すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

水曜日5時半からの解放

2016年02月05日 | 雑記帳
 「長かったですね」と担当医は口にした。歯の治療のことである。先週、歯に被せものをしたので終了は近いと悟っていた。そしてとうとう一週間後の点検を終えて解放となった。ずいぶんと長かった。裏に診療予約日を書き込む形の診察券は、すでに3枚目となった。今回の治療だけでまるまる2枚使ったことになる。


 メモしたことを調べてみると、この週からスタート。見込みでは3回ほど患部を消毒したらなんとかなるだろうとの話があったが、それが5回を超え、10回も超してしまった。これほど進展がないとイライラ通り越して、なんとなく惰性で通院しているような気分になった。これも学区内の近い医院だからだろうね。


 実は歯には自信があり40代後半まで歯医者には数えるほど通っていない。結果、歯茎に問題が生じるのは、ある意味怠慢な者の定めか。今も思い出せるが、冬に東京へ、ある実践家を一日参観するために出かけたときだ。痛くて何も食べられず、宿泊ホテルでうなって過ごした記憶がある。あれから、十数年が経つ。


 そこから本格的な治療が始まったが、歯茎の状態は一進一退だった。当時通っていた歯医者は対応がソフトだったので、多少距離があっても苦にならなかった。しかし、主治医?が替わり変化したのでこれじゃあいかんと思い、地元に変更した。この医院では治療の仕方が違っていた。まあとにかく時間がかかる。


 初めは歯列上部の最奥の炎症。「完治は無理」が前医院の方針だったが、この医院ではひたすら周囲の歯垢落としに専念する進め方だった。一カ月半ほどでいくらか改善していた。その矢先の奥歯の破損。しかしそれも炎症の一因のようだった。そこから長い三カ月半、しかし久しぶりの正常状態。晴れ晴れとした気分だ。

煌言23~周辺に存在する事象を拾う

2016年02月04日 | 読書
☆問題解決とは、その事象について、応用が利くことであり、他人に説明できる程度ではない。
 このように、問題解決に至るには、その課題の周辺に存在する事象について解釈レベルの認知が必要で、ひとつの課題だけを問題解決のレベルまで深めることは難しいように思われる。

 横山浩之『診察室でする治療・教育』(明治図書)


 ブルームの教育目標の分類において、認知領域の段階は「想起」→「解釈」→「問題解決」と進む。
 情報の解釈だけでは問題解決とは言えないことは、ごく普通にわかる。
 また特定の限定された課題を解決したからといって、問題解決の能力がついたとは言い切れない。
 これは教科等の学習であっても、生活上の諸事象でも同じことだろう。

 課題解決のために、複数の「周辺に存在する事象」について明確に認知し、解釈することで全体的にじわりと力がついていくのではないか。
 まず、課題に関わる「周辺に存在する事象」を拾い出してみよ。

煌言22~学習訓練は三要素で

2016年02月03日 | 読書
☆学習訓練のもっとも大切なことは、訓練の方法は子どもが教えてくれるということです。これは子どもが「先生、こうするのですよ」と教えるという意味ではありません。(略)子どもの姿を見て、こうしたいという思いを持ち続けると、ヒントが生まれ、アイデアが湧いてきます。
 佐藤康子『子どもが語り合い、聴き合う国語の授業』(明治図書)


 ここで言う「訓練」とは、学習方法の習慣化や仕方を習熟させることと同義である。
 それは、つまり「力」をつけること。
 そのためには「対象を見る」「思いを持つ」そしてそれを「続ける」という三要素が鍵となる。

 これは、帰納法の連続的なイメージだろうか。
 維持していくためには、ヒントからアイデア、そして試行、ふりかえり、再考とサイクルを回す必要がある。

うしなって、得る。か

2016年02月02日 | 雑記帳
 ある雑誌に、モデルの押切もえが「うしなって、得るもの。」と題して、川上未央子の小説の書評を載せていた。内容はともかく、よく使われるこの表現が、先日録画を見たNHK「ドキュメント72時間」の特集で、ある女性が語っていたことと重なった。確か名古屋駅の拾得物センターの三日間を記録した回である。


 ダイヤモンドの指輪を落としてしまった女性が問い合わせに来て、そして翌日また確かめにきた。結婚記念であったその指輪を無くしたショックはかなりのようだったし、家へ帰って夫に話したとき当然ながらびっくりされたという。しかし責める言葉を発せられなかったことに、女性はその表現を使ったのである。


 言うまでもなく、愛情の証として贈られた指輪を失ったが、その顛末を話した時の夫の受け止め方に深い愛情を感じたということだろう。美談的に語られるこうした多くの出来事は、つまり「モノよりココロ」もしくは「失敗、衰退から学ぶ」といったパターンである。しかし、「得る」ためには少しばかり考えがいる。



 偶然ではあるが、夏のオリンピックがある年つまり閏年は、自分にとってエポックになっていることを以前から感じていた。今年に限ってはもう3月末に退職が決まっているので、とうとう来たか2016年、と思った。しかしエポックとして「うしなって、得る」ためには、受け入れ、そして舵をきる決断も必要か。


 実家で正月を一緒に祝った母が数日後に入院し、半月あまり後に逝ってしまった。こればかりは「うしなって、得る」と言い難い出来事で、親孝行できなかったゆえに、身に沁みる思いも少なくない。齢を重ねることがそのまま「失う歴史」になってきた今、量的に得ることより質の変化に沿う精神に向かい合いたい。

煌言21~バラバラなままの教育

2016年02月01日 | 読書
☆日本では、「心」ということばを聞いた瞬間に、ほとんどすべての人々が、無条件で「良きもの」、つまり「自分が良いと思っているもの」と錯覚してしまう。実際には各人の自由な思想・信条・良心から、それぞれがバラバラと「心」をもち、バラバラなものを「良い心」と思っていることを考えると、これは極めて危険な状態である。このため、「心の教育の一層の充実」についてはほとんど全員賛成するが、そこで各人が「教育する」と想定している「心」の内容は、当然バラバラなのである。
 岡本 薫『日本を滅ぼす教育論議』(講談社現代新書)


 教育すべき「『心』の内容」について折り合いをつけることが可能なのか。
 ○×で問えば、それは×だ。
 となると、どんな内容を、どの程度まで行うことが、どれだけの支持を根拠に認められるかによって規定されるということか。

 そのことは、この国の歴史と直結しているではないか。
 また、大きな目で見ると、いわゆる文明、文化の発したところ、どこでも共通すると言っていい。
 こう考えていくと、人間社会におけるギリギリのラインは「バラバラであっても他者を認める」となるか。
 これもまた矛盾している。