すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

こんな助言の目指すこと

2012年06月12日 | 雑記帳
 先週の講演の配布資料(レジュメ的な文章)を見直している。
 講演時には確か一度しか触れなかったが,結構興味深い記述になっている。

 「対立を克服する五つの方法」という項目が目を惹く。

 ○留保条件の活用
 ○部分合意の活用
 ○段階的解決
 ○発想転換による問題解決
 ○第三者による調整


 これを,小学生(まあ高学年と思うが)の学習活動の助言に当てはめたら,こんなふうになるだろうか。

 「ここはそのままにしておくところ,待ってもらうところがあってもいいよね」
 「二人の意見があうところだけを探してみようよ」
 「少しずつ解決してみようよ。小さなことでいいからね」
 「今まで思いつかないことを出してみたら,ひらめくかもしれない。いっぱい出してみようよ」
 「誰かに相談してみるという手もあるんじゃないか」

 こんな助言をしてこなかったわけではないが,解決を促すために区分されたものがあると本当に考えやすいね。

 結局,こういう言葉かけの根本には,次の点を明確に考えておく必要があるのだろう。
 読んでみると,しみじみ自分の発想転換を迫られていることが見えてくる。

 合意形成を唯一の目的としない対話

多様なことへ向き合うために

2012年06月10日 | 雑記帳
 金曜日の公開研究会の全体会講演講師は、多田孝志氏であった。
 http://www.mejiro.ac.jp/univ/professor/files/tada.html

 「対話」に関する第一人者として知られているそうだが、個人的に名前はどこかで見かけた…という程度の認識しかなかった。

 なかなかユニークな講演であり、楽しく拝聴した。
 ざっくばらんな口調にやや甲高い声が混じることがあり、また途中で参観者にペアによる動作を要求したりして、さすがに大学の授業についていつも真剣に準備していると豪語?するだけのことはある。

 「現代社会の課題」から始まった内容は、かなり急ぎ足で「対話力の育成」までつながる流れで、印象的な話がいくつかもあった。
 次の一言は強烈だし、おそらく一番の問題でもあると感じた。

 「多様なことはいいことだと、本当に先生方が思わなくちゃ駄目だ」
 
 情報化、グローバル化が進み、「多文化共生社会」が目の前に近づいてくるという予想はできる。
 しかしまた同時に、そんなに進まないのでは…、自分はこのままの方がいい…という内なる声もまだ強く残っている。

 現実に、つい数ヶ月前に身の周りで起きた、異国籍の子どものある出来事を思い出せるが、それも特殊なこととして位置づけたい自分がいることは認めざるを得ない。

 今置かれている環境の中で、「多様」なことは本当にたくさんある。それを自分は「いいこと」だと認識できているか。
 正直にいえば、やはりそれは「面倒」であり、解決すべき「問題」として目の前にあると言ってよい。

 ただ、以前よりは自分の心がけとして、その立場について時間をかけて考えてみる、また少し俯瞰して関係性をとらえてみること、など意識していることは確かのようだ。
 必要に迫られての消極的な姿勢であるようには思う。しかし、そういう繰り返しの中で何かを見つけていくしかあるまい。

 そうなると、講演前段の講師の一言を肝に銘ずることは大切だ。

 「完全な理解はできない。一点で突破できるようにしなくてはならない」

 よく聴く、わかるように説明することなどの手法の価値づけが、少し違って見えてくるような気がする。

対話というナマモノ

2012年06月09日 | 雑記帳
 付属小学校の公開研究会に久しぶりに参加した。
 元同僚が今春より勤務したので、その初めての公開授業が楽しみだった。
 
 「仲間と共につくる 豊かな学び」という研究主題、そして副題として「『対話』を通して思考を深める授業づくり」が掲げられている。
 不遜な言い方をしてしまうが、なんだか普通だなと思った。

 キーワードは「対話」。それを流行とは呼びたくないが、教育計画冊子を一読しても、それほど新鮮に感じられないのはどうしてだろうか。
 次のような文章がある。

 本校では「対話」の概念を、「ペアになって話す」といった話合いの一形態を表すような狭義の意味ではなく、より広義の意味でとらえていく。

 もっともなことである。
 この文言に関連して、少し前から自分の中にある一つの問いが生まれている。

 対話の基礎体力

 これは、劇作家平田オリザ氏が月刊誌の連載で用いた言葉である。
 そこで氏は、小・中学校では対話の技術ではなく「対話の基礎体力」をつけてほしいと書いている。
 対話の基礎体力とは何か、そしてどう育成していくべきか、それが一つの問題意識となっている。

 従って、付属小で考えている広義のとらえは妥当とも思えるのだが、それではあれも対話、これも対話であって、かなり広範囲の活動を指し示しているに過ぎないのではないか、などという考えも浮かぶ。

 つまり理念、目的としての対話と、活動、手段としての対話が錯綜していることがなんとなく落ち着かない。
 ここはすっぱり、対話という形式を絞り込んで突きつめてほしかったなあ、というのが正直な感想である。

 もちろん参観した授業はどれもさすが付属の教員であり、主張もあったし、レベルも相応のものだったと思う。
 しかしどこか迫力が感じられなかったのはなぜだろう。

 全体会講演で、講師が話されたなかに「ずれ、とまどい、失敗を大事にする」という一言があった。
 そういうナマモノ的な部分が少なかったのかなあ…そんな印象が残る。

 これはやはり研究の方向とかかわるのではないか、と思えてきた。

音読指導が振るわないとすれば

2012年06月07日 | 教育ノート
 昨日,国語科の校内研修会を開いた。
 今まで勤めていた二校では外部から著名な講師を招いた形で続けてきたが,今年はちょっと趣向を変えてみた。
 知人の指導主事がいるので,私と二人で最初に模擬授業提示をし,その後質疑応答,協議そしてまとめとして助言で締めてもらうというパターンを考えた。
 今月,来月そして秋と連続3回のセミナーっぽく行う予定である。

 最初の昨日は,音読を取り上げた。
 模擬授業を含めた内容の詳しい吟味はまだであるが,「緊張感」「多様性」「バリェーション」といった言葉とともに「楽しかった」という感想が多くあったようなので,ひとまずいいスタートをきれたと思う。
 来月は「読解」と大きく決めてある。詳細はこれからとなるが,自分自身も楽しみながら取り組めたらよいと思う。

 ところで,その研修会を行うにあたって,ちょっと読み返してみた文章や,事前に悩みを訊いたことなどから,ある思いがふと頭に浮かんだ。

 多くを学ばせてもらっている杉渕さんや堀さんが共通して言っていることに,「多くの教師は音読を大事と思っているが,あまり実践されていない」という認識を持っていること。
 そして,(おそらく多くの)教師に指導上の悩みを聞くと「個に応じた音読指導」と口にすること。

 これらたった二つから,「個に応じた指導ができにくいので,音読はあまりやらない」という強引な結論を導きだせるわけではないが,どこかつながっている気もする。

 音読に限らないことなのかもしれない。
 様々な活動と比較しながら検討することかもしれない。
 そこを承知で極めて直観的な考えを吐き出してしまうことになるが,二つ浮かび上がっている。

 音読指導があまり振るわない(とすれば,その)理由は…
 「声を出す活動に教師がしっかり向き合えない」
 「学習形態に即した指導の運用ができない」

 まずは範囲を限定して音読指導を組み立てる構えがあれば,改善に向けて歩みを進められるだろう。
 そしてその次は…と考えてみるが、進める前に確認が必要だな,と自分の課題を作ってみる。

隠居の道遠しだが

2012年06月06日 | 読書
 隠居…憧れる言葉だ。
 落語の世界にいる「ご隠居」や水戸黄門をうらやましく思う。
 そんなこともあって?こんな本を読んだ。

 『隠居学』(加藤秀俊 講談社文庫)

 読み終えて(いや,読み始めて少しの時点から)結論がわかる。

 隠居になるには,博学でなければならない。

 それは,クイズ的な雑学ではなく,世の中の様々な分野において幅広く(といってもいくつか選んで)追究した人にだけ,ゆるされる称号のように思えてくる。


 もはや叶わぬ願いと知りつつ,少しでも知識をふやし「プチ隠居」程度は目指したい。そのためにも,へぇぇぇと感じた新知識やら視点などを書きつけておく。

 そもそもマンネリズムというのは「マナー主義」ということである。

 マンネリを打破して,なんて言ったりするが,そもそもそれはある意味マナー違反ということなのだろう。しかしたぶん歴史はそうやって作られてきた。
 マナーを知る頃は,若さをなくすのも世の常か。

 日本に「宗教」はない。しかし「信心」はある。およそ世界には「宗教圏」と「信心圏」があり,日本はその後者に属している。

 ああこれはなるほどである。私たちが祈っているのは特定の誰かではない。まさしく得心である。

 もう一つ,「ハレ」と「ケ」に関する記述が興味深かった。
 「ケガレの構造」と名付けられた章では,「ケ」が「枯れる」ことを「ケガレ」と推論した説から,いろいろと話を進めている。

 そこでふと思ったのは「ケジメ」という言葉。
 手元の語源辞典では囲碁用語から出たとされるが,「ケ」を「締める」ことを「ケジメ」と言ってもよくないか。
 つまり,日常の平凡さに仕切りをいれてみるという解釈…こんなふうに遊ぶのが道楽の世界だ。

 半歩,隠居に近づいたような。

集中力と脅え

2012年06月05日 | 読書
 人間は絶対的に平和な環境で暮らすことが可能になったからこそ,生物として初めて集中力の使い方を覚えたのかもしれないね。
 中村うさぎ『オトナのための脳科学』(『波』5月号・池谷裕二との対談より)

 池谷は「動物には集中力は必要ありません。というよりも,集中力があってはまずい」と語る。
 それは目の前の食べ物に集中していたら,逆に自分が食べられてしまう危険性を大きくするところから来ているという。

 しかし,人間みたいに一つのことに集中している動物は他にはない,と言われても実はびんとこないところがある。
 集中力が続かないひけ目か。

 心理的なことを考えていれば,その理由は何かに脅えているから…ということになる。

 自分のことはさておき,そういう子どもも現にいるわけで,何に脅えているか明確にし,それを取り除けば集中力は発揮できる可能性がある。
 面白い論だ。

サイッ、余計なことを

2012年06月02日 | 雑記帳
 避難訓練があったので,「防災・減災」といったことをちょっと考えていて,ふと気になったのが「災」という字。

 上の「くが3本」は,川だろうなと予想を立てながら,ちょっと調べてみた。

 案の定,「川」から「くが3本」ができ,その字を「サイ」と読む。その字と「火」の組み合わせで出来たのが,「災」である。
 「くが3本」自体が,その中央に横線が入って,「水流が塞がれてあふれ流れること」つまり洪水の災難を表わしているという。

 水害に火を加えて,すべてのわざわいとしたところに,昔から「順調な生活をはばむ自然の出来事」という意味の重さを想像する。



 辞典を読んでいて関心をもったのは,他の「サイ」という漢字である。

 多くの同音語があるが,「裁(切りとめる)」「材(切った木)」「宰(切る)」などが,同系の言葉として紹介されている。

 そこから「サイ」という音だけ考えて,漢字を拾ってみると「殺」や「砕」,「切」「塞」「責」などがある。

 この音の持つ響きが,何かを切ったり,断ったり,絶ったりすることに合うのだろうか。発音自体がシャープ?なので,どちらかと言えば,厳しい印象の持つ字の読みにふさわしいのかもしれない。

 秋田弁では,「サイッ」もしくは「サエッ」という言葉を,「しまった」という場合に使うなあということも思い出した。

 そういえば「妻」という字もあった。

 余計なことを考えてしまった。

ゴガツが過ぎてサツキもサジキも

2012年06月01日 | 雑記帳
 勤務校が変わり,二ヶ月が過ぎた。
 月末なので,改めて机周りを片付けたら,案の定というか,失くしてしまったと思っていた大事な書類が二段目の引出しの底に貼りつくように沈んでいて,何だよう今さらと思わず呟き,二週間ほど前のあたふたを思い出してしまった。

 五月は連休に始まるのが常だが,運動会といった行事,諸活動そしていわゆる教育計画等のカキモノを仕上げてしまう時期なので,なんとなく慌ただしい。
 ただ子どもたちにとっては新学年,新学級が身についた頃だし,自分もそろそろ子供たちの顔に馴染んできたように感じている。電話口で勤務校を間違えたことはなかったが,一瞬言いよどむ感覚も残っていたように思う。そろそろ完全に現任校モードと言っていいだろう。

 つくづくこの教員という仕事には転勤があることが救い?だなと感じることが多くなった。
 同じ場所で,同じ地域に育つ子供たちを,同じ職員で育てていくというのは,ある意味の理想ではあるが,それがずっと長期間続くことを想像してみると,辛くなるのは目に見えている。同感する人も多いのではないか。

 人の性向はそんなに変わらないものだが,異なる地域と異なる同僚との出会いによって刺激されながら,子どもたちに向えることは,また何か新しい燃料を自ら引き出すことにも似ていて,それがある意味で新鮮さを維持していくことに通ずるだろう。

 ともあれ,また散らかり始めた机上や引き出しの中から,灰汁のようなものを捨て去って,一学期の一番の山場ともいうべき月へ向いたい。

 このあたりでは「サジキ」という言葉がある。「田植え」を指している。
 当然「五月(さつき)」から来ている。農村地帯では今もって大仕事であるサジキも平年並みに,先週あたりから最盛期である。
 花のサツキの見頃は,実はこれからだ。

 実りを信ずる色鮮やかな季節を嬉しく受け止めたい。