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すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

4月23日のキセキと言われて

2020年01月24日 | 教育ノート
☆2 ぼつぼつと四半世紀前の事

 校長は留任だったが、教頭以下いわゆる7年部と称される担任外は総入替であり、4月当初は大変だった。

 1日に赴任して、次の日だったろうか。新入学生の保護者が見え入学式のことについて、泣きながら「約束が違う」と訴えられたことがあった。特殊学級児の扱いに関することだった。
 当時はまだ障害児教育に対する理解も進んでおらず、親はもちろん担任になる教員も複雑な感情を抱えていた。(特別支援学級という名称が使われる10年前なのである)
 その話し合いの場に同席した自分も無力さを感じた一コマだ。

 仕事全体の把握が求められる教務主任の仕事、前任校で3年経験したが、規模やシステムが全然違う。
 職員から「これはどうするんですかあ」と訊かれても、「訊きたいのはこっちだよう」と半笑い、半泣き顔でよく対応した記憶がある。
 まだ、PCによるデータ引継ぎが一般的でなく、文書綴りを見ながら新たにワープロに打ち込んでいく仕事が山ほどあった。二週間ほどは帰宅もずいぶん遅くなった。

 そしてなんと4月23日という早い時期の運動会実施である。今なら絶対に考えられない設定だが、既決事項であった。
 はっきりしたことは覚えていないが、とにかく猛然と準備を進めたのではないか。

 その運動会当日、早朝から雨が降ったり止んだりするなかで、校長に言われた。
 「さあ、どうする。決断するのは教務主任だ

 「えっ」(絶句である)

 一般的な常識とか法規とか、持ち出して議論する余裕もなかった。
 若さと勢いだけ(今なら天候データが参考できることが羨ましい)で「では、やりましょう」と、合図を花火屋さんに連絡した。

 午前6時を期して狼煙がバーンと打ち上げられた。
 その瞬間、ザアーッとまた降り出した雨の音が忘れられない。

 職員室待機をしていた私たちは、それから何本も「本当にやるのですか」という問い合わせや「何を考えているんだ」という苦情の電話を受けることになる。

 子どもたちの登校時刻まで約2時間。この間に、いろいろなパターンを想定してプログラム変更の場合など職員が動けるようにしておくことが大仕事だった。
 降りやまない場合、いったん晴れてまた降り出した場合など、いくつかの想定で指示を文書にした。

 どうにか雨は小降りになり、止みそうな気配の中、グラウンドでの開会式までこぎつけた。

 審判長の役目にあった私は「少しぐらいの雨に負けないで、春になった喜びを表し、思い切って走り身体を動かす会にしよう」と、ややヤケクソ気味に全児童を前に呼びかけた。

 願いが通じたのか、次第に天候は回復し、プログラム通りにやり切ることができた。

 全終了後、朝からの一日を振り返り「4月23日の奇跡だな」とある若い職員たちが言ってくれた一言が忘れられない。

 半数が異動したという事情もあり、当初少しよそよそしかった職員同士もこの辺りから団結力が高まってきたように思えた。


 このバタバタした時期が過ぎて、手を付けたかった仕事があった。
 教務の大事な役割としてある「会議の管理」…これに一石を投じたかった。

ぼつぼつと四半世紀前の事

2020年01月23日 | 教育ノート
 学校を退職した年の4月冒頭から何回か懐古録を書いた。

 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/d/20160402
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/d/20160404 
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/d/20160406
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/d/20160407
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/d/20160409
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/d/20160411
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/d/20160414
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/d/20160415
 https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/d/20160416

 それから昨年末も平成回顧という形で、やや裏面的な振り返りを記した。
 今、また少し書き残しておこうと思ったのは、「過去の整理」は大事だと改めて考えたからだ。

 教育界では「変革期」というフレーズは頻繁に使われるが、現在の状況もまた大きな山場のような気がする。
 結局、自分自身の立ち位置と考えの確かめだけに終わるかもしれないが、それも何かを支えると信じて、キーボードを叩きたい。

  ☆1

 山間部へき地校で複式学級を2年続けて受け持った私が、新年度(94年度)の異動内示をK校長から知らされたのは、トイレの中だった。

 笑い話ではない。
 3月卒業式当日、祝賀会を某所で行っていた最中にトイレに立った時、その場に居合わせた校長が「4月から、N小で教務主任だから」と手を洗いながらぼそっと言った。
 「えっ」と異動先よりこのシチュエーションかと驚いた。

 教職員の年齢層バランスが歪なこともあり、担任を外されるかもしれないと予想していたが、案の定であった。
 
 まだ30代でやりたい授業構想はたくさんあった。
 しかしまた学校づくりという視点にも興味を持っていた。
 それは、法則化運動の中で教育課程、学校づくりが次第にクローズアップされていた時期だったし、野口先生が教頭職で出版していた学校運営に関する本にも刺激を受けていたからだ。

 学年2学級規模、児童数約400の学校は、自分の母校であった。
 この年度替わりでおよそ半数の職員が替わる大規模な異動。

 少し経ってから、懇意にしていただいたM教育長に、「あまり大きく替わったので、従来のことが見えにくく困る」と訴えたら、「今までのやり方を変えようと思ったから、替えたのだ」と、その意図を知らせてくれた。

 ぐっと責任の重さを感じた。
 当時、数年前に文科省指定公開をした体育科の実践校として名が知られていた学校は、外から改革を迫られていた。
 たぶんそれは、子どもも含めた内からの願いがあったのかもしれない。

暖冬の年、2月に語る

2020年01月12日 | 教育ノート
 2007年の2月の全校集会だった。
 児童数は70人ぐらいだったかなあ。懐かしい。

 ボードで出す予定の言葉や数字に下線を引く準備もしている。
 この原稿はローカル&限定的話題だから、雑誌等には載せていないはずだ。
 
 (長文です)

・・・・・・・・

 「暖冬」…読めますか。ダントウ、暖かい冬ということです。
 今年は、記録的な暖冬と言われました。どのくらい珍しいか、というと60年に一度くらいと言われています。
 たぶん、みんなのお家の誰に聞いても、こんなに雪の降らない冬は初めて、という声が多いんじゃないでしょうか。

 「気象庁」という、お天気のことを調べている役所があって、そこの記録によると、今年の湯沢市(たぶん、湯沢の中心部、市役所の近くで測ったと思うのですが)の「最深積雪」(どのくらい雪が積もったか)は1月15日現在の39cmでした。では、去年はどうかというと、2月12日の118cmでした。高松地区だと、もう少し多いとは思います。
 雪の積もった量でいうと、3倍ぐらい違うということになります。

 暖かく雪が降らなかった冬なので、たいへん助かりました。
 例えば、みんなが歩いて登校するときも、先生方が車で通勤するときも、そんなに難儀な日はなかったです。それから、雪おろし、雪よせなどの作業も少なかったはずです。

 また、秋田県や湯沢市の除雪にかかるお金もずいぶんと少なく済んだといっていました。
 それから、風邪をひいた人はいたけれど、そんなに拡がらなかったですね。
 12月から2月までの間、本当によかったなあ、と思います。

 でもね、よく考えると、暖冬で、雪が少なくて困っている人もいるんですよね。

 どういう人が困ると思う。

 ○スキー場の人  ○服をうる人  ○冬物をうる人  ○農業の人

 関東地方やもっと南で野菜を作っている人は、鍋物に入れる野菜が売れないとか、野菜が育ちすぎて出荷できなくなったとか、いろいろと困ったことがあるそうですよ。

 それから、田んぼで米を作っている家は、今から春や夏に水不足にならないか心配していますよね。だって、山にたくさん積もって、それがとけて流れて、田んぼに水が引かれるのだから、その元になる雪が少ないと、本当に心配になりますよね。

 このように、いくら「暖かい冬」が過ごしやすく、便利でラクチンでも、よく見たり考えたりすると、困っている人や心配している人もたくさんいるのです。


 今は、お天気という自然のことをいいましたが、人間が行う「物事」でも似たようなことがあります。

 たとえば、何かみんなで仕事の準備をするとき、自分は好きなことをして楽でいいけれど、中には難儀している人がいたりする時があります。
 たとえば、全員で集会などをやろうとした時、多くの人が楽しく過ごせていても、中には何か苦手であったりして、困っている人がいる時もあります。(自分はよくても)

 解決するのが難しいときもあるけれど、自分だけ自分だけと思わないで、まわりに気を配ってくれれば、みんなにとっていいように物事が進むと思います。(みんないい気もち)
 皆さんなら、そんなふうに他の人の心も想像できる人がきっと多いはずだと先生は思っています。

 さあ、この学年もあと残り・・・・(以下略)

・・・・・・・・


 
 天気のことはあれこれ考えても仕方ないけれど、穏やかであればいいというのは正直な気持ち。
 その願いを少し織り込んで、懐かしがってみた。(写真は翌年のふつうの日)

知性の不調を掘り起こす⑤

2019年12月16日 | 教育ノート
 相変わらず「僅かな努力の証し」が欲しかったのだろう。野口芳宏先生の個人誌に憧れ、平成7年「私の国語教室~すぷりんぐ」という冊子を作り、その後退職まで計9冊続けた。様々な思いからその作成を理由づけられるが、確実な一つは「研修」の強調であった。それが表裏を問わず仕事を支える矜持と信じた。


 教頭になって数年後、夏休み中のいわゆる「自宅研修」が取り沙汰された。それまで包括研修という形で認められていたが、周到な計画と報告を求められるようになった。当たり前のことをしなかったツケである。いつだったか「研修」と動静に表記した教頭は、全県でお前一人だと皮肉交じりに言われた年があった。


 平成18年校長になり、満を持して学校経営のキーワードを「つながる」とした。その後同様の語は近隣で乱発されたが、当時はまだ新鮮だった。ここに込めた「人・学び・仕事」の3要素は間違いないと考えるが、個々の自由度を上げたい願いは独りよがりだった感を否めない。策略を凝らす知恵が足りなかった。


 平成終盤、学校は露骨に暗黒化していった。それは学習状況調査の定着であり、いじめ・体罰といった調査の継続に象徴される。それらが揺さぶったのは明らかに「教師に対する信頼」という、教育の基盤である。数多くの論者が指摘しているはずだが、現場人は「なすがまま」の状況で、次第に筋力が失われていった。


 脈絡のないような文章を書きつつ感ずるのは、先取りをする力の無さである。言い訳をすれば目の前の仕事に没頭してきたと言えるが、実際はそれゆえに陥った視野狭窄である。学校現場に近い人々の集団的症状といえないか。それゆえ平成30年間に見失ったこと、手離したことの多さ、大きさを今嘆いているのだ。

 了~あとは読了篇で

知性の不調を掘り起こす④

2019年12月15日 | 教育ノート
 「秋田の新酵母」という比喩を用いたのは、当時「秋田流花酵母(AK-1)」が開発され話題をさらっていたからである。91年には全国新酒鑑評会では金賞数でトップに輝いていた。それはともかく教育界はどうだったか。新興勢力に対する圧力はいつの時代にもあり、珍しくもない。要はどのように根づいたか、である。


 県内に限らず、平成初期から中頃にかけて法則化運動が提起した教師の指導言の明確化はかなり浸透した。私個人は授業づくりネットワーク運動に参画して、異質なものから学ぶことをベースに教材開発したり、自覚的な指導行為のあり方を探ったりすることに傾倒した。見える範囲では多様な広がりが展開されたが…。


 臨教審答申以降、次々打ち出される教育施策に右往左往している状況があった。新学力観、そして小学校では生活科そして総合的な学習の時間。考え方からいえば実践にダイナミズムを与える印象だが、具現化は困難だった。国政や地域社会の変容と同時進行していた学校組織の硬直化が、新しい風を苦く感じさせていた。


 サークルは平成5年に大きな曲がり角を迎えた。集約は第9集で止まった。ちなみに執筆者は5人だったが、学級通信に関する沼澤提案を受けて各自が論を述べる特集も組んでいた。当時では高レベルと評価できる。しかしそれ以降は、数年不定期な形で会を持ったが継続できなかった。理由は自らの意識の低さに尽きる。


 平成10年代後半から交流を持ち、刺激をうけた堀裕嗣氏が語る「中景」の喪失という観点に見事に当てはまっていた。目の前の近景や、国・県規模の遠景に注意は払っても、中間的な集団や役割の衰退をくい止められなかった。それは個人主義、市場経済といった流れに呑み込まれた結果と言えるだろう。

 つづく~次回で締め

知性の不調を掘り起こす③

2019年12月14日 | 教育ノート
 「本当の敵を…」と昨日書いた後に、サークル集約(第6集)を見返していたら、当時の私たちの「気分」を見事に表す拙文に出会った。
 少し情けない感じもするのだが、面白いので再録してみる。現役の方もいるので実名は避けた。
 (やや長文です)

・・・・・・・・・・・・
 
 「ヤクザがこわくて酒がのめるか!」


 法則化運動の秋田合宿に、R先生、Z先生、それにS先生と一緒に参加した。
 市内に入ると、かなりの数の警官が目につく。信号で止まると、突然後ろにいた覆面パトカーが急発進し、左折する。ここ数日来、ヤクザの発砲事件のため厳重警戒が続いているとのことである。

 「流れ弾が恐いよお」という人もいたが、やはり夜の帳が降りると、「せっかく秋田まできたのだから・・・」という思いが頭をもたげ、会場のホテルから外に出てタクシーを拾うことにした。
 通りかかったタクシーに手を挙げたが、心なしか止まるのが遅いようだ。乗りこむと、口を開いた運転手が語るには「ヤクザかどうかを確かめるため」とのこと。
 さらに「ついさっき、そこでドンパチやった」という話。びっくりしながらも、目はやはり川反の方を向いていた。
 そして、心は今日のことを振り返っていた。


 Z先生が苦戦し、R先生も突っ込まれた論文審査。なんと創世記を小学校の教材にしようという模擬授業。そしてその後のパーティー、挨拶に立たれた野口芳宏先生の言葉にいささかショックを受けた。
「私のいる県ではね。向山講演会の参加者名簿を手に入れチェックするんですよ。」

 思想的なことが絡んでいる場合には。何度となくそういったことを耳にした(これに対しても私は反対です。憲法違反です)。しかし法則化運動までがその対象にされるのでは・・・さすが千葉である。
 振り返って、わが秋田はどうか。そうした傾向はないのか。
 ないとは言い切れまい。現にこの合宿は国語がメインで、中央の著名人、そして付属小の教官も授業するというのに、市内から参加者はきわめて少ない。多少なりとも県内の国語に通じている(と思っている)私が知っている顔はほとんどない。

 無関心なのか。そうかも知れない。
 ただ、次のような危惧は十分にある。
「この合宿、会に参加すれば、一派とみなされると考えている。」

 法則化批判?をしている高名な先生方の指導を受ける秋田の国語教育界から考えると、そんな予想もたつのである。
 教育奨励貢を受けたほどの教師が公開で授業し、その後ろ盾として県教育界の重鎮T先生も参加なさっているのだ。なぜこんなに人が集まらないのか。

 もし私の予想が、ほんの少しでも当たっているとすれば、まさしく秋田はヤクザの街である。
 「いいものはいい。」「勉強して何事も取り入れていこう。」という発想に圧力がかかっている。
 そこからの流れ弾は、確実に子どもにはねかえっていく

          
 必ず立ち寄らなければならない川反「蘇州」。
 日本酒を藪多く取り揃えている店である。四人で杯を傾けた。

 おもうほど ようほどに
 「秋田の酒は、宮城の酒に負けているなあ。」
 「そういえば、東京で飲んだあの新潟の酒、うまかったなあ。」
 と舌が感じてしまう。

 酒の国秋田はもうだめなのか。
 いや、期待はある。秋田の新酵母である。

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 1991(平成3年)3月に集約の「あとがき」として書いたものである。

 あれから30年近く経ち、思うことは … 明日へ。

知性の不調を掘り起こす②

2019年12月13日 | 教育ノート
 学校を退職した春に、回顧録を数回書きつけた。85年から勤めた学校は六年も在籍したのでさすがに思い出が多かった。そこには詳述していないがサークルを正式に立ち上げ、極めて限定的な実践にねらいを絞って活動した。最初は体育科の後転指導。「一人残らずできる」をどう具現化するか、技術を追い求めた。


 当時を知る人であれば、それは向山洋一氏の提起した跳び箱指導に影響を受けていることはピンとくるだろう。つまり普通学級における全員達成、そして学力保障という課題に焦点が当てられていた。それは、良くも悪くもまだ牧歌的な学校現場の姿と、教師の指導力格差の問題を浮き彫りにしたとも考えられる。


 そこから改元をまたいで数年間、月例サークルを続けた。提出レポートは増えていたが内容は玉石混交だった。皆、自分に対しての「僅かな努力の証」を求めていた。ただ現場の世代交代が進む中でモチベーションの一つになっていたとはいえるだろう。学校外の場を定期的に持つことで、目や腕は鍛えられていった。


 教育技術の法則化運動が示した実践の受けとめは未消化なまま、若い教員が増えていった。例えば初期の代表的指示「ゴミを10個拾いなさい」を数の限定という原則に留めてしまう短絡的思考が一般的だった。子どもにとってより価値ある教師になりたい願いはあっても、そのベクトルがふらついていたように思う。


 ゆえに、徐々に広がる社会変化に意識的だったかという点では非常に心許ない。10年後に完全実施される学校週5日制へ向けて、平成4年9月に第2土曜休業が実施された意味は大きく、当時は少し騒いだが結局のところ全てが消費に結びつく潮流に飲み込まれた感を持つ。本当の敵を見損なっていたということか。

知性の不調を掘り起こす①

2019年12月12日 | 教育ノート
 先週ある大会挨拶の原稿を考えたとき、主催する会ができた35年前の事を少し調べた。土曜日友人と一献を傾けた時、学校の活動が変わりゆく様に少し驚き、寂しさを禁じえなかった。日曜日に『街場の平成論』(内田樹・編 晶文社)を読み始めた。編者によるまえがきを読み、もう一度あの頃をおさらいしたくなった。


 本で語られるのは、当然平成元年(1989)からが中心であるが、昭和60年(1985)を一つのポイントとみたい。以前、誰の論述か失念したが、その年が教育界におけるエポックメイキングな年と位置付けられたことを覚えている。歴史的には中曽根内閣のもと、臨時教育審議会が第一次答申を出したことが大きいと言える。


 私は三校目の学校に移動した年だ。以前回顧録として断片を書いたことがある。前年に「教育技術の法則化」運動が産声を上げ、書籍が月々に出されていた。それから数年間で全国的な広がりを見せた。しかし秋田での風はまだ弱く、当時宮城で持たれた全国合宿には県内から4名しか参加しなかったという記憶がある。


 臨教審答申が3年続けて出され、教育の自由化、個性化が声高に打ち出されていた。それが学校現場にどんな力を及ぼしているか深く考えないままに、目前の実践だけを見ているような日々が続いた。85年にサークルを正式に発足させ、月例会をして年間集約をまとめた。忙しさを充実感と勘違いしていたかもしれない。


 『街場の平成論』は「知性の不調についての点検報告書」だと内田は書く。当時自分がどんな未来を描いていたか、その姿は実に矮小ではなかったか、と今想うのはまさしく「知性の不調(貧困か)」ではないのか。極私的な振り返りが何かの役に立つとは思わないが、気持ちに任せて今後掘り起こして書いていきたい。

雪道を行く、師匠の言葉

2019年12月01日 | 教育ノート
 昨日は花巻の野口塾へ。前夜からの雪は残っていたが、秋田道は県境の峠を越えたあたりから、通常の道路状況だった。山脈を境にがらりと空が変わるこの季節を改めて痛感する。心が少しだらけてきたときは、野口芳宏先生の話を聞くことが何よりの薬になる。幼子抱擁と同様、発する気に触れると元気づけられる。


 研修会はまず模擬授業が4名。それぞれが個性的な進め方をしながら、学習用語をきちんと押さえている点はこの会ならではの骨幹が見える。お昼前の神部秀一先生の音読・朗読講座は楽しかった。喉の調子を崩されて苦しそうだったが、その理論と実演は見事だった。「自分の読み方」を変えさせられた時間となった。


 午後からは発問道場の実技篇と理論篇。題材は「ごんぎつね」である。今回の参加者について特筆すべきは、新任3年目までの方が十数人いたことである。先生はその方々を指名し、作った問いを黒板に書かせた。私のようなリピーターには実に愉快な(笑)時間となった。と同時に「問いに正対する」意味を改めて考えた。


 最後は「本音・実感の道徳授業」の講座。ここはまさしく野口節全快の一時間だった。先生のお話の特徴の一つに「造語」がある。印象付ける効果がてきめんで、参加者が今まで耳にしたことのない熟語等をズバリと語る。従ってメモせざるを得なくなる。今回は「良師良問」と「善行快感」の二つ。意味も明快だ。


 自主性、主体性、自発性等、教育界で尊重される美辞麗句を取り上げて、疑義を呈した。そしてキーワードとも言うべき「多様性」を、安易に初等教育で扱うことを批判、そのうえでこう語られた。「子どもは『真面目』の塊りでいいんじゃないか」。教師が「流行」にとらわれていると、心の体幹は強くできないと悟る。

夜更けに教育雑誌を開く

2019年11月20日 | 教育ノート
 久しぶりに教育雑誌に目を通した。学校の職を辞してからそうした機会は一度あったかと思うくらいだ。自分の原稿が載ったので発行元から送付されてきた。先月下旬、夜に電話があり、急遽以前の原稿の使用依頼があった。予定された方が台風被害に遭い亡くなったという事情を知り、一も二も無く承知したのだった。


 それは「マラソン大会の挨拶」がテーマで、自分が定番としている内容であった。ねらいも明確でわかりやすいと、少し自負する気持ちもある。けれど同時に、そうした活動自体が縮小されていることにも気づいている。「あきらめない力を試す」といった面をどのように実践化していくかは、難しい時代になっている。


 さて今どきの雑誌はどうかとめくると、特集は「学級担任制と教科担任制」とあり、これは数年前とあまり変わっているとは言えない。管理職向けの雑誌なので最近の動向が見えると思ったが、マネジメント、危機管理、法規等々大きな変動は感じられなかった。ただ、学校現場の空気感が変化していることは確かだ。


 何年か前に叫ばれていた事が定着してきた時期なのかもしれない。しかしその方向性(勝手に名づければ、かつての「小さな政府」志向をイメージさせる「小さな学校」だ)は、本当に目の前の子どもたちを幸せにするのかという吟味が足りない。少なくとも全国一律に行うこと、そうでないことの区別を明確にすべきだ。


 繰り言は止め学ぶべきを増やそう。「今月の絵ことば」がシンプルで良い。曰く「自分のため 人のためにも 手洗い うがい」。それから連載「この人に学ぶ」で取り上げられた、柳沢吉保に関わる反常識的な見方は新鮮だった。しかし、一番は読書ガイド。池谷裕二教授の『脳はなにげに不公平』面白そう。注文した。