すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

煌言28~取り扱い範囲を広げる

2016年02月16日 | 読書
☆受け止められない子がいるのは、自分の取扱い範囲が狭いからであることは間違いない。本当に受け止められるようになるには、コツではない。慣れでもない。本で学ぶこともできない。校門の中だけでは決して学べないことが数多ある。
 平光雄『究極の説得力』(さくら社)


 教育界だけが特殊とは言わないが、その閉鎖性は強く感じる。
 個人的な情報を、しかも子どものそれを扱っている現場であることを考えると、閉鎖的傾向がやむを得ない面もあるだろう。

 しかし、自ら特に仕事の部分を囲っている意識が強いことも確かである。
 そしてそれが子どもとの対応にも波及している。

 教師が「人」に対する取り扱い範囲を広げていくためには、自ら外へ動くこと。
 そういう雰囲気を教育界全体に醸成しなければ、ますます現実と乖離していくと思う。

煌言27~選択肢を用意する

2016年02月15日 | 読書
☆学校の授業でも、答を選択肢にすると、問題の意味が明確になり、楽しい授業を実現する道が開かれるようになります。研究を進めるときも、可能な選択肢を用意するのが一番です。「選択肢つきの問題提起ができたら、半ば問題を解決したに等しい」ともいえるのです。
 板倉聖宣『発想法かるた』(仮説社)


 「問う」という行為について、きわめて具体的な処方を示している。

 ぼやっと問いに向かい合うのではなく、仮説をもつこと。それも複数持つこと。

 答を選択するための筋道は多様ではあるが、その前段階でまずこうした思考があれば、ずいぶん整理されて、足を踏み出しやすくなる。
 
 こういうシンプルな見解は、様々な場で応用が利く。

あれもこれも彼だった

2016年02月13日 | 雑記帳
 もう少しギター弾きが上手ければプロデビュー!…なんて、可能性は砂粒以下の戯言が思い浮かぶ。だからこそ、ギタリストには羨望の目をいつも向けていた。それゆえ?買うのは洋楽、邦楽を問わずボーカリスト優先だったなあ。だから、今数少なく残っているLPレコードにギタリストのアルバムがあるのは驚きだ。


 その1枚が松原正樹である。「Take a song」…今はアマゾンで検索しても見つからない。そのレコードを一年に一回ぐらいはターンテーブルに乗せる、レコード盤ゆえにその程度でも愛聴盤と呼んでいいだろう。様々な曲調があるが、やはり一番の特徴は伸びやかさかなあと思う。ギターが上手いってこういうことだ。


 今回の訃報を聞いて、改めてその守備範囲の広さに驚いてしまった。自分が頻繁に聴いていたのは80年代中頃まで。スタジオミュージシャンの仕事も多かったのは予想できたが、フォークからポップスまで、本当にあれもこれも印象的なフレーズを弾いていたなあ、と早朝からyoutubeに釘づけになってしまった。


 追悼のページを眺めていたら、なるほどと思う表現に出会った。「松原は、そのフレーズがなければこの歌が成立しないというくらい歌に寄りそったメロディックなギター・ソロを意識して弾くように心がけたという」。他にも上手いギター弾きはいるが、寄り添いを超えて曲を輝かせたという意味ではベストと思う。合掌。

結ぶ読書

2016年02月12日 | 読書
 『考えないヒント アイデアはこうして生まれる』(小山薫堂 幻冬舎新書)

 この本の結論は「はじめに」にもう記されている。
 曰く「重要なのは、考えるテクニックではなく、自分の体をアイデア体質に変える、ということ」。
 その体質改善?変革?のために著者が現実に行った例を豊富に繰り出しているのが本書である。
 まとめることは困難だが、確実に言える一つとして「面白がる習慣」があるだろう。また言い換えれば「楽天的思考」とも言えるだろう。

 ふと思い出したのは、この新書が出た頃だったはずだが、かのS・ジョブスが大学卒業式でスピーチした「点を繫ぐ」ということ。
 世に出ていく人には共通点が多い。


 『暮らしの雑記帖』(永江 朗  ポプラ社)

 洒落た表紙である。ぜひ写真だけでも見てほしい。
 著者名のある部分が「生活明細票」になっているところなど、センスの塊のようだ。
 「衣食住」を自分なりの順位で、「食」「住」「衣」「暮」と並べ、それぞれに自分の愛用しているモノなどについて記している。
 「ジーンズとTシャツ」「散歩と靴」「風呂敷とトートバック」といったように、関連づけられるテーマで書いている項目もあるが、まったく異なる二つ、例えば「双眼鏡と和菓子」「おやつと万年筆」「iPodとステテコ」といったような内容もある。

 その共通点(ある面こじつけだが)で結ぶところが、永江流なのだと思う。
 「生活保守主義」という用語も出てくるが、自分の流儀を貫いて生活できることは、今の世の中では案外硬い決意が必要かもしれないと感じた。

煌言26~教師が信じ明るく問う

2016年02月11日 | 読書
☆どうすれば相手の態度が変わってくれるのでしょうか。それは、お説教ではなく、ストーリーを作ることです。ストーリーとは、「なぜ、それをやることが必要なのか?」「それをやると、どんないいことがあるのか」といった行動の核心とも言うべきもの。それを相手に理解させるように導くことで、相手の心を動かし、態度を変えようと思う気持ちが生まれるのです。
 向後千春『いちばんやさしい教える技術』(永岡書店)


 人間はそんなに変わらないことを前提に、新たなことを「教える」ために相手をどう仕向けていくかが語られている。
 もちろん、そのためにはストーリーを引きだす質問が大切だ。

 単純に考えれば、これは小学一年生にも当てはまると言えるだろう。
 一斉指導が適用場面の多くを占めるとすれば、複雑な質問では無理だろう。
 これから学習しようとする事柄についての価値を、教師が信じ、明るく問いかけること。

 これがさらっと出来るためには、結構な練習が必要だ。

言葉を残すという愛情

2016年02月10日 | 読書
 変な題名の詩集だなと思い、手に取ってみた。

 『学校は飯を喰うところ』(曽我貢誠  文治堂書店)

 ぺらぺらとめくってみたら、失礼ながらちょっと自分には向かないかなと思い、戻しかけた時に「あとがき」(実際には「詩集に寄せて」と題した寄稿だった)の喜岡淳治氏(成蹊大学)の名前が目についた。

 授業づくりネットワークの集会などで何度かお見かけし、論文などを読んだこともある。
 そこで少し気合いが入って著者略歴をみたら、なんと秋田県出身の人ではないか。何かの縁で出会うことも読書の醍醐味だろう。


 東京のいわゆる下町の中学に、三十数年勤めた教師の述懐とも言うべき詩が並んでいる。
 その作品の質がどうなのか評価できる力量はないが、確かなのは、作者が子どもや同僚へ向ける眼差しの温かさである。

 象徴的なのはこの題名「学校は飯を喰うところ」
 なんのことか、まったく予想がつかず、どんな文脈のなかで出てくるのか検討がつかなかった。

 家庭的に恵まれない「ブーニャン」という生徒を取り上げた。
 その生徒は「学校、何しに来ているんだ」と問われ「飯食いによ」と答えた。
 その言葉の意味を反芻し、出来あがったのが表題の詩なのである。

 そこには、様々な劣悪と呼んでいい環境の中で育つ生徒に対する愛情がある。
 次の三行には生徒の言葉が示す現実を、深く思考した跡が見える。

 もしかしたら
 勉強も飯を喰うためということを
 はじめから知っていたのかもしれない



 この子だけではなく、障害を持った生徒、自己中心性が異常に強い生徒、ひどく消極的な生徒、そして、ごく普通の生徒(の悩み)…気取らず、衒わず、そのままの姿で書き表されている。
 強い感動はないが、安堵感のある詩集と言えるだろう。

 同年代だからだろうか、若い時に飲みに連れて行ってもらった先輩教師はまったく同じことを言っているものだと改めてニヤリとした。
 そこには東京も秋田もない。そしてその現実が全く変わったこともまた同じだろう。

 先輩の一言は「飲んだ次の日は 這ってでも、絶対学校に来い。」

煌言25~往来を喜ぶ精神

2016年02月09日 | 読書
☆本当に、感動・感激・感謝をもって「理解する」のは、一部の人にだけ必要なことではなくて、みんなに必要なことなのだ。そういった意味で、どんな学校でも「子どもの感性培う教育」を考えなければいけない。
 坪田耕三『素敵な学級づくり 楽しく・優しく』(教育出版)


 「感性を培う」ではなく「感性に培う」である。
 一見、助詞の誤りと思わせるが、そこに深い意味がある。
 どちらの助詞をつかったとしても、子どもの感性を信じることが基盤になければならない。

 一人一人の持つ感性を引き出したり、お互いの感性を結んだりすることの中に教師の役割がある。
 坪田先生の強調しておられるのは「共創」という姿勢であり、お互いの往来を喜ぶ精神が必要になる。

2月8日、こと始め

2016年02月08日 | 雑記帳
 2月8日朝、日めくりカレンダーをめくると「針供養」とともに「こと始め」ということばが目に入ってきた。聞いたことはある。何かを始めるということか、ことを始めるのに適した日なのか、そんな感じだろうと予想しつつ、はっきり知りたいと検索しこのページへ。なるほど。「事」の2種類の意味づけが深い。


 それにしても「こと」は指し示す範囲が広いことばである。自分もよく使っている。改めて辞書で意味を見ていくと、「形式化」や「名詞化」なんだなということがわかる。また「明確に言える物を、不明確な事態であるかとのようにぼかしてさしていうのに用いる」という意味には納得する。少し逃げている表現だ。


 それはさておき「こと始め」の2種類の「事」は明確だ。一つは「正月(行事)」、もう一つは「農事」。歴史をたどれば、時期的に2月8日が正月の祭事が終わる日であり、農事が始まる日と考えられたのは合点がいく。今に置き換えたとき、前者はそのままであっても、後者は「農事」ではなく「仕事」と考えられるだろう。


 年度末が近いこの時期に始まりもないだろうが、1年間通して何かをやり続けるには少なくともこの辺から…というイメージで捉えられるかもしれない。年度末まではLastChanceとなる日だろうか。となるとプレッシャーがかかる。それより何か「こと」が起こる日、と妄想すると少し怖い。そりゃ「こと」だなあ。

いぶかしい国語辞典

2016年02月07日 | 雑記帳
 正月休みで古本屋へ出かけたとき、どうしようかな2000円を超すようじゃちょっと、と買いあぐねた一冊があった。それが今回同じコーナーに行くと、版は違うが980円と低価格のものがあり買い求めてきた。『新明解国語辞典』だ。以前(たぶん学生時代)に買ったことがあるのだが、紛失して今は手元になかった。


 電子辞書に入っているモデルがあればそれを、と思っていた。しかしなかなか見つけられず、またアプリ購入とまではいかないので、結局のアナログパターンだ。一つ前の「第六版」だが、以前とどのくらい違いがあるのか。このブログに関連のことを書き散らしていたので、それをもとに少し調べてみることにした。


 9年前に、「なんで『なんで』なんか使うんだ」と授業参観中の子どもの言葉遣いをもとにした小文を残していた。そこにも「新明解」で調べていた。その「なんで」を引いてみたら、なんと説明の文章が違っていた。第六版にはこうある。「㊀ その理由がわからなくて、いぶかしく思う気持ち」。ずいぶんと変わった。


 以前調べながら詰めていったことに近づいているではないか。ちなみに昨年購入した電子辞書の中の『精選版 日本国語大辞典』を調べてみた。ずいぶんと近い表現がとられている。「➀理由・動機の不明なさま、また、相手の言動をいぶかる気持ちをあらわす。どうして。なぜ」この表記が参考になったのだろうか。


 ここからは少しお遊び。あまり使わない言葉といえる「いぶかしい」を新明解で引く。「何か隠された(理解に苦しむ)所が有って、その原因を突き止めたい気持ちだ。不審だ。」なるほど。また「いぶかしく思う」「いぶかる」とあるように動詞化しやすい面ももつようだ。例えば「いぶかしがる」「いぶかしむ」もある。

煌言24~知情意のMAXを

2016年02月06日 | 読書
☆児童指導でも、父母懇談会でも、どんな場面でも、最初の瞬間を初動教育の機会ととらえ、その機会に、全力で動機付けの話を情熱的に訴えることが、その後の授業を成功に導く最大のポイントになるのです。
 田中真澄『感動の初動教育法』(ぱるす出版)


 出会いの瞬間、最初の立ち上がりの時間を大切にするという考えは、教育に直接携わる者であれば誰しも意識する。
 それを「強く」意識することが「初動教育」と言える。
 
 「動機付けの話を情熱的に訴える」…それは、内容を細かく考えてみる、演出に工夫を凝らす、リードする者としての強い意志を明確に伝える…といった要素で成り立つ。
 とすると、初動教育と名付けることは「知情意」のMAXをそこで発揮する覚悟なのだなと思う。