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気配は「自分問題」を迫る

2018年06月25日 | 読書
 たぶん著者ぐらいの年齢(30代半ば)のときだったと思う。二つの年下の女性教師にこう言われた。「先生はいつも重箱の隅をつつくような話をするから…」。授業研究の場では嫌われていたろう。おそらく当時の自分には、著者があとがきの末尾に示したような思いが強くあったのだと、今懐かしい気持ちになっている。

 「いちいちそんなこと言わなくてもいいのに、と思うのだが、今、いちいちこんなことを言わなくてはいけないのだ、と思い直している。」

2018読了63
 『日本の気配』(武田砂鉄 晶文社)


 「気配」とはよく付けた。似通っているが「空気」とは違う。空気は、いわば知らず知らずのうちに漂っていて、たいていの人にとっては「読む」には容易いものだ。しかし気配は、自らが積極的に「察知」していく必要があるものだ。空気よりははるかに姿が見えにくい。そして知らないうちにズバッと斬られる?


 著者は今この国にある「空気読め、では見つからない、気配の在り処を見つけていきたい」と書く。そして、お笑いから政治まで私たちが見聞きしている(また気にも留めずすぐに流されるような)情報のあれこれを拾い出し、徹底的にその言葉や背景、見透ける心理などを暴いている。日常の場も真っ先に対象になる。


 第一章冒頭は「ヘイトの萌芽」と題され、知人マンション内での口論を描いている。「てゆうかあいつ、中国人なんだよ」をオチに使うような会話、風景に潜む社会状況、心理を探り、返す刀で自分自身の経験を振り返る。それは「社会問題」が急に「自分問題」として接近してきたときの、在り方を深く問うものだった。


 一貫するのは「弱者の視点」。政府や大企業の奮った弁舌に鋭く突っ込み「強者が握っている弱者のデータは、弱者の実在ではない」と言い切る。警戒すべきは、弱者が安易に流れに組み込まれることである。五輪誘致を例に「一番恥ずかしい」のは「どうせやるなら」派と書く。ある気配に負けた証拠になるのだろう。