で収めるのではないか。自分も含めてそう思った人は、この新書で認識を改めたい。


 仙台市教委との連携調査、全国調査との比較を通して、スマホ使用の危険性が明確にされる。スマホの使用時間と学力低下の関係から導き出された仮説は「①学校で獲得した学習の記憶が消えた、②基本的な学習能力が低下し、学校の授業で学習が成立しなくなった、のいずれか」である。脳への影響は避けきれない。


 身体機能を語るうえで「use it」と「lose it」がキーワードになる。使わなければ衰える。いわゆる便利で楽な状態はlose itを増長する。しかしスマホによる検索、コミュニケーション等は、脳の前頭前野に抑制をかけるlose itという段階でなく、悪いことの起こるdestroy itではないか、という最悪の仮説が提示された。


 著者は「流行っているものを叩くことで自分が浮かび上がろうとする品の無い行為は忌避」してきたと書く。しかし、「その危険性を考慮するに、時代の寵児であるスマホに戦いを挑まざるを得ません」と、「ドン・キホーテ」を覚悟で声をあげる。信頼を寄せてきた研究者がここまで強調することに真摯に向き合いたい。

おいしさは「人」がいるから

2018年05月03日 | 雑記帳
 「1人で食事をとるのは味気ないが、鏡1枚用意するだけでおいしく感じられる」…えっ、どういうこととまず思う。にわかに信じがたいことだが、「孤食の研究」として真面目に取り組んでいる方がいらっしゃる。『通販生活』の夏号に「そこに知りたいことがあるから研究する人たち」という特集があり、その一つとしてあった。


(雑な入れ方だが、まず今年のワラビ初収穫ということで…まだ痩せが多い)

 名古屋大大学院の中田さんらがまとめた研究成果が、米国の科学誌に掲載されたという。実験によって「鏡を見て食事をするとおいしく感じる」ことが証明されたというのである。ううん、興味深い。その方法の詳細は略すとして、実験では甘さやしょっぱさも取り上げられたが変化はなく、「おいしさ」に差があった。


 そこにこの研究の肝があるように思えた。つまり中田さんが書くように「味覚は舌で感じ、おいしさは”心”で感じるということ」なのだ。心理学でよく語られるミラーリング、これはもちろん相手あってのことなのだが、この場合鏡に写った自分の食べる姿を見ることによっても、人の存在を認知できるということだ。


 ミラーリングは好感や信頼関係の基、「鏡の中に人の存在を感じる”鏡食”(きょうしょく)によって、食べる量が増えおいしく感じられる」に通じるのだろう。この脳のだまされやすさ(笑)を利用して、子どもや高齢者等の「孤食」問題に立ち向かえるのかもしれない。しかし、もちろんあるべき姿は「共食」に違いない。


 今さらだが「おいしさは”心”で感じる」はしみじみと重い。どんなに高価で美味といわれる食事であってもおいしく感じない場合があることは、当然なのだ。安心感のある場で、心許せる人たちと共に食べられる幸せは貴重だ。食に限らず、個別消費形態に持ち込んだ経済社会と私たちの責任をもう一度問い直したい。

過去を自分の問題とする

2018年05月02日 | 雑記帳
 今年の伊丹十三賞が、歴史学者の磯田道史氏に決まった。話題になった映画原作の仕事や、テレビ番組の出演などを通して、歴史への興味関心を拡げていることは確かだろう。著書はまだ読んだことはない。手を出してみようかなと思っていたら、JRの広告雑誌が「大人の肖像」というコーナーで取り上げていた。


 わずかな誌面だけれど面白いことを語っている。「あるときから、自分は『閉じたオタク』ではなく、『開かれたオタク』になろうと思いました」。この情報化社会はそれを十分に可能にしている。漫画がいい例かもしれない。オタクと見られていた方々が一歩踏み出せば、オタクという呼称も自然消滅してしまったりして…。


 「AIの時代って、ひょっとすると昔のご隠居社会のようになるんじゃないか」この発言は「開かれたオタク」ともつながっている。つまり単純な労働作業が機械に置き換えられたときに、生活の中心になっていくことは「楽しみ」や「発想」「こだわり」という、人間でないと出来ない中味への移行が益々強まるはずだ。


 趣味だけでなく、仕事自体も、そんなふうに個の興味関心に即したものになるといい。しかし、生産と消費のある社会を維持していくためには「新しい価値」の創造が必須と言えるだろう。そこで、磯田氏は歴史学者らしく「時間と空間が離れたところに存在するコンテンツを結びつけて」ということを提案している。


 身近な例では、古い町並みが観光の目玉になり、文化財の要素を含んだ商品開発がされ、と数えられることは多い。しかしすぐに経済効果に結び付けようとせず、まず身の周りの歴史点検ではないか。どうしてこうなったか…「過去を自分の問題として考える行為」が歴史だという。個の生を、縦の流れで見ることか。

保守は、疑いをもつ

2018年05月01日 | 読書
Volume102
 「保守の土台にあるのは、人間の理性の万能感への疑いです。どんなに賢い人でも間違いを犯すとの前提に立ち、歴史の中で蓄積された経験知や慣習を判断基準とします。」


 ある雑誌のインタビューで中島岳志東工大教授が語った一節。
 「保守」という考え方を、そんなふうに見たことがなかったので新鮮だった。
 単著は読んだことがなく、一冊買い求めたいという気になった。

 こう考えると、普通の人間が年を取っていくと、だんだん保守的になることが当然のように思えてくる。

 通常幼ければ幼いほど、一つの選択において先人(親など)の言うことに沿って方向を定めるだろう。
 しかし、ある頃から(それは人によって違いはあるけれど)経験知や慣習に対しての疑問がわき、縛りつけているものから自由になろうとする。

 そういう過程を経るなかで培った思考の基準線の位置で、保守と名づけられたり、革新的(今どき言う人も少ないが)と称されたりするのだろうか。

 そんなふうに考えてみると、政党支持うんぬんとは別に「革新」と呼ばれる人たちはあまり間違いを経験していない人なのだろうか。
 もしくは、間違ったと感じなかった人なのかもしれない。
 それはそれで生き方として幸せという見方もできる。

 今は革新と言わずに、リベラル(自由)の方が対立軸として使われるようだ。そのあたりの概念区分と、それぞれの立場にある人の実際の言動とどう重なるのか、正直勉強不足だし、なかなかマスコミ報道だけでははっきりしない。


 ともあれ「疑い」を持つ人が、今のいわゆる「保守」にいるかどうかだ。

 中島教授は、こんなことも記している。

保守の疑いのまなざしは自己へも向けられますから、他者の声にも謙虚に耳を傾ける寛容さをもっています。

 これを現在の政治をめぐる状況に当てはめると、寛容さは自己に向けられてばかりで、他者に対する謙虚さが表面だけだ、というところでしょうか。