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「断景」という言葉が語る

2009年08月06日 | 読書
 『星に願いを~さつき断景~』(重松清著 新潮文庫)

 「彼らが生きた1995年から2000年までの六年間の、それぞれの五月一日を取り出す」形で物語が進行する。彼らとは、タカユキという十代の若者、三十代のヤマグチ、そして五十代のアサダ。連作短編的と言えないこともないが、結局三人の人生がどこかで交わることもないので、まさに「断景」である。

 それにしてもこの「断景」、意味は想像できるが、辞書にはまったく該当なし、ネット検索してみてもこの「さつき断景」のみしか出てこないという、極め付きの重松的造語と言えよう。
 日付限定であり、しかも人物や設定もかなり限定されているということが「断」に込められているのだが、この漢字は厳しい響きだなあと改めて思う。二度目の文庫化によって「星に願いを」と改題された意図は、そのあたりにもあるかもしれない。

 ルポタ―ジュも手がける著者らしくある意味淡々と事実が記される部分が効果的に挿入されている。巻末の案内文はこう記される。

 阪神大震災、オウム事件、少年犯罪…不安だらけのあの頃、それでも大切なものは見失わなかった。
 
 ウェブ上の紹介には「大切なものはいつもそこにあった」と書かれていて、その微妙な違い?が私には大きく感じた。
 つまり95年は、大切なものがなくなっていくことが顕在化した年は考えてもよくないかと思う。世の中を揺るがした大きな事件、天災があり、人々は大切なものをたくさん失った。
 当事者でない人間にとってはその喪失感は程度の差があるのだろうが、周囲を見渡しても今まで自分を支えてくれていた大切なものが姿を消していくことが顕著になった時期とも言えるのではないか。

 その中でもがき苦しみながら、何かしらの生きる縁はあったという物語なのだろうが、「見失わない」と「そこにある」という表現の重なりから見えてくるものは、自分の近くにあるけれどしっかりつかみきれていないという意味でもある。

 人間の弱さを丸出しした三人が、それでもなお生きるために、目に見えないものをさがしている景色が語られた。
 それがまた常に危うさと背中合わせであることも、断景という言葉の響きと重なっている。

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