飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

邪馬臺国

2012-11-22 13:42:33 | 邪馬臺国
饒速日は九州にあったヤマト国(邪馬臺[ヤマト]○/邪馬壹[ヤマイ]×)を阿波の「忌部氏」との協議の元で大和に東遷させた九州物部の首長でした。九州物部氏の長を「大物主(おおものぬし)」と言います。九州の物部氏と出雲の物部氏の同族性の強さから言葉としても似たものになっている上に、九州物部氏の東遷ばかりか九州物部氏と出雲物部氏との合同という歴史的事実も見えない奥に隠蔽されているため、この「大物主」は出雲物部氏の長の称号である「大国主(おおくにぬし)」としばしば混同されてしまいます。しかしこの二つは今後は、厳密に区別しておくのが妥当ということになることでしょう。また、あの『魏志東夷伝』倭人之条の中で「邪馬壹国」として記述されていたのはこの東遷した後の(南遷だった可能性あり)大和盆地を中核とするヤマト国だったということにもなっていくはずです。丹波国が「投馬国(とまこく)」だった訳です(「たんば」≒「とま」という音声の類似にも注目する必要があります。関東の多摩も関係がありそうです)。この東遷という考え方を採用すると、九州に散在するヤマト国の痕跡は全て東遷(南遷)前のヤマト国のものだったということにもなり、かの難解で有名な論争にもこの上ない治まりがつくと、私などには感じられます。飛鳥昭雄氏のこの説はかなり有力であると評価せざるを得ないでしょう。

そもそもヤマト国問題とは『魏志東夷伝』倭人之条に記述されたその時点でのヤマト国が何処にあったのかであったはずななのです。なのに多くの場合その規定が緩んで、ヤマト国は何処にあったのかと問いが一般的かつ曖昧になってしまいがちなのです。このこともまた混迷の大きな一因となっていると考えられます。飛鳥説の優れたところはひとつには、その点がきちんと押さえられているところだと思います。

ところで九州説は距離に、近畿説は方向に難があるとは有名な話です。しかしながら、会稽東治(カイケイトウチ)つまり会稽の真東はその地の緯度の分だけ北緯線より南にずれるのでなければならないはずなのに九州も近畿もこの基準には合致していないという点になると、皆あまり注意を向けることがないようです。この点に合致するのは屋久島だけですが(屋久島や種子島の少し南の海上が真東である。Google Earth で確かめられる。一昔前にはメルカトル図法の東洋図しかなかったが、今はこんなに便利なものが手元にある)、ヤマト国が屋久島や屋久島周辺の南九州にあったと想定した場合「会稽東治之東」以外の多くの重要な条件が無効になってしまいます。「当時は方向などに厳密ではなく、これは『東の方』くらいの意味なのだから、それが厳密には東北東になっているところで何の問題もない」などと主張しつつ、九州説や近畿説では実際は北東に近くなってしまい、たとえ大まかにでもそれを東と表記できるとはとても言い切れないことや、中国には当時既に羅針盤も、指南車(しなんしゃ)などの精密測定機器も存在し、極めて厳密に制作された方眼付きの全土図すら現存していたことなどには目もくれないまま、大抵は、方向と面積の正確さの犠牲の元に作られ緯度線が真東を指すかのように錯覚させやすいメルカトル図法の東洋全図に感覚的に誤魔化されて、変に納得してしまっていることが多いようです。何れにせよこの方向のズレだけは誰がどう対処しようと解決不能に思われます。

しかし飛鳥説では何と、私ですら受け容れるのを今だに躊躇してしまいがちなほど大胆で斬新なもうひとつの仮説を、とは言え非常に客観的で説得力のある詳細な論述を通して打ち出すことによって、この点すらクリアできているのです。その仮説とは「『魏志東夷伝』倭人之条が書かれた3世紀当時には列島が対馬海峡の一点を軸に時計回りに現在の位置よりも70度ずれていて、瀬戸内海はまだ形成されていなかった。列島の回転移動は何万年単位などではなく何年単位で起こった」という仮説です。この仮説を導入すると近畿説に限っては、方向を巡る全ての問題が解決することになるわけです(この仮説を導入しても九州説の場合はまだ、会稽の北東にとどまる)。

従って、飛鳥昭雄氏による先述したようなヤマト国近畿遷移説の場合は、今はまだこの私ですら受け容れには慎重にならざるを得ないほど大胆で斬新なこの列島高速回転移動説にすら高い信憑性を感じさせてしまう程の収まりの良さがあると評価せざるを得ない訳です。あまりにも収まりが良すぎてかえってこちらの咀嚼が間に合わないくらいですが、取り敢えずここに記して皆さんに紹介しておく価値はあると判断します。

列島高速回転移動なんて本当にあったのか?そのような目で Google Earth の海底地形図を眺めると、フィリピン海プレートの割り込み具合いが如何にもこの説を裏付けているように見えてくるのは、私だけでしょうか?

それから、九州と中国、四国、淡路、紀伊半島が初めはひとつの陸隗で、その際には瀬戸内海がなかったところに何らかの力が働いて今の地形になったとした場合、現在の地形を見ると、九州と四国、紀伊半島によって構成されていた陸隗が、そして四国も吉野川を挟んで南北がやや分裂し、中国地方の陸隗の方は分裂しないで纏まっているように見えるのですが、それもまた、九州を軸とした反時計回りの力が働いていたことの証明になっているように見えます。

さらに、現在の瀬戸内海には昔、四国と紀伊半島に流れるふたつの川(吉野川と紀伊川)を支流とする大河が流れ、その流域にマンモスの生息する巨大な森が広がっていたという定説がありますが、これらふたつの川が海峡を挟んで分裂しているにも拘らず周囲の地名が同名になったりしていています(紀伊川の上流に吉野がある)。そのこと自体が、この陸隗分裂が比較的浅い時代に起こった、即ち、これらの地名が海峡で分断されたふたつの異なる地域で同様に忘却されることもなく現在にまで伝わるという事態が可能になるくらいの比較的浅い時代に起こったということを表していると私には思われます。即ち、その後次第に融合して行って私たち現代日本人という統一的な集団にまで発展してくることになる、当時既に互いにある程度までは統一的であった氏族群が列島の広い範囲を共通の活動領域として活動し始めていたとされる所謂「歴史時代」の原初期つまり紀元0年前後に起こったことを意味していると、私には感じられるのです。

実は、専門の科学界でも最近は、列島全体の岩盤の磁力線の方向を科学的に詳しく大規模に調べた結果、斉一説の影響から時間の尺度が今だに何万年となってしまっている点を除けば、列島の回転移動があったこととその軌跡や方向が飛鳥説におけるものと完全に一致していたことについては、動かし難い事実として認知されているようなのです。それが起こったのが何万年前にゆっくりとではなく、2000年前くらいにかなりの高速で一気にだったということだけが、斉一説という根拠のない偏見の影響から、発想もされずにいるようなのです。

自然界の変化はマクロなものの場合は必ず均一の速度でゆっくりと起こるものだという思い込みは、よく考えると確かに、この世の実態には合わないように感ぜられます。急激な地球環境の激変のことを科学自身も少なからず何度も語っていると思うのですが、だからと言って自分達の底流を見えないところから支配している大前提そのもののになると、それを批判の俎上に上げようと発想することすら原理的に不可能になっているようなのです。かくして、明らかな偏見がなかなか放棄されずにしつこく生き続け、真実追求の歩みを妨害し続けることになるわけです。

因みに放射性炭素14測定法などの科学的な年代測定法の場合も、それが一旦権威によって判定されてしまうと誰もそれを自分の目で実際に検証できない上に、検証しようともしない訳ですが、実際は、斉一説に負けずとも劣らない程の危うい代物になっているのだそうです。さらには、化石の年代判定法もそうらしい。ただし、科学的年代測定法の中でも年輪年代測定法だけは比較的有効な測定法だと、私は考えています。詳しくは、飛鳥昭雄氏の著作をお読みください。

ところで、山形という研究者が提示している説で、一部の人達に熱狂的に支持されている説があります。「『魏志東夷伝』倭人之条を文献として放棄して、一般にはこれまであまり取り上げられてこなかった他の多くの倭人伝を互いに緻密につき合わせて考えると、三韓は一般に考えられているより遥かに北にあったと記述しているようにも解釈できるし、『倭国はその南に接する』という記述もあって、これがその解釈を保証すると考えることもできる。この場合はしかも倭国そのものが、従ってヤマト国そのものが、半島にあったという事実もまた伝えられていることになる。ただし、私の理論ではまだ『倭国の北岸に狗邪韓国(クヤカンコク)あり』が十分に咀嚼できないことは認める」という説です(山形説)。

これについては、九州が半島と地続きだった時期があることや列島の高速回転移動の過程で半島からごく短期間に分離したことを把握した上で考察すれば、実は、三韓をそこまで北に想定する必然性など消えてしまう訳ですから、そのような把握ができていないために見かけ上生じた文献学上の矛盾を虚しく指摘している以上の何の意味もないと、切って捨てることができるのです。しかしながら、飛鳥説でも流石に、九州と半島が地続きだったことがあるとまでは言っていません。

もっとも、列島から半島に大きく広がっていた広い意味での倭の一部だった三韓が、時代の推移と共にそれぞれアイデンティティを確立するようになり、ある時期からそれらと区別される狭い意味での倭と共に、史書の中で併記される程の独立した地域になっていったという概念の変遷過程を考慮に入れつつ、当時の「国」とは必ずしも現代の国民国家のように国境線によって面として区切られたものではなく、王城をはじめとする幾つかの拠点が海陸を問はざる交通経路によって結ばれた、境界の曖昧なネットワークにすぎなかったという事実もきちんと踏まえた上で考察すれば、「倭国は三韓の南に接する」を山形説が無自覚的に決めつけているように「倭国の国境線は三韓の南の国境線と陸上で接触している」と解釈する必然性など消えてしまうことに思い至るはずだということについては、ここで指摘しておきたいと思います。「倭国は三韓の南に接する」とは「三韓ネットワークの内どのネットワークを辿っても、南に行くと次に現れてくるネットワーク、それが倭である」と言っているに過ぎないことになるからです。従って、従来の解釈のように狭い意味での倭と三韓が海峡で隔てられていたと考える場合であっても、その記述には必ずしも矛盾してはいないと言える訳です。この場合は、ネットワークとネットワークを結ぶ交通経路が海上航路であっても全く構わないことになる。しかも、狗邪韓国とは所謂東表国(とうびょうこく)のことで、半島南端部分よりも海峡を跨いだ北九州部分の方が本国だったと解釈しさえすれば、狗邪韓国から半島の方の拠点が失われた比較的浅い時代に「狗邪韓国は倭国の北岸にあり」という記述がなされたところで、その時点では全くおかしい話ではないということにもなる訳です。

何より山形説では『魏志東夷伝』倭人之条が十分に明確な理由もなく放棄されてしまっています。これは致命傷でしょう。何故なら、『魏志東夷伝』倭人之条も含めて全ての文献を網羅できる説が出てきた時には、自ずから潔く身を引かなければならなくなってしまうからです。三韓や倭国の概念としての変質や位置の変遷を計算にいれないまま理論を組み立てている嫌いもあります。そもそも、自分の説に理論に割り切れない重要な部分がたとえひとつでもある場合は、自分の理論構成の仕方に何か重大な欠陥があるはずだと考えて発表を控え、必死で再検討するのが本当なのに、この人は何故かその禁を破って嬉々として発表してしまっています。面白み以外の何も目的としていない単なる素人の理論であることが、このことから仄かに伝わってきます。

山形説の価値は「『魏志東夷伝』倭人之条以外にも倭国あるいはヤマト国の位置を記述した文献が思いの外沢山ある。『魏志東夷伝』倭人之条の書かれた時点とは時代にそれぞれ隔たりはあるものの、そのことをきちんと踏まえた上でそれらも考慮に入れて考察すべきなのに、これまではそれがちゃんと考慮に入れられていないのは怠慢だ。何故なのか?」という疑問を世間に周知させた点以外には全くないと言わざるを得ないようです。