すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

ずっとキニナルきっと

2018年06月28日 | 読書
 今月号の『ちくま』は、なんとなく引っかかる、つまり「キニナルキ」が多かった。その場限りではなく、ずっと心の中に佇みそうな一節ばかりだ。


Volume110
 「平成の三十年は不思議な時間だ。多くの人があまり年を取らない。(中略)昭和は、その後の「終わり」が見えなくてまださまよっている……としか思えない。」

 作家橋本治が「人が死ぬこと」と題して、そんなふうに平成を語っている。
 昭和生まれの感慨か。といっても昭和生まれには、ずいぶん幅がある、そのがさまよう姿を作りだしているということもできないか。


Volume111
 「現代詩が一般の人にとって受け入れがたいのは、その文脈の飛び方をおもしろがるということに不慣れな人が多いからじゃないかなあ。そういう言葉の楽しみ方を、私は学校で習った覚えがないぞ。」

 詩人最果タヒが「歌詞」の文章について語っている箇所。音楽がついている歌詞は、文脈が飛んでいる文章であっても人は受け入れやすいと書く。
 なるほど。しかし、文脈を繋げる読み方こそが教育の場で重視されることは仕方なく、「言葉の楽しみ方」も取り上げられてはいるはずだけれど、限界はある。
 「おもしろがる」感性を育てるのは人なんだけどね。


Volume112
 「そんな戦争の対義語としての平和ではなく、『今日はだれも席に座りたがらないかもしれない』と考えることで、未知なる平和を呼び込むことはできないだろうか。」

 「そんな戦争」とは都会の電車の座席争奪戦のイメージだ。
 批評家中田健太郎が書いたことは「蓋然性の高低」によって決めている個の生き方そのものだ。
 ビックデータを否定はできないが、常に内面化する必要もない。
 まず小さなことから自由を模索せよ。