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無能教師、春を待つ

2016年04月04日 | 教育ノート
1978.10~1979.3

 次の中学校での講師は、なんと教頭先生の病休代替ということであった。

 もちろん教頭職(当時は事務的なこともかなり請け負っていた)の替わりが務まるわけがなく、その分授業を担当せよということだった。
 受け持たせられたのは、たしか1年の国語、2年の理科Ⅱ分野(生物など)、それに女子の体育だったと思う。

 今だから書けるが、実は私には中学の免許がない。学生時代に実習に行き、あまりに酷かったので一日で辞め、その単位を取っていない過去がある。(後年、この学校が校内暴力で新聞を賑わしたことがあった)。
 それにしても、いかに半年間とはいえ無免許教師をよく採用した(たぶん臨時交付のような形だろうが)と、当時の大らかさ?が笑えてくる。


 さて、赴任した翌日だったか、一つの出来事があった。
 三年生の男子数名が、にやにやしながら「遊ぼうよ」などと近づいてきた。
 体育館に誘われ、ハンドボールをやろうと言う。
 シュート練習をするからキーパーをしてくれないかと、もろに何を意図しているか分かる展開だ。

 体育専門とか経験者なら身体で軽くいなせるが、そこまでの自信はない。しかし、持って生まれたこの口と顔つき(笑)で「ほおうっ、じゃ次はどうなるのかな」みたいに問いかけて、口を閉ざさせたように記憶している。
 かなりやんちゃな子たちではあったが、そこはやはり山間育ちというか、言い返せるだけの下地はなかったのだろう(今は結構な町の名士になっていたりする)。


 授業の思い出はかなり断片的であり、書き留めるにも値しない。
 ただ今回の整理で見つけた、一つの「詩集」がある。授業していた1年生31名に書かせた詩を集約した。
 その題名がなかなかユニークだ。

 ヒトツ・ノ・カチアル・ヒロイモノ・ヲ・シタ(1979.3 田代中1年)

 題材によって「風景Ⅰ」から「風景Ⅳ」と区切って構成した。
 自分は「殺風景なあとがき」と題して、短文を記している。
 初めて編集した文集に、こんなことを書いているのも、実に偉ぶっているとしか思えない。

 「何を書くか」「いかに書くか」「なぜ書くか」…これらの問いを、いつも自分自身につきつけることは大切だ。しかし、その前に立ち止まってばかりではいけない。書き進めていく中で、何かを発見していってほしい。

 この詩集を発刊したときに、先輩教師に言われた一言を今でも覚えている。

 「こんなふうに、文集を作ったことはとてもいい。しかし、駄目なことがある。…それは俺にくれなかったことだ。」

 これは冗談めくようにも聞こえるが、実は本質的なことだ。
 そこにあるのは、周囲など全く見えず、独りよがりで自己満足している若い教師の姿だ。

 ベテラン英語教師の研究授業を見て、協議で発言を求められ「授業にヤマがない」とオソロシイことを言ったのも、女子生徒から受験の悩みを訴えられ、理解するふりをしながら勉強の意義を説いたら「先生もそんなことを言うのか!」と顔を背けられたのも、この中学での経験だ。

 今思うと、まったく何も見えていない無能教師。

 その頃も単純に落ち込みはしたが、立ち直りも早かった。ある面で今は羨ましい。


 晩秋、二度目の採用試験結果を、ある先生が極秘情報として「県南のトップで通ったらしい」と教えてくれた。
 何も不安を持たずに、たぶん次の春を待っていたのだろう。

 生徒会誌に文章を求められて記したのが、孤高のフォークシンガー豊田勇造の言葉だった。
 卒業を祝う会でギター片手に歌ったのが、ロッドスチュアートの「Sailing」。

 やはり、怖いものがなかった、いや気づくレベルになかったというべきか、そんな頃だった。