『インターネット的』(糸井重里 PHP新書)
第5章は「インターネット的表現法」として、具体的にどんなことに留意して「ほぼ日」に文章を載せているかが書かれてある。
文体としては「ほんとに、話すように書く」に尽きるのであろう。改行スタイルのこだわりも含めて、いかに「伝わりやすい」かが意識されている。
しかし、それだけでは「的」の本質はつかめない。
今まで述べられていることを、表現化するための言葉が象徴的に項目立てされている。
★クリエイティブの水子を救う
★「はらわた付き」のアイデアを活かす
思いつきの欠片やうまく処理されていない苦みある部分などを大事にする。
これはパソコンという偉大な機器によって、情報収集そして情報整理に関して飛躍的いや革命的に可能性が拡がったゆえに、容易になったことだ。
その線上に姿を現したインターネットがいかに凄いものか、この新書が書かれてからの進歩を見てもあきらかだ。SNSやクラウドの誕生が典型的だろう。
そうした莫大なクリエイティブやアイデアに溢れている世界、これはインターネットがもたらした大きな成果に違いない。
しかし、忘れてならないのは「水子」や「はらわた」であることも強調したい。
それらを背負ったり噛み締めたりできたうえで、発信することこそが表現していくうえで肝心なことだ。
そうでなければ、自分が受信者になったときに、ディスプレイに映った文章や映像の奥を想像することはできない。
第7章「インターネットの幻想」には、こんな文章がある。
★人類は、ついにパンドラの箱を開けてしまったのかもしれません。
所詮、道具や仕組みにしか過ぎないインターネットに、翻弄されている現状を憂えている人は多い。
ある意味で糸井のその言葉は的を射ているだろう。
つまり人間の「欲望」はどのような流れや動きを見せるものなのか、個別に追っても、地球的な視野であっても、危機感がないと言えば嘘になる。
しかしそのことを心配するより、信じて行動することの方がより建設的だろう。
前言には、次のように続きがある。
★これはなんだか怖いことですが、無数の欲望の総体が出てくる代わりに、英知の総体も出てくる可能性もあるわけです。
具体的な「英知」の部分として、提案されている言葉がある。
★「消費のクリエイティブ」
これこそ、じっくり考えてみるべきことだ。
第8章に語られている。
第5章は「インターネット的表現法」として、具体的にどんなことに留意して「ほぼ日」に文章を載せているかが書かれてある。
文体としては「ほんとに、話すように書く」に尽きるのであろう。改行スタイルのこだわりも含めて、いかに「伝わりやすい」かが意識されている。
しかし、それだけでは「的」の本質はつかめない。
今まで述べられていることを、表現化するための言葉が象徴的に項目立てされている。
★クリエイティブの水子を救う
★「はらわた付き」のアイデアを活かす
思いつきの欠片やうまく処理されていない苦みある部分などを大事にする。
これはパソコンという偉大な機器によって、情報収集そして情報整理に関して飛躍的いや革命的に可能性が拡がったゆえに、容易になったことだ。
その線上に姿を現したインターネットがいかに凄いものか、この新書が書かれてからの進歩を見てもあきらかだ。SNSやクラウドの誕生が典型的だろう。
そうした莫大なクリエイティブやアイデアに溢れている世界、これはインターネットがもたらした大きな成果に違いない。
しかし、忘れてならないのは「水子」や「はらわた」であることも強調したい。
それらを背負ったり噛み締めたりできたうえで、発信することこそが表現していくうえで肝心なことだ。
そうでなければ、自分が受信者になったときに、ディスプレイに映った文章や映像の奥を想像することはできない。
第7章「インターネットの幻想」には、こんな文章がある。
★人類は、ついにパンドラの箱を開けてしまったのかもしれません。
所詮、道具や仕組みにしか過ぎないインターネットに、翻弄されている現状を憂えている人は多い。
ある意味で糸井のその言葉は的を射ているだろう。
つまり人間の「欲望」はどのような流れや動きを見せるものなのか、個別に追っても、地球的な視野であっても、危機感がないと言えば嘘になる。
しかしそのことを心配するより、信じて行動することの方がより建設的だろう。
前言には、次のように続きがある。
★これはなんだか怖いことですが、無数の欲望の総体が出てくる代わりに、英知の総体も出てくる可能性もあるわけです。
具体的な「英知」の部分として、提案されている言葉がある。
★「消費のクリエイティブ」
これこそ、じっくり考えてみるべきことだ。
第8章に語られている。