付属小学校の公開研究会に久しぶりに参加した。
元同僚が今春より勤務したので、その初めての公開授業が楽しみだった。
「仲間と共につくる 豊かな学び」という研究主題、そして副題として「『対話』を通して思考を深める授業づくり」が掲げられている。
不遜な言い方をしてしまうが、なんだか普通だなと思った。
キーワードは「対話」。それを流行とは呼びたくないが、教育計画冊子を一読しても、それほど新鮮に感じられないのはどうしてだろうか。
次のような文章がある。
本校では「対話」の概念を、「ペアになって話す」といった話合いの一形態を表すような狭義の意味ではなく、より広義の意味でとらえていく。
もっともなことである。
この文言に関連して、少し前から自分の中にある一つの問いが生まれている。
対話の基礎体力
これは、劇作家平田オリザ氏が月刊誌の連載で用いた言葉である。
そこで氏は、小・中学校では対話の技術ではなく「対話の基礎体力」をつけてほしいと書いている。
対話の基礎体力とは何か、そしてどう育成していくべきか、それが一つの問題意識となっている。
従って、付属小で考えている広義のとらえは妥当とも思えるのだが、それではあれも対話、これも対話であって、かなり広範囲の活動を指し示しているに過ぎないのではないか、などという考えも浮かぶ。
つまり理念、目的としての対話と、活動、手段としての対話が錯綜していることがなんとなく落ち着かない。
ここはすっぱり、対話という形式を絞り込んで突きつめてほしかったなあ、というのが正直な感想である。
もちろん参観した授業はどれもさすが付属の教員であり、主張もあったし、レベルも相応のものだったと思う。
しかしどこか迫力が感じられなかったのはなぜだろう。
全体会講演で、講師が話されたなかに「ずれ、とまどい、失敗を大事にする」という一言があった。
そういうナマモノ的な部分が少なかったのかなあ…そんな印象が残る。
これはやはり研究の方向とかかわるのではないか、と思えてきた。
元同僚が今春より勤務したので、その初めての公開授業が楽しみだった。
「仲間と共につくる 豊かな学び」という研究主題、そして副題として「『対話』を通して思考を深める授業づくり」が掲げられている。
不遜な言い方をしてしまうが、なんだか普通だなと思った。
キーワードは「対話」。それを流行とは呼びたくないが、教育計画冊子を一読しても、それほど新鮮に感じられないのはどうしてだろうか。
次のような文章がある。
本校では「対話」の概念を、「ペアになって話す」といった話合いの一形態を表すような狭義の意味ではなく、より広義の意味でとらえていく。
もっともなことである。
この文言に関連して、少し前から自分の中にある一つの問いが生まれている。
対話の基礎体力
これは、劇作家平田オリザ氏が月刊誌の連載で用いた言葉である。
そこで氏は、小・中学校では対話の技術ではなく「対話の基礎体力」をつけてほしいと書いている。
対話の基礎体力とは何か、そしてどう育成していくべきか、それが一つの問題意識となっている。
従って、付属小で考えている広義のとらえは妥当とも思えるのだが、それではあれも対話、これも対話であって、かなり広範囲の活動を指し示しているに過ぎないのではないか、などという考えも浮かぶ。
つまり理念、目的としての対話と、活動、手段としての対話が錯綜していることがなんとなく落ち着かない。
ここはすっぱり、対話という形式を絞り込んで突きつめてほしかったなあ、というのが正直な感想である。
もちろん参観した授業はどれもさすが付属の教員であり、主張もあったし、レベルも相応のものだったと思う。
しかしどこか迫力が感じられなかったのはなぜだろう。
全体会講演で、講師が話されたなかに「ずれ、とまどい、失敗を大事にする」という一言があった。
そういうナマモノ的な部分が少なかったのかなあ…そんな印象が残る。
これはやはり研究の方向とかかわるのではないか、と思えてきた。
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