すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「風景」の中を生きる

2016年11月23日 | 読書
Volume28

  「人はみな、『風景』の中を生きている。それは、客観的な環境世界についての正確な視覚像ではなくて、進化を通して獲得された知覚と行為の連関をベースに、知識や想像力と言った『主体的にしかアクセスできない』要素を混入しながら立ち上がる実感である。何を知っているのか、どのように世界を理解しているか、あるいは何を想像しているかが、風景の現れ方を左右する。」


 第15回小林秀雄賞を受賞した森田真生の『数学する身体』の受賞作抄録にあった言葉である。
 「風景」という語のもつ本質を、これほどクリアに感じたことは今までなかった。



 例えば、絵葉書にあるような風景を目にしたとき、類似した経験の量によって感動は左右されるだろう。

 しかしまた、そこに関わる知識を身につけ、その場で知覚を全開すれば、必ず、そこにしかない線や色、光や風もとらえることが出来るようになる。

 そういう即時性、一回性に向かう精神を鍛えることによって、風景とは常に新鮮である。


 また、例えば今自分が、学校という風景(それは校舎そのものであったり、活動の様子や職員の働きであったりする)に接するとき、一年前と違って見えるのは当然である。

 それは当事者性を失ったことと同時に、現在の知覚と行為において、対象として「学校」をより客観性を持ってとらえているからとも言える。

 ただ、知識と想像力を絶えず行き来させておかないと、風景の現れ方はぼやけてしまうことも心したい。