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誰の胸にも小さな棘が

2018年06月18日 | 読書
 先日、何気なく上顎の歯茎のあたりを、舌でまさぐってみたとき(表現が変な気もするが)、一本の魚の小骨が見つかり、少しびっくりした。そう言えば昔はよく魚の棘をのどに引っ掛けていた。ある時など近所の医者に行ってまで取ってもらったことがある。魚の食べ方は少し上達したが、相変わらず苦手意識が残る。


Volume108
 「棘は小さくとも棘だ。天眼鏡を持ち出して探しても、どこに刺さっているかわからないような棘ほど、やっかいなものはないのではないか。」

 そこで効果的な棘の除去法は…という話ではない。

 この文章は、先日読了した『放送禁止歌手 山平和彦の生涯』の中の一節である。
 著者和久井光司は、本を書くきっかけとして「私の胸に刺さった小さな棘の物語」という表現をしている。
 つまり、具体物としての棘ではなく、精神的な棘ということだろう。

 和久井は、そうした「小さな棘」が80年代まではずいぶんあったと書く。

 そして80年代後半から、「時代の棘」はどんどん大きくなっていき、その大きさゆえに見抜かれ、早々に取り除かれる(あるいはそのまま放置され、気づかず)ようになったと書く。
 個人が、刺さった棘による「疼き」を感じなくなってきている。

 確かに「疼き」に衝き動かされて、表現活動や政治闘争に向かっていった若者の姿は、急速に少なくなったと言えるだろう。


 しかし社会的に皆無とは言えないし、同時に個々の人間に置き換えてもそう言い切れないのではないか。

 「小さな棘」は誰にでも存在する気がする。
 それに気づかない鈍感な心身になっているだけではないか。

 たまには、舌でまさぐって点検してみることが必要かもしれない。
 方法は人によって違うだろうが、とにかくちょっとだけ非日常的な「動き」をしてみることかな。


 結果、出てきたのが本当の魚の棘か小骨だけだったとしても、それはそれで幸せなことか(これが一番鈍感な姿だ)。