すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

道を行くか、路を行くか

2016年11月09日 | 読書
 『路(ルウ)』(吉田修一  文藝春秋)

 447ページある結構な長編。読み終えたのが昨朝で、たまたま朝刊に「吉田修一が芥川賞選考委員に」の記事が載っていた。もはや大御所だなと思う。この作品は、台湾高速鉄道開設に関わる女性を主人公にしたストーリーで、いわゆる「事件」に該当する事はなく淡々とした流れで、最初は面白みに欠ける気がした。


 台湾が舞台になる小説は、去年の直木賞作品「流」もそうだが、読み通すうえで人物氏名が一つの壁になると改めて感じた。漢字使用国民としてはいささか恥ずかしい話だが、知っている漢字を発音を変えて読む(イメージをつくる)のは難しい。そういえば、例のキラキラネームに対する見方も似ているかと連想した。



 全編を通して背景を作っている一つの流れに、日本と台湾との国民性の違いがある。それが様々な表現で描写されていて、興味深い。高速鉄道に関わる仕事上のスケジュール変更が典型的に描かれるが、日本人の思う「予定」という意味のとらえ方が根本的に違っている。それは、見方を変えれば生き方そのものだ。


 つまり、予定に縛られるのか、予定はあくまで予定なのか。誰しも後者が本質だとは知りながら、現実として多くの予定に縛られている。そう「自分勝手なことをすれば他人に迷惑がかかる」という、染み付いた道徳的感情に支配されている。その支配へどう対応し変貌していくかが、この話の人物の一つの読み方だ。


 時間感覚の違いを「出かけるまで3時間あるとすれば東京では1時間、台湾では5時間に感じられる」とある人物に言わせていた。そんな地に新幹線という構造的な矛盾にも思いが及ぶ。題名の「路」は台湾の通りの名として多用される。「道」とは異なる意味で、「路」にも「すじみち・行き方」がある。象徴的だ。

エンデバーは無事でなかった

2016年11月07日 | 雑記帳
 意味不明な題づけをしたのは…。先月あたりからPCの調子が悪く、少しイライラしていた。ネット接続はできるのだが、メールソフトからのリンクが機能しないなど面倒なことが多く生じていた。検索をしてあれこれやってみた。最終的にはファイルを残した形ではあるが初期化まで踏み込んだ。それでも駄目だった。


 もう一度、時間はかかってもなんとか復旧させる手はないかと思って調べ、その通りにやってみるが、結局問題は解消しない。以前と同じ初期化ではまた同様。こうなれば、全ての初期化しかないだろうと決断したのが昨日の朝。重要なファイルはコピーしてあるし大丈夫だろう。ソフト関係は入れ直すしかないか。



 結構な時間をかけながら、どうやら復旧なった。ところがこれからが大変Officeを初めとして、必要なソフトを入れ込まないと実質は機能しない。その数の半端ない数、数…しばし絶句。でも考えてみると仕事関係が大半を占めていて、はたして今の自分に必要なのか、と立ち止まる。ダイエットのいい機会じゃないか。


 前向きになったのもつかの間、思わぬ重大ミスに気付いた。メールアドレスの消失。パスワードなどの保存も同様だ。これはうかつだった。PCの買い替えのときは専用ソフトで移したのに、今回は自力でやろうとしたことが墓穴だった。ということで、メールでの交流のある皆様。そんな事情があることをお察しください。


 さて、何がエンデバーか。スペースシャトルの名前ではない。実は知る人も多いが、某メーカーのディスクトップPCシリーズ名である。Endeaver…「真剣な努力、試み」という意味だ。今回の極めて個人的な騒動はある点では当たっていたが、間抜けな結末にもなった。エンデバ、エンデバ(という方言もあったなあ)

勝負する者の厳しさ

2016年11月03日 | 雑記帳
 秋田のバスケファンは今少し落胆したり、戸惑ったりしているかもしれないなあ。一つは開幕したBリーグにおけるハピネッツの低迷。昨年までと相手は違うとはいえ、期待を持って観戦している人たちは悔しがっているだろう。もう一つは、県民にとって特別であったはずの「能代工」が特別と言えなくなったこと。



 過日Bリーグ戦であの田臥選手が16年ぶりに能代を訪れたことが報道された。そう言えばと思い出したことは、彼が高校3年のときだ。能代工が高校3冠を達成した年、まさしく絶頂期と言っていい時期だった。勤務している学校の高学年の子たちを連れて、その能代工バスケ部の「練習」を見に行ったことがあった。


 それは、40代以上の本県教員にとっては懐かしの「ドリームアップ事業」の一環だった。「秋田の日本一を見よう」というテーマを掲げて、県内にあるモノ・コト・ヒトを直接巡る企画を立てた。課外活動としてバスケに取り組む子たちだったので、あの能代工の練習を見ることは一番の楽しみだったに違いない。


 私もあのスター田臥を見られるのかと、いそいそと引率として同行した。ところが肝心の彼と監督は、日本選抜メンバーとして遠征に発った少し残念な日となってしまった。しかしその練習は今でもしっかりと思い出せるほど、無駄なく引き締まった時間だった。子供たちとの交流も準備してくれて、頭が下がった。


 他校が力をつけ、競り合うことは望ましい。しかし心の隅に絶対王者であってほしいという気持ちも正直残る。もちろん、そんな部外者の勝手な思いとは関係なく、一人一人は今日もまた真摯な思いでボールを追い続けている。その時間の総数がどれほどか想像すると、今さらながら勝負する者の厳しさが胸に迫る。

ランドセル押しつぶして

2016年11月02日 | 教育ノート
 あまりにも膨大になりすぎたデータの始末をしたいと、画面を開いてみるが、例によって例のごとくはかどらない。ふと見つけた昔の文章に見入ったりしてしまう。今日、見つけたのは「もしかしたら、詩でも書けるかな」と打ち込んでおいたメモ。ブログには挙げていないだろう。もう十年以上前の出勤時のことだ。




・・・・・・「ランドセル押しつぶして、天を見上げる」2005.5.21記

国道沿いの集落で、スクールバスを待つ子どもたち
やや幅のある歩道は、朝のたわいもない遊び場となる。
その中で一人、歩道に寝転んでいる子がいる。

周囲の子どもたちの喧騒をよそに
その子は仰向けに身動きせずにいる。
その背中にはもちろんランドセル。

適度なクッションとなって身体を支えている。
風が顔の上を過ぎ去る感触でも確かめるように
目を閉じている女の子。

朝の青空の柔らかい日差しを浴びて
ずいぶんと気持ちよさそうじゃないか。
宿題がわからなくて寝不足だったのだろうか。
今朝の朝ご飯を食べられなかったのだろうか。

さあ、バスが来る。
背中の柔らかいランドセルは
今度は肩にかかる荷物となって
君の今日が始まる。

まっすぐを見て歩くんだよ。
教科書をしっかり読み、ノートはていねいに書くんだ。
思い切り遊べばいい。
そして、先生に怒られたり、友達と喧嘩したり
いやなことがあったら
今日のように、ランドセルを背中で押しつぶして
天を見上げてかまわないんだよ。

・・・・・・

結論は「つなぐ」か

2016年11月01日 | 教育ノート
 『つながる読書術』(日垣隆 講談社現代新書)を読んだ。年間に本代として600万円ほど使い、今まで10万冊以上は読破している作家が、自分の読書術を公開しながら「おもしろい」「役立つ」という観点で様々に論じている。到底及びもつかないが、読書の意味は?と問うたメモがあった。結論は「つなぐ」か。



・・・・・「エクササイズとしての読書」2006.4.9

コンビニのBookコーナーに並んでいた『PHP』誌に
「朝の読書」の文字があったので、買い求めた。
その特集はそれとして、
対談コーナーの二人のやりとりに強く惹かれた。

黒鉄ヒロシ氏と小林薫氏である。
タイトルは「頭脳を鍛えるか、肉体を鍛えるか」。
頭脳派?の黒鉄氏と肉体派?の小林氏
そのかみ合い方がなかなか素晴らしい。

小林氏のこんな一言がある。

 昔は筋トレもやっていたんですが
 エクササイズを取り入れると
 微妙に筋肉の質が変わってきます。
 見た目の隆々とした筋肉を作るのではなくて
 パンチを打つなど、実際に使うことで
 筋肉が活性化されていくわけです。


何気なく読み過ごしそうなことばだが
では脳の鍛え方はどうか、と置き換えてみると
読書だけやっていても活性化できるものかと
ふと不安になってくる。

黒鉄氏はこう言う。

「物を知ること」と「鍛えること」は
 通底するんじゃないかしら


この場合の「物を知る」ことは、単に知識量ではないだろうし
鍛えるためには、頭を使う、
つまり知識と知識のつなぎ合わせをどうしていくかが
肝心になってくるだろう。

エクササイズとして読書をする方法もいろいろ考えられる。
頭脳を刺激していくためには
文字づらだけを追っていてはだめだ。
その知識をどう使うか、
思考するだけでよいか、
いや思考するにしても、具体的に何か動かさなければならない。
目は当然としても、口か、手か…

インプットとアウトプットをどう絡ませるか
ただの読書では、もう脳は鍛えられない。

・・・・・・