木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)の元糾(もとただす)の森にある禊(みそぎ)の施設は、桂川支流の天神川から水を引いて造られたものです。この地域は宇多野(うたの)と言って、極めて水源の乏しい所です。嵐山の桂川に葛野大堰(かどのおおぜき)を設置してそこから用水路を引くとか、北部の山裾に広沢池(ひろさわのいけ)を造成してそこから用水路を引くとかいった、かなり大掛かりな工事を施さずには耕作地として利用することが全くできなかっただろうと思われるくらい、水源の乏しい地域なのです。今は、周囲の都市化が進むとともに、この天神川が天井川となってしまっています。元糾の森の禊の施設もまたその影響で、文字通り「涸れて」しまっています。
註:この地域のやや西にある有栖川の「有栖(ありす)」は、その川の流れている嵯峨野が平安初期に旧百済王家(=桓武朝)の拠点となった所縁で、百済最初の首都だった慰礼城(ウィレソ。後の南漢山城[ナムハンサンソン])傍を流れる阿利水(アリス。「禊の川」の意味で、現在は漢江と呼ばれている。有栖川も禊に使われていたと伝わっていて、その機能まで同じである)に因んで名付けられたもののようです。私はそのように睨んでいます。
対して、下鴨神社の糾の森にある禊の施設は、実際に行ってご覧になられたら分かるように、土地柄としては水源が極めて豊富で、「涸れて」しまう要素など全くありません。神社職員が日常的に入り込んで落ち葉などのゴミを取り除いていることや、特別な儀式の時には豊富に水が流れていることを考慮に入れると、おそらく、日頃は意図的に水を抜いているのだろうと推測されます。何らかの止むを得ない事情からどんなに不吉な見せかけに覆われていようと、下鴨神社の奥底で聖なる清水が涸れてしまうようなことなどないと、私は信じています。
さて、この糺の森ですが、秦氏の中の祭祀族と規定される賀茂氏がこの森のある河川合流地域に下鴨神社を創建する以前には物部氏が、さらにその物部氏以前には所謂「縄文」人が、この地域に拠点を持ち活動していたのは確実です(「縄文人」など、実際は勿論、実体のない概念ではあります。従って私としては、本当は「縄文人」だとか「列島原住民」という言葉の使用には慎重にならざるを得ないのです。この点については、既出の記事『「朝鮮」及び「日本国民」の厳密な意味規定の勧め』を、ご参照ください)。
そんなこの河川合流地点の聖なる森に秦氏と賀茂氏が後からやって来て、下鴨神社を創建したのです。ところで「賀茂氏は奈良盆地の南西部にある葛城(かつらぎ)から淀川や鴨川を遡ってこの地に移住した」という伝承と「秦氏が糺の森を宇多野の元糺の森からこの地に移設した」という伝承が、それぞれ別々に確認されています。これら二つの伝承が伝えている事実はおそらく、同一の事実なのでしょう。このことから、葛野の秦氏と葛城の賀茂氏との間には連絡や協議、合議があったことが分かります。賀茂氏は秦氏の祭祀族(レビ族)であり、秦氏は賀茂氏の元で様々の産業に従事する一般氏族だったという飛鳥昭雄氏の洞察を裏付ける事象と言っていいかと思います。
問題は、先住民である物部氏やその他の氏族と渡来人である秦氏や賀茂氏との関係が如何なるものだったのか?さらには物部氏とその他のさらなる先住氏族との関係が如何なるものだったのか?ということになるでしょう。征服だったのか?同化だったのか?あるいは、駆逐だったのか?
飛鳥昭雄氏によると、物部氏もまた、紀元前3世紀に山東半島辺りから丹波や北九州に移住してきた渡来人です。丹波に定着した方の祭祀階級が海部氏(あまべし)なのだそうです。この海部氏が定着し切り開いた地域が当時は「出雲(いずも)」と呼ばれていた。
註:驚いたことに、島根の「出雲大社」は通称でしかなく、正式名称は飽くまでも「出雲大社」ではないようです。そもそも島根に古代遺跡の広がりが比較的少ないのは有名な話です。反面、極端に大量の青銅器が、銅鐸も、また銅剣や銅矛も、それぞれ全く異なる文化圏を象徴する祭器であったはずなのにひとつに纏まって整然と埋設された遺跡なら数カ所、発掘されているのです(荒神谷[コウジンダニ]遺跡など)。だからこそ、強大な勢力の長期に渡る分布ではなく、ある画期的な大事件が、すなわちある勢力の他のある勢力による計画的な移設や封じ込めがあったであろうとの推測が立てられるのです。本当の出雲はどうやら丹波、特に亀岡辺りにあったようです。ある時、ある事件をきっかけに、現在の「出雲」に、大規模に移設され封じ込められた上で、現在の「出雲」を出雲として人々の心に定着させようとする一連の極めて入念な措置が、何者かによって行われたというのが実態のようなのです。今の「出雲」が「出雲」と称されるようになったのは飽くまでも、7世紀の日本建国以降の話でしかありません。
この物部氏(海部氏)は「大国主(おおくにぬし)」を指導者として、例えば保津峡を掘削することで亀岡盆地にあった湖を一面の耕作地に変え、その東部に出雲大社を立てるなど、秦氏以前にもう既に、丹波から山背にかけての非常に広い地域の大規模開拓に当たっていたと伝わっています。近江や伊勢、尾張~相模~武蔵、伊勢~熊野~阿波、さらには「出雲」、吉備、豊~筑紫、北陸~越といった具合に、紀元前16世紀から始まったと考えた場合の弥生時代の終盤において列島を多方面に大規模に開拓していったのも、この海部氏だったと考えられます。後に秦氏が播磨と共に重要な根拠地のひとつとすることになる葛野は、山裾に近いところは初めの内、物部氏によって開拓が始められたのです。
註:そもそも当時は、山背(やましろ)が山背とは呼ばれず、広い意味での丹波だったのではないでしょうか。あるいは、大和盆地から見て山の後ろの山背ではなく、丹波から見て山の後ろの山背だったのではないでしょうか?因みに山背は、最も古くは山代と表記していたそうです。漢字の伝来以前は「やましろ」という音のみ。「しろ」は、例えば八咫鏡(やたのかがみ)の入れ物である御船代[みふねしろ]や、自分の感覚の中に対象の感覚を入れて「知る」、自分の感覚の中に対象の感覚を継続的に入れ続けて「調ぶ」[「ふ」や「ぶ」は、例えば「住まふ」を見ても分かるように、瞬間相動詞の未然形に接続して「~し続ける」といった継続相の意味を加える接尾辞です]、民を自分の支配下に入れて「領る」などからも分かるように「囲い込む」「容れる」「入れる」「包む」の意味です。従って「やましろ」とは「山に囲われて入れ物のようになった地域」の意味であることが分かります。本物が持っているエッセンス(理[ことわり]) を自分の中に容れてそのものに変化し、そののもの代わりに現存在するの意味から「代理」という言葉が出来たのでしょう。社は八代で「神[ヘブル語で「ヤー」]の容れ物」のことです。
物部氏と先住部族との丹波や山背における関係はおそらく、駆逐や支配ではなく同化だっただろうと思われます。それは例えば、後の大和盆地における饒速日(にぎはやひ)と長髄彦(ながすねひこ)の関係に似た関係だったと言えば、若干は通りがいいかもしれません。物部氏は多くの研究者が指摘しているように遊牧民ですが、単なる遊牧民ではなく、土地を開拓して村落を造り、定着して農耕を行う文明生活の実績を既に、中原で積み上げてきていた人達でした。農耕民を自らの家畜と見做し支配する技術を伝統として所有している単なる遊牧民なら、先住氏族に対する関わり方も苛酷な支配となったことでしょうが、物部氏の場合はそうではなかったのです。
註:饒速日は九州にあったヤマト国(邪馬臺国 or 邪馬壹国)を海部氏との協議の元で大和に東遷させた九州物部氏の首長でした。九州物部氏の長を「大物主(おおものぬし)」と言います。九州の物部氏と出雲の物部氏の同族性の強さから言葉としても似たものになっている上に、九州の物部氏の東遷と九州の物部氏による出雲の物部氏への合同という歴史的事実が見えない奥に隠蔽されているため、この「大物主」は出雲の物部氏の長の称号である「大国主(おおくにぬし)」としばしば混同されてしまいます。しかし、この二つは今後は、厳密に区別しておくのが妥当ということになることでしょう。また、あの『魏志東夷伝』倭人之条の中で「邪馬壹国」として記述されていたのは、この東遷した後の(南遷だった可能性あり)大和盆地のヤマト国だったということにもなっていくはずです。丹波国が「投馬国(とまこく)」だった訳です(「たんば」≒「とま」という音声の類同性にも注目する必要があります。関東の多摩も関係がありそうです)。この考え方を採用すると、九州に散在するヤマト国の痕跡は全て東遷(南遷)前のヤマト国のものだったということにもなり、かの難解で有名な論争にもこの上ない治まりがつくと、私などには感じられます。飛鳥昭雄氏のこの説はかなり有力であると評価せざるを得ないでしょう。そもそもヤマト国問題とは、『魏志東夷伝』倭人之条に記述されたその時点でのヤマト国が何処にあったのかであったはずなのに、多くの場合その規定が緩んで、ヤマト国は何処にあったのかと問いが一般的かつ曖昧になってしまいがちになってしまっています。このこともまた、混迷の大きな一因となっていると考えられます。飛鳥説の優れたところは、ひとつには、その点がきちんと押さえられているところだと思います。
註:ところで、九州説は距離に、近畿説は方向に難があるとは有名な話です。しかしながら、会稽(かいけい)の真東はその地の緯度の分だけ北緯線より南にずれるのでなければならないはずなのに、九州も近畿もこの基準には合致していないという点になると、皆あまり注意を向けることがないようです。この点に合致するのは屋久島だけですが(実際は屋久島や種子島のやや南の辺りが真東である)、ヤマトが屋久島を中心とする南九州にあったとすると、その他多くの重要な条件が無効になってしまいます。「当時は方向などに厳密ではなく、これは『東の方』くらいの意味なのだから、それが厳密には東北東になっているところで何の問題もない」などと主張しつつ、九州説や近畿説では実際は北東に近くなってしまい、たとえ大まかにでもそれを東と表記できるとはとても言い切れないことや、中国には当時既に羅針盤も、指南車(しなんしゃ)などの精密測定機器も存在し、極めて厳密に制作された全土図すら現存していたことなどには目もくれないまま、大抵は、方向と面積の正確さの犠牲の元に作られ緯度線が真東を指すかのように錯覚させやすいメルカトル図法の東洋全図に感覚的に誤魔化されて、変に納得してしまっていることが多いようです。何れにせよこの方向のズレだけは、誰がどう対処しようと、解決不能にも思われます。しかし、飛鳥説では何と、私ですら受け容れるのを今だに躊躇してしまいがちなほど大胆で斬新なもうひとつの仮説を、とは言え非常に客観的で説得力のある詳細な論述を通して打ち出すことによって、この点すらクリアできているのです。その仮説とは、「『魏志東夷伝』倭人之条が書かれた3世紀当時には列島が、九州を軸に時計回りに現在の位置よりも90度以上ズレていて、瀬戸内海はまだ形成されていなかった。列島の回転移動は何万年単位などではなく何年単位で起こった」という仮説です。この仮説を導入すると近畿説に限っては、方向を巡る全ての問題が解決することになるわけです(この仮説を導入しても九州説の場合はまだ、会稽の北東にとどまります)。従って、飛鳥昭雄氏による、先述したようなヤマト国近畿遷移説の場合は、今はまだこの私ですら受け容れには慎重にならざるを得ないほど大胆で斬新なこの列島高速回転移動説にすら高い信憑性を感じさせてしまう程、収まりが良くなっていると評価せざるを得ない訳です。あまりにも収まりが良すぎてかえってこちらの咀嚼が間に合わないくらいですが、取り敢えずここに記して皆さんに紹介しておく価値はあると判断します。
註:列島高速回転移動なんて本当にあったのか?そのような目で Google Earth の海底地形図を眺めると、フィリピン海プレートの割り込み具合いが如何にもこの説を裏付けているように見えてくるのは、私だけでしょうか?実は、専門の科学界でも最近は、岩盤の磁力線の方向を科学的に詳しく大規模に調べた結果、斉一説の影響から時間の尺度が今だに何万年となっている点を除けば、列島の回転移動があったことと、その軌跡や方向が飛鳥説におけるものと完全に一致していたことについては、動かし難い事実として認知されているようなのです。それが起こったのが、何万年前にゆっくりとではなく、2000年前くらいにかなりの高速で一気にだったということだけが、斉一説という根拠のない偏見の影響から、発想もされずにいるようなのです。自然界の変化はマクロなものの場合は必ず均一の速度でゆっくりと起こるものだという思い込みは、よく考えると確かに、この世の実態には合わないように感ぜられます。急激な地球環境の激変のことを科学自身も少なからず何度も語っていると思うのですが、だからと言って自分達の底流を見えないとことから支配している大前提そのもののになると、それを批判の俎上に上げようと発想することすら原理的に不可能になっているようなのです。かくして、明らかな偏見がなかなか放棄されずにしつこく生き続け、真実追求の歩みを妨害し続けることになるわけです。因みに放射性炭素14測定法などの科学的な年代測定法の場合も、それが一旦権威によって判定されてしまうと誰も、それを自分の目で実際に検証できない上に、検証しようともしない訳ですが、実際は、斉一説に負けずとも劣らない程の危うい代物になっているのだそうです。さらには、化石の年代判定法もそうらしい。詳しくは、飛鳥昭雄氏の著作をお読みください。
註:ところで、山形という研究者が提示している説で、一部の人達に熱狂的に支持されている説があります。「『魏志東夷伝』倭人之条を文献として放棄して、一般にはこれまであまり取り上げられてこなかった他の多くの倭人伝を互いに緻密につき合わせて考えると、三韓は一般に考えられているより遥かに北にあったと記述しているようにも解釈できるし、『倭国はその南に接する』という記述もあって、これがその解釈を保証すると考えることもできる。この場合はしかも倭国そのものが、従ってヤマト国そのものが、半島にあったという事実もまた伝えられていることになる。ただし、私の理論ではまだ『倭国の北岸に狗邪韓国(クヤカンコク)あり』が十分に咀嚼できないことは認める」という説です(山形説)。これについては、九州が半島と地続きだった時期があることや列島の高速回転移動の過程で半島からごく短期間に分離したことが把握できていないために見かけ上生じた、文献学上の矛盾を指摘した説にすぎないと、見定めることができるのです。しかしながら、飛鳥説でも流石に、九州と半島が地続きだったことがあるとまでは言っていません。もっとも、列島から半島に大きく広がっていた広い意味での倭の一部だった三韓が時代の推移と共にそれぞれアイデンティティを確立するようになり、ある時期から、それらとは区別される狭い意味での倭と史書の中で併記される程の独立した地域になった変遷過程を考慮に入れつつ、当時の「国」とは必ずしも、現代の国民国家のように国境線によって面として区切られたものではなく、王城をはじめとする幾つかの拠点が海陸を問はず交通経路によって結ばれた、境界の曖昧なネットワークにすぎなかったという事実もきちんと踏まえた上で考察すれば、「倭国は三韓の南に接する」を、山形説が無自覚的に決めつけているように「倭国の国境線は三韓の南の国境線と陸上で接触している」と解釈する必然性など必ずしもないことに思い至るはずだということは、ここで指摘しておきたいと思います。「三韓ネットワークの内どのネットワークを辿っても、南に行くと次に現れてくるネットワーク、それが倭である」と言っているに過ぎないからです。従って、従来の解釈のように狭い意味での倭と三韓が海峡で隔てられていたと考える場合であってもその記述には必ずしも、矛盾してはいない訳です。この場合は、ネットワークとネットワークを結ぶ交通経路が海上航路であっても全く構わないことになるからです。しかも、狗邪韓国とは所謂東表国(とうびょうこく)のことで、半島南端部分よりも海峡を跨いだ北九州部分の方が本国だったと解釈しさえすれば、狗邪韓国から半島の方の拠点が失われた比較的浅い時代に「狗邪韓国は倭国の北岸にあり」という記述がなされたところで、その時点では全くおかしくないということにもなる訳です。何より山形説では、『魏志東夷伝』倭人之条が、十分に明確な理由もなく放棄されてしまっています。これは致命傷でしょう。何故なら、『魏志東夷伝』倭人之条も含めて全ての文献を網羅できる説が出てきた時には、自ずから潔く身を引かなければならなくなってしまうからです。三韓や倭国の概念としての変質や位置の変遷を計算にいれないまま理論を組み立てている嫌いもあります。山形説の価値は、『魏志東夷伝』倭人之条以外にも倭国あるいはヤマト国の位置を記述した文献が思いの外沢山あり、『魏志東夷伝』倭人之条の書かれた時点とは時代にそれぞれ隔たりはあるものの、そのことをきちんと踏まえた上でそれらも考慮に入れて考察すべきなのに、これまではそれがちゃんと考慮に入れられていないという事実を周知させた点以外には全くないと言わざるを得ないようです。
スサノオによるヤマタノオロチ退治の伝説には、その意味はまだ私にとっては研究課題にとどまりますが、確かに、渡来人による先行部族の征服や駆逐のニュアンスが読み取れます(ただし、弱者救出のニュアンスもまた、そこにはちゃんと含めて伝えられている)。しかしこれは、物部氏や海部氏の列島移入よりも遥かに昔のことだったと考えるべきでしょう。
スサノオ以前の列島は恐らく、蘇我氏や中臣氏の東表国が広い地域に幾つかの拠点を置き、江南から移入してきたミャオ族などを中心とする弥生の集落がその周囲に展開していて、そこに大陸系の製鉄遊牧民が時々、沿海州から日本海ルートを通って侵入しては集落集落を襲って略奪し続けるという状況になっていたことでしょう。スサノオはその中でも比較的後発の製鉄遊牧民のひとつとして、この列島の歴史に登場してきたものと考えられます。これら製鉄遊牧民の中にヘブルやイスラエルが混ざっていた可能性があるのです。
物部氏が丹波に入ってきた時そこには、かつて他の製鉄遊牧民を武力で制圧して先住農耕民を解放し、先住農耕民に入り婿した後長い年月を経て先住農耕民に同化吸収されてしまった、そんなスサノオの子孫たちと、その子孫たちによって保護され緩やかに統合されたミャオ族の村落群があった。未だ手付かずのままで残された広大な土地もあった。即ち先住氏族にとっては手の施し様もないただの荒地だが物部氏にとってはまさに開拓にもってこいの広大な未開拓地があった。それら弥生人の中に支配層の一部として紛れて生活しているヘブルやイスラエルの同族たちの祭祀場も存在していた。山地の尾根伝いには鉱物を求めて山岳信仰のヘブルやイスラエルの民が全国津々浦々に連絡ネットワークを張っていたことでしょう(例えば愛宕山からは、山伝いに比叡山まで行く道があり、空海さんも通っていたことが分かっています。今は有名なハイキングコースとなっています)。
先住の民にとって物部氏は、自分達の生活圏を全く侵すことなく自分達の生活圏のすぐ外側を自分達にはできない高度なやり方で勢いよく開拓して行き、そのことによって隣人である自分たちにも豊かさと安全をもたらしてくれる存在に映ったことでしょう。しかも、よく調べてみると、自分達の支配層に加わっている一部の氏族の遠い、しかしながら決して無視することのできない重大な意味合いを持った同族だということが分かったのです。
註:何百年もの間交流のなかった同族同志が、たとえ互いにそのアイデンティティを失わないでいられたとしても、地の果ての新天地で何百年か振りに出会い、その際互いに同族同志であることを確認できるとしたら、それはただ、互いの神殿を調べて信奉する神を確認することができる場合以外には考えられないでしょう。古代の列島でヘブルやイスラエル、ユダヤの支族同志の間に起こっていたのはまさに、このようなことだったに違いありません。その証拠に、物部氏や秦氏、賀茂氏によって神社が創建された時も、先住氏族が聖なるものとして大切にしていた磐座などの施設は、その聖域内に神社建設がなされるにも拘らず、多くの場合は奥の宮などの形で同じように大切に扱われたのです。
そこに紛争の起こる余地はほとんどなかったと推測されます。物部氏と近隣の先住氏族達は、その内次第に、ひとつの運命共同体として纏まり、一緒に発展して行ったことでしょう。
さて、先述の問いをもう一度ここで、次のように規定し直しましょう。下鴨神社の辺りに聖域を設けていた所謂「縄文」の先住氏族は、最初は物部氏によって、次は秦氏や賀茂氏によって、どのように処遇されたのでしょうか?同化か?それとも、駆逐や征服か?飛鳥説という非常に有力な説が出たとは言え、この問題についてはやはりまだ、暫くは粘り強く調べていかなければならないと思います。
さて、飛鳥昭雄氏は、物部氏以前の先住部族も、物部氏も、秦氏や賀茂氏と同じくヘブルやイスラエル、ユダヤであり、そのことをお互いに確認しあった上で、協議の上で同化したのだと主張しています。
註:物部氏は元々は、アケメネス朝ペルシャに定着していたユダ族やベニヤミン族、レビ族からなる所謂「東ユダヤ人」だったのだそうです。アケメネス朝滅亡の後、紀元前3世紀の戦国時代には徐福の民として山東半島あたりに定着し、同族である秦始皇の手厚い支援に基づいて二度にも及ぶ列島への大規模な民族移動を行ったと言われています。
物部氏の大半は秦氏や賀茂氏と邂逅した時に、ユダヤ教徒として、秦氏や賀茂氏の説くユズメシャ(ウズマサ/イエス=メシヤ/イエス=キリスト)の「福音(良き知らせ)」即ち「アブラハムやイサク、ヤコブの時代からヘブルやイスラエル、ユダヤの民である我々が心待ちにしていたメシヤ。それがとうとうやってこられたのです。ナザレのイエスと仰います。どうですか?何とも嬉しいことではありませんか!」という内容の知らせを受け入れて秦氏に糾合し、ユダヤ人原始イエス教徒としての秦氏の一員となったのだ(我々が現在神道として理解している宗教の担い手としての秦氏。ヨーロッパのキリスト教徒とは、ある特殊な事情からイメージが全く異なっていますが、正当性ではそれを遥かに凌駕していると言えます。何しろイエスとイエスの家族や弟子たちの直系なのですから)と述べています。つまり、改宗した上に改姓まで行ったというのです。その中には、それ以前に物部氏に似たような形で糾合した「縄文」のヘブルやイスラエルも含まれていたことでしょう。勿論、物部氏のままで留まった人達もいました。
要するに秦氏はこの時点で、
(1)本来の賀茂氏(裏天皇と八咫烏[やたがらす]組織)
(2)本来の百済系秦氏(中原では秦や前秦に、最終的には後秦に参入していた)
(3)丹波物部系の賀茂氏(海部氏。改姓しなかった物部氏を含む)
(4)丹波物部系の秦氏(改姓しなかった物部氏を含む)
(5)先住系の賀茂氏(改姓しなかった物部氏を含む)
(6)先住系の秦氏(改姓しなかった物部氏を含む)
(7)九州物部系の賀茂氏(改姓しなかった物部氏を含む)
(8)九州物部系の秦氏(改姓しなかった物部氏を含む)
のような複雑な内部構成になったということになります。
これを部分的に裏付ける事実としては、松尾大社(まつのおたいしゃ)を創建したとされる秦忌寸都理(はたのいみきとり)についての『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』の記述を挙げることができます。全秦氏の中でこの松尾大社の秦氏だけが「饒速日命之後也(にぎはやひのみことのこうなり)」と記述されているのです。これは、秦氏の中に九州物部系の秦氏が存在することの証拠と考えることができます。祭神も「賀茂の厳神、松尾の猛神」と昔から形容されてきた大山咋(おおやまくい)=大山祇(おおやまづみ)で、イエス=メシアの福音を知るまでのイスラエルやユダヤの崇拝する絶対神が山神(やまのかみ)や雷神(らいじん)、雲神(くもがみ cf. 出雲 )、祟神(たたりがみ)などとして旧約聖書中に記述されているのと特徴が完全に一致しています(そう言えば今年は、夏から現在に至るまでずっと、例年にないくらい激しく頻繁に、松尾山に雷鳴が轟いています。何かに怒っていらっしゃるのでしょうか?)。
では「新羅(シンラ)系の秦氏」についてはどうなるでしょうか?新羅系の秦氏とは、一旦は新羅に定着した後で何段階にも渡って列島支配層への移入を繰り返す一方、半島では百済(くだら)や高句麗(コウクリョ)を滅亡に導いて三韓を統一し、それ以来一貫して半島の支配階級の一角であり続けている氏族のことです。この氏族は日本では、藤原氏と並んで、現代に至るまでずっと日本国に不幸をもたらし続けてきた元凶と非難する声の喧しい、その意味で極めて注目度の高い氏族なのです(8世紀に創られた人工の氏族藤原氏の実体については今後のテーマです)。
ところで、チュルク系の遊牧諸部族(突厥[トッケツ]や鉄勒[テツロク]、エフタル、匈奴[キョウド]、烏丸[ウガン]、鮮卑[センピ]など)は、紀元前のかなり古い時代から半島を迂回しつつ沿海州から日本海を渡って列島まで通行し続けていて(現代の北朝鮮の拉致部隊や脱北者の侵入経路とよく似た経路です)、丹波(文献上では「多婆波[タバナ]国」や「投馬国」とも表記されている)を中心とする山陰から越に至る広い地域に分布する幾つかの「国」を拠点とし、そこから辰韓や弁韓に侵入して新羅を建国したと見られています。例えば、「中央アジアやペルシャ、ローマの文化の影響が色濃く残っているのは、中原の極少数の地点を除けば、東アジアでは奈良とこの新羅以外ひとつもないということになっているわけだが、それはまさに今ここで述べているような事情があったためである。新羅の『羅』は羅馬(ローマ)の『羅』なのかもしれない」。このように、小林恵子氏をはじめとする多くの研究者が主張しています。さらには、現在は「からすま」と発音が変わった上で通りの名前となってしまっていますが、その通りが平安京建設以前には烏丸川(からすまがわ/ウガン川)という河川だったことも分かっているのです。さらに、最初期の新羅には瓢公(ひょうこう)という倭人の大臣がいたという記録がありますが、この瓢公は多婆波国からやって来たということになっています。一方丹波には与謝宮(瓠宮[よさのみや]。籠神社[このじんじゃ]の奥宮たる真名井神社[まないじんじゃ]のこと)があり、この「瓠」も「瓢」も何れも瓢箪のことです。瓢箪は勿論アフリカ原産で、中央アジアでも早い時期に栽培されていました。また、第4代の王昔脱解(ソクタレ)の誕生説話にも多婆波国出身との記述が含まれます。さらには、初代王赫居世居西干(カクキョセイキョセイカン)の「赫」にも瓢箪の意味があるようです
註:赫居世居西干の「居西干」は「いせいかん(伊勢神)」に繋がるという説がありますが、それはしかし、間違いだと思います。漢民族以外の人名には漢字の音が当てられるのであって、漢字の意味を大和言葉で翻訳して漢字の読みとして当てた訓読み(くによみ)は、私の知る限り決して当てられるはずがないからです。この説では「居」に音読みではなく訓読みを当てようとしています。しかも「居」の正しい訓読みは、高校の古典文法でも習うように、「ゐ」であって「い」ではありません。「伊」の訓読みは間違いなく「い」です。両者は決して、混同されたりはしません。
また、列島においてスサノヲと呼称される牛神バールの神殿はすべて「出雲」系の神社仏閣となっていて、大国主や大物主と関係付けられることも多く、新羅系の秦氏のことをこのバール神崇拝の東洋における担い手として取り扱う研究者も少なからずいるようです(そう言えば、あの義経は、新羅系秦氏の一派清和源氏の一員としてその源氏の運命に大きく関与するよう使命づけられて、組織的な何者かに意識的に誕生させられ育てられたと思われるのですが、その義経の幼名が「牛若」でした)。
これらのことを勘案すると、後の源氏を含む所謂「新羅系の秦氏」の元祖はどうやら、物部氏が百済系の秦氏到来以前に何らかの関わりを持っていた列島先住部族の中に紛れ込んでいた可能性が高いと考えられます(勿論可能性としては、秦氏の中には全系統に例外なく、新羅系の秦氏の元祖と同じ系統の「邪悪」な氏族が密かに潜伏していた可能性もないわけではありません)。つまり、半島南部から列島にかけての地域に今見られるような隔絶がなく、列島と半島がひとつの大きな地域として歴史と支配層を共有していた時代の最初期には、半島から列島にではなく列島から半島に、新羅系秦氏の元祖が移って行ったというのが実態だったらしいということです。
「悪い韓国人や朝鮮人が日本に侵入してきて」という現代の地理観から組み立てられた構図は、その当時に限定して言えば完全に、実態からずれる可能性があるという訳です。すなわち、牛の姿をしたバール神を崇拝する「邪悪な」氏族は、賀茂氏が下鴨神社を創建した当時においては決して賀茂氏の方にではなく、現在は糺の森と呼ばれている領域で賀茂氏到来以前に祭祀を行っていた方にこそ潜んでいた可能性が高い。ユダヤ人原始イエス教徒としての賀茂氏の方は、実は同胞であるということが判明した現地の先住民達を説得して糾合し、その本来の信仰に立ち戻らせたのだ。スサノヲの黄泉の国への封じ込めの神話はこのことを象徴している。しかし、このようにして物部氏や秦氏、賀茂氏に一旦は糾合されたにも拘らず、バール崇拝の先住氏族の中にはバール崇拝をその後も密かに維持した者達がいて、秦氏や賀茂氏の「善なる」中枢を逆に、時代が下るにつれてゆっくりと自らの「邪悪」さで侵食して行った。それが現在の秦氏や賀茂氏の、そして官僚をはじめとする現在の支配層の実態となっている。このように結論づけられるのかもしれません。「糺の森から出土するあれらの遺跡で祭祀を行っていたのは誰なのでしょう」と問われて「分かりませんね」と微笑みながらとぼけて見せる下鴨神社の関係者こそ、ひょっとしたら遠い先祖の時代に、まさにその現場にいたのかもしれないのです。
悪を実体として捉えることができるか、あるいは捉えるべきかという疑問は、例えば親鸞の悪人正機説など、哲学者として重々承知しています。しかしその論議はひとまず、脇に置いておかなければなりません。今問題としなければならないのは、歴史的実在としての「邪悪な」氏族のことなのです。
欧米のハザール偽ユダヤ人と同じように、氏族としての自らの、イスラエルやその他の氏族との決定的な違いを悪と強く自覚して、生存して行くための方策の体系を、善にではなく悪によって徹底的に組織し、何世代にも渡って実践を繰り返しながら徹底的に練り上げ、自分達の血や肉のレベルにまで染み込ませ、結果として、他人を陥れ、犠牲にして生き残っていくことに自然な喜びや生き甲斐を感じるまでになった、自分では何も生産せず、他氏族に依存してしか生きようとしない氏族。悪を実体と信じ、実際に悪を実体のようなものにまで昇華させ、それを生存の源泉として生きている氏族。悪の体系の一環として善なる変装にも巧みで、他氏族に、特にイスラエルやユダヤに、従って物部氏や秦氏に化けて侵入する意欲と技能に、我々の想像を遥かに超えて熟達した者達。人間一般を「家畜」と呼び、人間一般に対する共感や同情、同族意識が根本的に欠落し、我々人間から見ても、冷静に言って最早、生物学的に人間とは呼べないレベルにまで種族として進化してしまった者たち。我々人間一般の生活に本来は全く不必要なはずのお金の使用を押し付け、我々を見えない監獄に閉じ込めた者たち。
このような者達の存在を想定し、その者達のこれまでの行状を洗いざらい明確に記述して、隠蔽された真の歴史を表に引き出すことで、人間一般が本来の神々しい次元にまで戻る下地を確立すること。この者達が実体のレベルにまで昇華させた悪を根本から滅ぼして、彼等を人間の領域に連れ戻すこと。これこそが今、私が行おうとしていることであり、この一連の著作を通じて皆さんに伝えようとしていることです。
このような者達がこの列島に外国から侵入して、列島原住民としての我々を支配し、苦しめているというのが、インターネットや書物では一般的な論調となっています。ここに私は、一石を投じたい。そのような者達は、この日本では、後からやって来た秦氏や賀茂氏の中にはいなかった。秦氏や賀茂氏がこの列島で出会い同化した所謂「列島原住民」の方にこそ紛れていた。その者達は秦氏や賀茂氏に先回りするかのように既に到来していた。秦氏や賀茂氏は逆に、善を実体として昇華させて、悪を根本から滅ぼす力を獲得した、これまた我々の想像を遥かに超える次元の存在者達だった。その秦氏や賀茂氏すら現在は、内側からも外側からも、かの悪なる種族に乗っ取られてしまっている。かくして我々一般の人間は、家畜としての惨めな生を、その自覚すら許されないまま黙々と過ごし、収奪され続けた果てに虚しく死んで行くよう運命付けられてしまっている。
しかし、本物の秦氏や賀茂氏が完全に滅びてしまったわけではない。これまた我々の想像を遥かに超えたやり方で何処かに潜伏しながらも、この世の中の動きを具に把握した上で全体のコントロールを維持し、流れを何とかいい方向に持って行こうと奮闘しているのだ。
善と悪をこのように実体化して語るとまるで、「小説のような話」になってしまいます。しかし、小説のような話も、それを心の底から信じ込んだ上で、驚くほど高度な知能と練りに練られ蓄積された技能を持つ人達が、何千年にも渡って氏族全体で実践し続ければ、小説を遥かに凌駕するような奇想天外な構造を持った現実として、生きて動き出すものなのです。そもそも、この壮大な仮想現実の方が小説などより遥かに古い歴史を持っている訳で、逆に小説こそ、それをイマジネーションの源泉として、その壮大な仮想現実の中での何らかの重要な役割を帯びて、次から次へと、あちらから我々の元に届けられ続けているものに過ぎなかった。まさにこれが真相だったのです。
註:イサクの息子でヤコブの兄でもあり「神の永遠の呪い」を受けたエソウの子孫でカナンに住んでいた種族が、ヤコブの子孫であるイスラエルにバール信仰を浸入させたと言われています(この種族はイスラエルではないがヘブルではあるということになります)。北イスラエルの特徴はこのバール信仰でした。聖書に馴れ親しんだ人でないとなかなかピンとこないでしょうが、このバール神に対する感情はどこまでも複雑なのです(この感情は謂わば悪を実体として捉えることに当たるわけです。また十戒の「姦淫するなかれ」をめぐる、セックスについての考え方の違いからくる解釈の分裂もその複雑さの淵源となっているなどといった非常に刺激的な議論が展開できるテーマでもあります。これは場所を改めて論じる方がいいでしょう。ここでは一旦、そのような「邪悪」な種族の実在を前提して話を進めていきます)。金星や六芒星、五芒星、十六花弁菊花、樹木、三本柱、ピラミッドなどをシンボルとして所有しつつユーラシア世界の宗教全般に普遍的に潜り込んできた統一的密教集団の存在を私は想定していますが、その暗黒面を何らかの意図で背負い込まされ、牛の象徴を(あるいは男△女▽和合の象徴六芒星を)与えられた種族がこの種族なのではないかと思います。古代のペルシャとインドで善神と悪神の逆転が見られることや、金星や龍についての価値観に東西で逆転が見られることは有名ですが、それら様々な価値逆転を何らかの理由で意図的に執り行ったのがこの密教集団だったようです(この価値逆転の意義も今後の重大な課題です)。
註:因みに「釈尊」とは、シッダールタという名前のシャカ族に属す有名な聖人を指して、「シッダールタさん」とではなく「シャカ族の聖人様」と呼びかけていることと同じになります。この釈尊の姓(家族名)がまた「ゴータマ/ガオタマ」なのですが、その意味が何と「偉大なる(タマ)聖牛(ゴー/ガオ cf. cow )」なのだそうです。シャカ族は、王家のトーテムがやはり、牛だったのです。シャカ族も新羅系秦氏の元祖と繋がるヘブルやイスラエルだったのかもしれないのです。しかも、新羅系秦氏の半島での姓のひとつである「昔」を「シャカ」の漢字表記と指摘してインドのシャカ族と半島の昔氏の繋がりを主張する研究者が少なくありません。この昔氏は、丹婆波から新羅に入って王となった昔脱解(ソクタレ)の子孫です。
しかしこの話は、新羅系の秦氏に留まりません。高句麗にもまた結びついてくるのです。例えば、高句麗兵の冑には「牛の角」が付いていました。また牛頭天王(ゴズテンノウ)を、従ってスサノヲを、祀っていることで有名な祇園の八坂(弥栄)神社(祇園神社)も、あの淵蓋蘇文(ヨンゲソムン、イリカスミ or 大海人皇子/後の天武天皇)が実効支配していた頃(平安京ができる以前の7世紀中盤で飛鳥時代)の高句麗から、イリシオミと称する人物が渡来して創建したものと伝えられています。さらには、高句麗における「早衣(チョイ)」という名称の武装密教組織(その長は「国仙(コクサン)」)と新羅における「花郎(ファラン)」という名称の武装密教組織(その長は「源花(ゲンファ)」。列島では後に源氏となった。元々はシャカ族も属していたインドのクシャトリアの流れであると指摘する人もいる。歌舞伎の隈取りと全く同じような化粧の伝統を持っていたことでも有名)の共通性を指摘する人もいます。また、賀茂氏の旗印である三本足の八咫烏は、遠い西方ではアレクサンダー大王のエジプトでの冒険の物語にも登場するシンボルですが、高句麗もその重要な旗印として持っていたことが分かっています。さらには、下鴨神社や松尾大社に伝わる丹塗り矢(にぬりや)の伝承は、高句麗の始祖である朱蒙(チュモン)の母親が朱蒙の父親と結婚する時の話と全く同じものです。これらのことを考慮に入れると、高句麗建国のベースにも一部、現在は一括りに「秦氏」の中に含められている、丹波を経由したこれら「邪悪な」密教集団の影響があったと考えた方がいいのかもしれません(小林恵子氏もその著作の中で、高句麗建国における列島勢力の影響の大きさについて、詳細に述べています)。
何れにしても、「半島から列島への流れ」という固定観念は、正しい歴史認識のために早急に破棄しておいた方がいいでしょう。半島の国は、倭の一部としての半島南部に形成された三韓も、付け根から満州にかけて形成された高句麗も、その形成には当時の列島勢力の下支えが少なからずあったにちがいないのです。悪は「最初」から列島にいたのです。
最後に、下鴨神社もこの八坂神社もそうですが、後発の渡来人が神社を建てる時は「縄文」以来の聖地に重ね合わせるかのように建てていることが多かったようです。これを征服という発想で見た場合は「被支配者に自分の神と同じ神を拝ませ、支配を比較的容易なものにするために支配者が、洋の東西を問わず用いてきた常套手段である」という言い方になるようですが、同化という発想から見た場合は「先行する氏族が聖地を定める際に用いるコスモロジーと、後発の氏族が聖地を定める際に用いるコスモロジーが、両者が元々は同族である限りにおいて同じになるから」ということになるでしょう。
このコスモロジーについては、下鴨神社の場合、比叡山頂や比叡山延暦寺と木嶋坐天照御魂神社、松尾大社を結ぶラインが夏至の日の見かけ上の日の出地点と冬至の日の見かけ上の日の入地点を結ぶ線に一致していることは、よく指摘されることです。またこれは私が Google Earth 上で計測し確認したことですが、山城における秦氏の代表的な神社である松尾大社と下鴨神社、伏見稲荷大社は、松尾大社を頂点とする正確に西向きに配置された一辺約5マイルの正三角形を形成していて、おまけに下鴨神社と伏見稲荷大社の中間地点にあり松尾大社から見て正確に東の方にある八坂神社と松尾大社の間の距離も約5マイルになっていて、松尾大社を中心とする半径約5マイルの円の円周上には、北から時計回りに、上賀茂神社と下鴨神社、八坂神社、伏見稲荷大社、藤森神社が、さらには巨椋池を跨いで長岡天満宮が、綺麗に配置されているのです。偶然かもしれませんがマイルは、ローマ時代から地中海世界を含む広い地域で呼び名は違っても普遍的に用いられた距離の単位で、人の2歩を1パッススとした場合に、1000パッススを1マイルとしていたそうです。passus は「歩み」を表し、mille は「千」を表します。ヘブルやイスラエル、ユダヤもこの単位を用いていたはずです。5にどんな意味があるのかは、今のところ見当もつきません。
さらには、古代人にとって何らかの装置の意味を持っていたらしいイワクラ(ヤクラ)の近くには決まって、そのイワクラ(ヤクラ)に何らかの関係づけをしているかのようにイヤサカ(ヤサカ)と呼ばれる環状列石(ストーンサークル)がひとつ設置されているそうですが、八坂(弥栄)神社の場合は、その北に岩倉という地名があり山吉神社(磐座神社の縮小した現在の神社)内にその地名の由来となった磐座があることや、八坂神社内の公園の名前が「円」山となっていることに私は気づいています。ただ、八坂神社内にかつて本当にストーンサークルがあったかどうかはまだ、未確認です。
古代のヘブルやイスラエルに太陽をはじめとする各天体への信仰や巨石信仰があったことは旧約聖書内の記述からもほぼ定説となっているそうですから、今述べたような二つの事実もまた、物部氏以前の先行氏族がヘブルやイスラエルと深く結びついていることの証拠となっていると言っていいのかもしれません。
註:日本イワクラ学会と呼ばれる学会の会長の地位にある何某氏の著作によれば、イワクラは地球規模にネットワークの広がる一種の光通信装置で、イヤサカはイワクラへの一種のエネルギー供給装置のようなものになっているのではないかということでした。
註:この地域のやや西にある有栖川の「有栖(ありす)」は、その川の流れている嵯峨野が平安初期に旧百済王家(=桓武朝)の拠点となった所縁で、百済最初の首都だった慰礼城(ウィレソ。後の南漢山城[ナムハンサンソン])傍を流れる阿利水(アリス。「禊の川」の意味で、現在は漢江と呼ばれている。有栖川も禊に使われていたと伝わっていて、その機能まで同じである)に因んで名付けられたもののようです。私はそのように睨んでいます。
対して、下鴨神社の糾の森にある禊の施設は、実際に行ってご覧になられたら分かるように、土地柄としては水源が極めて豊富で、「涸れて」しまう要素など全くありません。神社職員が日常的に入り込んで落ち葉などのゴミを取り除いていることや、特別な儀式の時には豊富に水が流れていることを考慮に入れると、おそらく、日頃は意図的に水を抜いているのだろうと推測されます。何らかの止むを得ない事情からどんなに不吉な見せかけに覆われていようと、下鴨神社の奥底で聖なる清水が涸れてしまうようなことなどないと、私は信じています。
さて、この糺の森ですが、秦氏の中の祭祀族と規定される賀茂氏がこの森のある河川合流地域に下鴨神社を創建する以前には物部氏が、さらにその物部氏以前には所謂「縄文」人が、この地域に拠点を持ち活動していたのは確実です(「縄文人」など、実際は勿論、実体のない概念ではあります。従って私としては、本当は「縄文人」だとか「列島原住民」という言葉の使用には慎重にならざるを得ないのです。この点については、既出の記事『「朝鮮」及び「日本国民」の厳密な意味規定の勧め』を、ご参照ください)。
そんなこの河川合流地点の聖なる森に秦氏と賀茂氏が後からやって来て、下鴨神社を創建したのです。ところで「賀茂氏は奈良盆地の南西部にある葛城(かつらぎ)から淀川や鴨川を遡ってこの地に移住した」という伝承と「秦氏が糺の森を宇多野の元糺の森からこの地に移設した」という伝承が、それぞれ別々に確認されています。これら二つの伝承が伝えている事実はおそらく、同一の事実なのでしょう。このことから、葛野の秦氏と葛城の賀茂氏との間には連絡や協議、合議があったことが分かります。賀茂氏は秦氏の祭祀族(レビ族)であり、秦氏は賀茂氏の元で様々の産業に従事する一般氏族だったという飛鳥昭雄氏の洞察を裏付ける事象と言っていいかと思います。
問題は、先住民である物部氏やその他の氏族と渡来人である秦氏や賀茂氏との関係が如何なるものだったのか?さらには物部氏とその他のさらなる先住氏族との関係が如何なるものだったのか?ということになるでしょう。征服だったのか?同化だったのか?あるいは、駆逐だったのか?
飛鳥昭雄氏によると、物部氏もまた、紀元前3世紀に山東半島辺りから丹波や北九州に移住してきた渡来人です。丹波に定着した方の祭祀階級が海部氏(あまべし)なのだそうです。この海部氏が定着し切り開いた地域が当時は「出雲(いずも)」と呼ばれていた。
註:驚いたことに、島根の「出雲大社」は通称でしかなく、正式名称は飽くまでも「出雲大社」ではないようです。そもそも島根に古代遺跡の広がりが比較的少ないのは有名な話です。反面、極端に大量の青銅器が、銅鐸も、また銅剣や銅矛も、それぞれ全く異なる文化圏を象徴する祭器であったはずなのにひとつに纏まって整然と埋設された遺跡なら数カ所、発掘されているのです(荒神谷[コウジンダニ]遺跡など)。だからこそ、強大な勢力の長期に渡る分布ではなく、ある画期的な大事件が、すなわちある勢力の他のある勢力による計画的な移設や封じ込めがあったであろうとの推測が立てられるのです。本当の出雲はどうやら丹波、特に亀岡辺りにあったようです。ある時、ある事件をきっかけに、現在の「出雲」に、大規模に移設され封じ込められた上で、現在の「出雲」を出雲として人々の心に定着させようとする一連の極めて入念な措置が、何者かによって行われたというのが実態のようなのです。今の「出雲」が「出雲」と称されるようになったのは飽くまでも、7世紀の日本建国以降の話でしかありません。
この物部氏(海部氏)は「大国主(おおくにぬし)」を指導者として、例えば保津峡を掘削することで亀岡盆地にあった湖を一面の耕作地に変え、その東部に出雲大社を立てるなど、秦氏以前にもう既に、丹波から山背にかけての非常に広い地域の大規模開拓に当たっていたと伝わっています。近江や伊勢、尾張~相模~武蔵、伊勢~熊野~阿波、さらには「出雲」、吉備、豊~筑紫、北陸~越といった具合に、紀元前16世紀から始まったと考えた場合の弥生時代の終盤において列島を多方面に大規模に開拓していったのも、この海部氏だったと考えられます。後に秦氏が播磨と共に重要な根拠地のひとつとすることになる葛野は、山裾に近いところは初めの内、物部氏によって開拓が始められたのです。
註:そもそも当時は、山背(やましろ)が山背とは呼ばれず、広い意味での丹波だったのではないでしょうか。あるいは、大和盆地から見て山の後ろの山背ではなく、丹波から見て山の後ろの山背だったのではないでしょうか?因みに山背は、最も古くは山代と表記していたそうです。漢字の伝来以前は「やましろ」という音のみ。「しろ」は、例えば八咫鏡(やたのかがみ)の入れ物である御船代[みふねしろ]や、自分の感覚の中に対象の感覚を入れて「知る」、自分の感覚の中に対象の感覚を継続的に入れ続けて「調ぶ」[「ふ」や「ぶ」は、例えば「住まふ」を見ても分かるように、瞬間相動詞の未然形に接続して「~し続ける」といった継続相の意味を加える接尾辞です]、民を自分の支配下に入れて「領る」などからも分かるように「囲い込む」「容れる」「入れる」「包む」の意味です。従って「やましろ」とは「山に囲われて入れ物のようになった地域」の意味であることが分かります。本物が持っているエッセンス(理[ことわり]) を自分の中に容れてそのものに変化し、そののもの代わりに現存在するの意味から「代理」という言葉が出来たのでしょう。社は八代で「神[ヘブル語で「ヤー」]の容れ物」のことです。
物部氏と先住部族との丹波や山背における関係はおそらく、駆逐や支配ではなく同化だっただろうと思われます。それは例えば、後の大和盆地における饒速日(にぎはやひ)と長髄彦(ながすねひこ)の関係に似た関係だったと言えば、若干は通りがいいかもしれません。物部氏は多くの研究者が指摘しているように遊牧民ですが、単なる遊牧民ではなく、土地を開拓して村落を造り、定着して農耕を行う文明生活の実績を既に、中原で積み上げてきていた人達でした。農耕民を自らの家畜と見做し支配する技術を伝統として所有している単なる遊牧民なら、先住氏族に対する関わり方も苛酷な支配となったことでしょうが、物部氏の場合はそうではなかったのです。
註:饒速日は九州にあったヤマト国(邪馬臺国 or 邪馬壹国)を海部氏との協議の元で大和に東遷させた九州物部氏の首長でした。九州物部氏の長を「大物主(おおものぬし)」と言います。九州の物部氏と出雲の物部氏の同族性の強さから言葉としても似たものになっている上に、九州の物部氏の東遷と九州の物部氏による出雲の物部氏への合同という歴史的事実が見えない奥に隠蔽されているため、この「大物主」は出雲の物部氏の長の称号である「大国主(おおくにぬし)」としばしば混同されてしまいます。しかし、この二つは今後は、厳密に区別しておくのが妥当ということになることでしょう。また、あの『魏志東夷伝』倭人之条の中で「邪馬壹国」として記述されていたのは、この東遷した後の(南遷だった可能性あり)大和盆地のヤマト国だったということにもなっていくはずです。丹波国が「投馬国(とまこく)」だった訳です(「たんば」≒「とま」という音声の類同性にも注目する必要があります。関東の多摩も関係がありそうです)。この考え方を採用すると、九州に散在するヤマト国の痕跡は全て東遷(南遷)前のヤマト国のものだったということにもなり、かの難解で有名な論争にもこの上ない治まりがつくと、私などには感じられます。飛鳥昭雄氏のこの説はかなり有力であると評価せざるを得ないでしょう。そもそもヤマト国問題とは、『魏志東夷伝』倭人之条に記述されたその時点でのヤマト国が何処にあったのかであったはずなのに、多くの場合その規定が緩んで、ヤマト国は何処にあったのかと問いが一般的かつ曖昧になってしまいがちになってしまっています。このこともまた、混迷の大きな一因となっていると考えられます。飛鳥説の優れたところは、ひとつには、その点がきちんと押さえられているところだと思います。
註:ところで、九州説は距離に、近畿説は方向に難があるとは有名な話です。しかしながら、会稽(かいけい)の真東はその地の緯度の分だけ北緯線より南にずれるのでなければならないはずなのに、九州も近畿もこの基準には合致していないという点になると、皆あまり注意を向けることがないようです。この点に合致するのは屋久島だけですが(実際は屋久島や種子島のやや南の辺りが真東である)、ヤマトが屋久島を中心とする南九州にあったとすると、その他多くの重要な条件が無効になってしまいます。「当時は方向などに厳密ではなく、これは『東の方』くらいの意味なのだから、それが厳密には東北東になっているところで何の問題もない」などと主張しつつ、九州説や近畿説では実際は北東に近くなってしまい、たとえ大まかにでもそれを東と表記できるとはとても言い切れないことや、中国には当時既に羅針盤も、指南車(しなんしゃ)などの精密測定機器も存在し、極めて厳密に制作された全土図すら現存していたことなどには目もくれないまま、大抵は、方向と面積の正確さの犠牲の元に作られ緯度線が真東を指すかのように錯覚させやすいメルカトル図法の東洋全図に感覚的に誤魔化されて、変に納得してしまっていることが多いようです。何れにせよこの方向のズレだけは、誰がどう対処しようと、解決不能にも思われます。しかし、飛鳥説では何と、私ですら受け容れるのを今だに躊躇してしまいがちなほど大胆で斬新なもうひとつの仮説を、とは言え非常に客観的で説得力のある詳細な論述を通して打ち出すことによって、この点すらクリアできているのです。その仮説とは、「『魏志東夷伝』倭人之条が書かれた3世紀当時には列島が、九州を軸に時計回りに現在の位置よりも90度以上ズレていて、瀬戸内海はまだ形成されていなかった。列島の回転移動は何万年単位などではなく何年単位で起こった」という仮説です。この仮説を導入すると近畿説に限っては、方向を巡る全ての問題が解決することになるわけです(この仮説を導入しても九州説の場合はまだ、会稽の北東にとどまります)。従って、飛鳥昭雄氏による、先述したようなヤマト国近畿遷移説の場合は、今はまだこの私ですら受け容れには慎重にならざるを得ないほど大胆で斬新なこの列島高速回転移動説にすら高い信憑性を感じさせてしまう程、収まりが良くなっていると評価せざるを得ない訳です。あまりにも収まりが良すぎてかえってこちらの咀嚼が間に合わないくらいですが、取り敢えずここに記して皆さんに紹介しておく価値はあると判断します。
註:列島高速回転移動なんて本当にあったのか?そのような目で Google Earth の海底地形図を眺めると、フィリピン海プレートの割り込み具合いが如何にもこの説を裏付けているように見えてくるのは、私だけでしょうか?実は、専門の科学界でも最近は、岩盤の磁力線の方向を科学的に詳しく大規模に調べた結果、斉一説の影響から時間の尺度が今だに何万年となっている点を除けば、列島の回転移動があったことと、その軌跡や方向が飛鳥説におけるものと完全に一致していたことについては、動かし難い事実として認知されているようなのです。それが起こったのが、何万年前にゆっくりとではなく、2000年前くらいにかなりの高速で一気にだったということだけが、斉一説という根拠のない偏見の影響から、発想もされずにいるようなのです。自然界の変化はマクロなものの場合は必ず均一の速度でゆっくりと起こるものだという思い込みは、よく考えると確かに、この世の実態には合わないように感ぜられます。急激な地球環境の激変のことを科学自身も少なからず何度も語っていると思うのですが、だからと言って自分達の底流を見えないとことから支配している大前提そのもののになると、それを批判の俎上に上げようと発想することすら原理的に不可能になっているようなのです。かくして、明らかな偏見がなかなか放棄されずにしつこく生き続け、真実追求の歩みを妨害し続けることになるわけです。因みに放射性炭素14測定法などの科学的な年代測定法の場合も、それが一旦権威によって判定されてしまうと誰も、それを自分の目で実際に検証できない上に、検証しようともしない訳ですが、実際は、斉一説に負けずとも劣らない程の危うい代物になっているのだそうです。さらには、化石の年代判定法もそうらしい。詳しくは、飛鳥昭雄氏の著作をお読みください。
註:ところで、山形という研究者が提示している説で、一部の人達に熱狂的に支持されている説があります。「『魏志東夷伝』倭人之条を文献として放棄して、一般にはこれまであまり取り上げられてこなかった他の多くの倭人伝を互いに緻密につき合わせて考えると、三韓は一般に考えられているより遥かに北にあったと記述しているようにも解釈できるし、『倭国はその南に接する』という記述もあって、これがその解釈を保証すると考えることもできる。この場合はしかも倭国そのものが、従ってヤマト国そのものが、半島にあったという事実もまた伝えられていることになる。ただし、私の理論ではまだ『倭国の北岸に狗邪韓国(クヤカンコク)あり』が十分に咀嚼できないことは認める」という説です(山形説)。これについては、九州が半島と地続きだった時期があることや列島の高速回転移動の過程で半島からごく短期間に分離したことが把握できていないために見かけ上生じた、文献学上の矛盾を指摘した説にすぎないと、見定めることができるのです。しかしながら、飛鳥説でも流石に、九州と半島が地続きだったことがあるとまでは言っていません。もっとも、列島から半島に大きく広がっていた広い意味での倭の一部だった三韓が時代の推移と共にそれぞれアイデンティティを確立するようになり、ある時期から、それらとは区別される狭い意味での倭と史書の中で併記される程の独立した地域になった変遷過程を考慮に入れつつ、当時の「国」とは必ずしも、現代の国民国家のように国境線によって面として区切られたものではなく、王城をはじめとする幾つかの拠点が海陸を問はず交通経路によって結ばれた、境界の曖昧なネットワークにすぎなかったという事実もきちんと踏まえた上で考察すれば、「倭国は三韓の南に接する」を、山形説が無自覚的に決めつけているように「倭国の国境線は三韓の南の国境線と陸上で接触している」と解釈する必然性など必ずしもないことに思い至るはずだということは、ここで指摘しておきたいと思います。「三韓ネットワークの内どのネットワークを辿っても、南に行くと次に現れてくるネットワーク、それが倭である」と言っているに過ぎないからです。従って、従来の解釈のように狭い意味での倭と三韓が海峡で隔てられていたと考える場合であってもその記述には必ずしも、矛盾してはいない訳です。この場合は、ネットワークとネットワークを結ぶ交通経路が海上航路であっても全く構わないことになるからです。しかも、狗邪韓国とは所謂東表国(とうびょうこく)のことで、半島南端部分よりも海峡を跨いだ北九州部分の方が本国だったと解釈しさえすれば、狗邪韓国から半島の方の拠点が失われた比較的浅い時代に「狗邪韓国は倭国の北岸にあり」という記述がなされたところで、その時点では全くおかしくないということにもなる訳です。何より山形説では、『魏志東夷伝』倭人之条が、十分に明確な理由もなく放棄されてしまっています。これは致命傷でしょう。何故なら、『魏志東夷伝』倭人之条も含めて全ての文献を網羅できる説が出てきた時には、自ずから潔く身を引かなければならなくなってしまうからです。三韓や倭国の概念としての変質や位置の変遷を計算にいれないまま理論を組み立てている嫌いもあります。山形説の価値は、『魏志東夷伝』倭人之条以外にも倭国あるいはヤマト国の位置を記述した文献が思いの外沢山あり、『魏志東夷伝』倭人之条の書かれた時点とは時代にそれぞれ隔たりはあるものの、そのことをきちんと踏まえた上でそれらも考慮に入れて考察すべきなのに、これまではそれがちゃんと考慮に入れられていないという事実を周知させた点以外には全くないと言わざるを得ないようです。
スサノオによるヤマタノオロチ退治の伝説には、その意味はまだ私にとっては研究課題にとどまりますが、確かに、渡来人による先行部族の征服や駆逐のニュアンスが読み取れます(ただし、弱者救出のニュアンスもまた、そこにはちゃんと含めて伝えられている)。しかしこれは、物部氏や海部氏の列島移入よりも遥かに昔のことだったと考えるべきでしょう。
スサノオ以前の列島は恐らく、蘇我氏や中臣氏の東表国が広い地域に幾つかの拠点を置き、江南から移入してきたミャオ族などを中心とする弥生の集落がその周囲に展開していて、そこに大陸系の製鉄遊牧民が時々、沿海州から日本海ルートを通って侵入しては集落集落を襲って略奪し続けるという状況になっていたことでしょう。スサノオはその中でも比較的後発の製鉄遊牧民のひとつとして、この列島の歴史に登場してきたものと考えられます。これら製鉄遊牧民の中にヘブルやイスラエルが混ざっていた可能性があるのです。
物部氏が丹波に入ってきた時そこには、かつて他の製鉄遊牧民を武力で制圧して先住農耕民を解放し、先住農耕民に入り婿した後長い年月を経て先住農耕民に同化吸収されてしまった、そんなスサノオの子孫たちと、その子孫たちによって保護され緩やかに統合されたミャオ族の村落群があった。未だ手付かずのままで残された広大な土地もあった。即ち先住氏族にとっては手の施し様もないただの荒地だが物部氏にとってはまさに開拓にもってこいの広大な未開拓地があった。それら弥生人の中に支配層の一部として紛れて生活しているヘブルやイスラエルの同族たちの祭祀場も存在していた。山地の尾根伝いには鉱物を求めて山岳信仰のヘブルやイスラエルの民が全国津々浦々に連絡ネットワークを張っていたことでしょう(例えば愛宕山からは、山伝いに比叡山まで行く道があり、空海さんも通っていたことが分かっています。今は有名なハイキングコースとなっています)。
先住の民にとって物部氏は、自分達の生活圏を全く侵すことなく自分達の生活圏のすぐ外側を自分達にはできない高度なやり方で勢いよく開拓して行き、そのことによって隣人である自分たちにも豊かさと安全をもたらしてくれる存在に映ったことでしょう。しかも、よく調べてみると、自分達の支配層に加わっている一部の氏族の遠い、しかしながら決して無視することのできない重大な意味合いを持った同族だということが分かったのです。
註:何百年もの間交流のなかった同族同志が、たとえ互いにそのアイデンティティを失わないでいられたとしても、地の果ての新天地で何百年か振りに出会い、その際互いに同族同志であることを確認できるとしたら、それはただ、互いの神殿を調べて信奉する神を確認することができる場合以外には考えられないでしょう。古代の列島でヘブルやイスラエル、ユダヤの支族同志の間に起こっていたのはまさに、このようなことだったに違いありません。その証拠に、物部氏や秦氏、賀茂氏によって神社が創建された時も、先住氏族が聖なるものとして大切にしていた磐座などの施設は、その聖域内に神社建設がなされるにも拘らず、多くの場合は奥の宮などの形で同じように大切に扱われたのです。
そこに紛争の起こる余地はほとんどなかったと推測されます。物部氏と近隣の先住氏族達は、その内次第に、ひとつの運命共同体として纏まり、一緒に発展して行ったことでしょう。
さて、先述の問いをもう一度ここで、次のように規定し直しましょう。下鴨神社の辺りに聖域を設けていた所謂「縄文」の先住氏族は、最初は物部氏によって、次は秦氏や賀茂氏によって、どのように処遇されたのでしょうか?同化か?それとも、駆逐や征服か?飛鳥説という非常に有力な説が出たとは言え、この問題についてはやはりまだ、暫くは粘り強く調べていかなければならないと思います。
さて、飛鳥昭雄氏は、物部氏以前の先住部族も、物部氏も、秦氏や賀茂氏と同じくヘブルやイスラエル、ユダヤであり、そのことをお互いに確認しあった上で、協議の上で同化したのだと主張しています。
註:物部氏は元々は、アケメネス朝ペルシャに定着していたユダ族やベニヤミン族、レビ族からなる所謂「東ユダヤ人」だったのだそうです。アケメネス朝滅亡の後、紀元前3世紀の戦国時代には徐福の民として山東半島あたりに定着し、同族である秦始皇の手厚い支援に基づいて二度にも及ぶ列島への大規模な民族移動を行ったと言われています。
物部氏の大半は秦氏や賀茂氏と邂逅した時に、ユダヤ教徒として、秦氏や賀茂氏の説くユズメシャ(ウズマサ/イエス=メシヤ/イエス=キリスト)の「福音(良き知らせ)」即ち「アブラハムやイサク、ヤコブの時代からヘブルやイスラエル、ユダヤの民である我々が心待ちにしていたメシヤ。それがとうとうやってこられたのです。ナザレのイエスと仰います。どうですか?何とも嬉しいことではありませんか!」という内容の知らせを受け入れて秦氏に糾合し、ユダヤ人原始イエス教徒としての秦氏の一員となったのだ(我々が現在神道として理解している宗教の担い手としての秦氏。ヨーロッパのキリスト教徒とは、ある特殊な事情からイメージが全く異なっていますが、正当性ではそれを遥かに凌駕していると言えます。何しろイエスとイエスの家族や弟子たちの直系なのですから)と述べています。つまり、改宗した上に改姓まで行ったというのです。その中には、それ以前に物部氏に似たような形で糾合した「縄文」のヘブルやイスラエルも含まれていたことでしょう。勿論、物部氏のままで留まった人達もいました。
要するに秦氏はこの時点で、
(1)本来の賀茂氏(裏天皇と八咫烏[やたがらす]組織)
(2)本来の百済系秦氏(中原では秦や前秦に、最終的には後秦に参入していた)
(3)丹波物部系の賀茂氏(海部氏。改姓しなかった物部氏を含む)
(4)丹波物部系の秦氏(改姓しなかった物部氏を含む)
(5)先住系の賀茂氏(改姓しなかった物部氏を含む)
(6)先住系の秦氏(改姓しなかった物部氏を含む)
(7)九州物部系の賀茂氏(改姓しなかった物部氏を含む)
(8)九州物部系の秦氏(改姓しなかった物部氏を含む)
のような複雑な内部構成になったということになります。
これを部分的に裏付ける事実としては、松尾大社(まつのおたいしゃ)を創建したとされる秦忌寸都理(はたのいみきとり)についての『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』の記述を挙げることができます。全秦氏の中でこの松尾大社の秦氏だけが「饒速日命之後也(にぎはやひのみことのこうなり)」と記述されているのです。これは、秦氏の中に九州物部系の秦氏が存在することの証拠と考えることができます。祭神も「賀茂の厳神、松尾の猛神」と昔から形容されてきた大山咋(おおやまくい)=大山祇(おおやまづみ)で、イエス=メシアの福音を知るまでのイスラエルやユダヤの崇拝する絶対神が山神(やまのかみ)や雷神(らいじん)、雲神(くもがみ cf. 出雲 )、祟神(たたりがみ)などとして旧約聖書中に記述されているのと特徴が完全に一致しています(そう言えば今年は、夏から現在に至るまでずっと、例年にないくらい激しく頻繁に、松尾山に雷鳴が轟いています。何かに怒っていらっしゃるのでしょうか?)。
では「新羅(シンラ)系の秦氏」についてはどうなるでしょうか?新羅系の秦氏とは、一旦は新羅に定着した後で何段階にも渡って列島支配層への移入を繰り返す一方、半島では百済(くだら)や高句麗(コウクリョ)を滅亡に導いて三韓を統一し、それ以来一貫して半島の支配階級の一角であり続けている氏族のことです。この氏族は日本では、藤原氏と並んで、現代に至るまでずっと日本国に不幸をもたらし続けてきた元凶と非難する声の喧しい、その意味で極めて注目度の高い氏族なのです(8世紀に創られた人工の氏族藤原氏の実体については今後のテーマです)。
ところで、チュルク系の遊牧諸部族(突厥[トッケツ]や鉄勒[テツロク]、エフタル、匈奴[キョウド]、烏丸[ウガン]、鮮卑[センピ]など)は、紀元前のかなり古い時代から半島を迂回しつつ沿海州から日本海を渡って列島まで通行し続けていて(現代の北朝鮮の拉致部隊や脱北者の侵入経路とよく似た経路です)、丹波(文献上では「多婆波[タバナ]国」や「投馬国」とも表記されている)を中心とする山陰から越に至る広い地域に分布する幾つかの「国」を拠点とし、そこから辰韓や弁韓に侵入して新羅を建国したと見られています。例えば、「中央アジアやペルシャ、ローマの文化の影響が色濃く残っているのは、中原の極少数の地点を除けば、東アジアでは奈良とこの新羅以外ひとつもないということになっているわけだが、それはまさに今ここで述べているような事情があったためである。新羅の『羅』は羅馬(ローマ)の『羅』なのかもしれない」。このように、小林恵子氏をはじめとする多くの研究者が主張しています。さらには、現在は「からすま」と発音が変わった上で通りの名前となってしまっていますが、その通りが平安京建設以前には烏丸川(からすまがわ/ウガン川)という河川だったことも分かっているのです。さらに、最初期の新羅には瓢公(ひょうこう)という倭人の大臣がいたという記録がありますが、この瓢公は多婆波国からやって来たということになっています。一方丹波には与謝宮(瓠宮[よさのみや]。籠神社[このじんじゃ]の奥宮たる真名井神社[まないじんじゃ]のこと)があり、この「瓠」も「瓢」も何れも瓢箪のことです。瓢箪は勿論アフリカ原産で、中央アジアでも早い時期に栽培されていました。また、第4代の王昔脱解(ソクタレ)の誕生説話にも多婆波国出身との記述が含まれます。さらには、初代王赫居世居西干(カクキョセイキョセイカン)の「赫」にも瓢箪の意味があるようです
註:赫居世居西干の「居西干」は「いせいかん(伊勢神)」に繋がるという説がありますが、それはしかし、間違いだと思います。漢民族以外の人名には漢字の音が当てられるのであって、漢字の意味を大和言葉で翻訳して漢字の読みとして当てた訓読み(くによみ)は、私の知る限り決して当てられるはずがないからです。この説では「居」に音読みではなく訓読みを当てようとしています。しかも「居」の正しい訓読みは、高校の古典文法でも習うように、「ゐ」であって「い」ではありません。「伊」の訓読みは間違いなく「い」です。両者は決して、混同されたりはしません。
また、列島においてスサノヲと呼称される牛神バールの神殿はすべて「出雲」系の神社仏閣となっていて、大国主や大物主と関係付けられることも多く、新羅系の秦氏のことをこのバール神崇拝の東洋における担い手として取り扱う研究者も少なからずいるようです(そう言えば、あの義経は、新羅系秦氏の一派清和源氏の一員としてその源氏の運命に大きく関与するよう使命づけられて、組織的な何者かに意識的に誕生させられ育てられたと思われるのですが、その義経の幼名が「牛若」でした)。
これらのことを勘案すると、後の源氏を含む所謂「新羅系の秦氏」の元祖はどうやら、物部氏が百済系の秦氏到来以前に何らかの関わりを持っていた列島先住部族の中に紛れ込んでいた可能性が高いと考えられます(勿論可能性としては、秦氏の中には全系統に例外なく、新羅系の秦氏の元祖と同じ系統の「邪悪」な氏族が密かに潜伏していた可能性もないわけではありません)。つまり、半島南部から列島にかけての地域に今見られるような隔絶がなく、列島と半島がひとつの大きな地域として歴史と支配層を共有していた時代の最初期には、半島から列島にではなく列島から半島に、新羅系秦氏の元祖が移って行ったというのが実態だったらしいということです。
「悪い韓国人や朝鮮人が日本に侵入してきて」という現代の地理観から組み立てられた構図は、その当時に限定して言えば完全に、実態からずれる可能性があるという訳です。すなわち、牛の姿をしたバール神を崇拝する「邪悪な」氏族は、賀茂氏が下鴨神社を創建した当時においては決して賀茂氏の方にではなく、現在は糺の森と呼ばれている領域で賀茂氏到来以前に祭祀を行っていた方にこそ潜んでいた可能性が高い。ユダヤ人原始イエス教徒としての賀茂氏の方は、実は同胞であるということが判明した現地の先住民達を説得して糾合し、その本来の信仰に立ち戻らせたのだ。スサノヲの黄泉の国への封じ込めの神話はこのことを象徴している。しかし、このようにして物部氏や秦氏、賀茂氏に一旦は糾合されたにも拘らず、バール崇拝の先住氏族の中にはバール崇拝をその後も密かに維持した者達がいて、秦氏や賀茂氏の「善なる」中枢を逆に、時代が下るにつれてゆっくりと自らの「邪悪」さで侵食して行った。それが現在の秦氏や賀茂氏の、そして官僚をはじめとする現在の支配層の実態となっている。このように結論づけられるのかもしれません。「糺の森から出土するあれらの遺跡で祭祀を行っていたのは誰なのでしょう」と問われて「分かりませんね」と微笑みながらとぼけて見せる下鴨神社の関係者こそ、ひょっとしたら遠い先祖の時代に、まさにその現場にいたのかもしれないのです。
悪を実体として捉えることができるか、あるいは捉えるべきかという疑問は、例えば親鸞の悪人正機説など、哲学者として重々承知しています。しかしその論議はひとまず、脇に置いておかなければなりません。今問題としなければならないのは、歴史的実在としての「邪悪な」氏族のことなのです。
欧米のハザール偽ユダヤ人と同じように、氏族としての自らの、イスラエルやその他の氏族との決定的な違いを悪と強く自覚して、生存して行くための方策の体系を、善にではなく悪によって徹底的に組織し、何世代にも渡って実践を繰り返しながら徹底的に練り上げ、自分達の血や肉のレベルにまで染み込ませ、結果として、他人を陥れ、犠牲にして生き残っていくことに自然な喜びや生き甲斐を感じるまでになった、自分では何も生産せず、他氏族に依存してしか生きようとしない氏族。悪を実体と信じ、実際に悪を実体のようなものにまで昇華させ、それを生存の源泉として生きている氏族。悪の体系の一環として善なる変装にも巧みで、他氏族に、特にイスラエルやユダヤに、従って物部氏や秦氏に化けて侵入する意欲と技能に、我々の想像を遥かに超えて熟達した者達。人間一般を「家畜」と呼び、人間一般に対する共感や同情、同族意識が根本的に欠落し、我々人間から見ても、冷静に言って最早、生物学的に人間とは呼べないレベルにまで種族として進化してしまった者たち。我々人間一般の生活に本来は全く不必要なはずのお金の使用を押し付け、我々を見えない監獄に閉じ込めた者たち。
このような者達の存在を想定し、その者達のこれまでの行状を洗いざらい明確に記述して、隠蔽された真の歴史を表に引き出すことで、人間一般が本来の神々しい次元にまで戻る下地を確立すること。この者達が実体のレベルにまで昇華させた悪を根本から滅ぼして、彼等を人間の領域に連れ戻すこと。これこそが今、私が行おうとしていることであり、この一連の著作を通じて皆さんに伝えようとしていることです。
このような者達がこの列島に外国から侵入して、列島原住民としての我々を支配し、苦しめているというのが、インターネットや書物では一般的な論調となっています。ここに私は、一石を投じたい。そのような者達は、この日本では、後からやって来た秦氏や賀茂氏の中にはいなかった。秦氏や賀茂氏がこの列島で出会い同化した所謂「列島原住民」の方にこそ紛れていた。その者達は秦氏や賀茂氏に先回りするかのように既に到来していた。秦氏や賀茂氏は逆に、善を実体として昇華させて、悪を根本から滅ぼす力を獲得した、これまた我々の想像を遥かに超える次元の存在者達だった。その秦氏や賀茂氏すら現在は、内側からも外側からも、かの悪なる種族に乗っ取られてしまっている。かくして我々一般の人間は、家畜としての惨めな生を、その自覚すら許されないまま黙々と過ごし、収奪され続けた果てに虚しく死んで行くよう運命付けられてしまっている。
しかし、本物の秦氏や賀茂氏が完全に滅びてしまったわけではない。これまた我々の想像を遥かに超えたやり方で何処かに潜伏しながらも、この世の中の動きを具に把握した上で全体のコントロールを維持し、流れを何とかいい方向に持って行こうと奮闘しているのだ。
善と悪をこのように実体化して語るとまるで、「小説のような話」になってしまいます。しかし、小説のような話も、それを心の底から信じ込んだ上で、驚くほど高度な知能と練りに練られ蓄積された技能を持つ人達が、何千年にも渡って氏族全体で実践し続ければ、小説を遥かに凌駕するような奇想天外な構造を持った現実として、生きて動き出すものなのです。そもそも、この壮大な仮想現実の方が小説などより遥かに古い歴史を持っている訳で、逆に小説こそ、それをイマジネーションの源泉として、その壮大な仮想現実の中での何らかの重要な役割を帯びて、次から次へと、あちらから我々の元に届けられ続けているものに過ぎなかった。まさにこれが真相だったのです。
註:イサクの息子でヤコブの兄でもあり「神の永遠の呪い」を受けたエソウの子孫でカナンに住んでいた種族が、ヤコブの子孫であるイスラエルにバール信仰を浸入させたと言われています(この種族はイスラエルではないがヘブルではあるということになります)。北イスラエルの特徴はこのバール信仰でした。聖書に馴れ親しんだ人でないとなかなかピンとこないでしょうが、このバール神に対する感情はどこまでも複雑なのです(この感情は謂わば悪を実体として捉えることに当たるわけです。また十戒の「姦淫するなかれ」をめぐる、セックスについての考え方の違いからくる解釈の分裂もその複雑さの淵源となっているなどといった非常に刺激的な議論が展開できるテーマでもあります。これは場所を改めて論じる方がいいでしょう。ここでは一旦、そのような「邪悪」な種族の実在を前提して話を進めていきます)。金星や六芒星、五芒星、十六花弁菊花、樹木、三本柱、ピラミッドなどをシンボルとして所有しつつユーラシア世界の宗教全般に普遍的に潜り込んできた統一的密教集団の存在を私は想定していますが、その暗黒面を何らかの意図で背負い込まされ、牛の象徴を(あるいは男△女▽和合の象徴六芒星を)与えられた種族がこの種族なのではないかと思います。古代のペルシャとインドで善神と悪神の逆転が見られることや、金星や龍についての価値観に東西で逆転が見られることは有名ですが、それら様々な価値逆転を何らかの理由で意図的に執り行ったのがこの密教集団だったようです(この価値逆転の意義も今後の重大な課題です)。
註:因みに「釈尊」とは、シッダールタという名前のシャカ族に属す有名な聖人を指して、「シッダールタさん」とではなく「シャカ族の聖人様」と呼びかけていることと同じになります。この釈尊の姓(家族名)がまた「ゴータマ/ガオタマ」なのですが、その意味が何と「偉大なる(タマ)聖牛(ゴー/ガオ cf. cow )」なのだそうです。シャカ族は、王家のトーテムがやはり、牛だったのです。シャカ族も新羅系秦氏の元祖と繋がるヘブルやイスラエルだったのかもしれないのです。しかも、新羅系秦氏の半島での姓のひとつである「昔」を「シャカ」の漢字表記と指摘してインドのシャカ族と半島の昔氏の繋がりを主張する研究者が少なくありません。この昔氏は、丹婆波から新羅に入って王となった昔脱解(ソクタレ)の子孫です。
しかしこの話は、新羅系の秦氏に留まりません。高句麗にもまた結びついてくるのです。例えば、高句麗兵の冑には「牛の角」が付いていました。また牛頭天王(ゴズテンノウ)を、従ってスサノヲを、祀っていることで有名な祇園の八坂(弥栄)神社(祇園神社)も、あの淵蓋蘇文(ヨンゲソムン、イリカスミ or 大海人皇子/後の天武天皇)が実効支配していた頃(平安京ができる以前の7世紀中盤で飛鳥時代)の高句麗から、イリシオミと称する人物が渡来して創建したものと伝えられています。さらには、高句麗における「早衣(チョイ)」という名称の武装密教組織(その長は「国仙(コクサン)」)と新羅における「花郎(ファラン)」という名称の武装密教組織(その長は「源花(ゲンファ)」。列島では後に源氏となった。元々はシャカ族も属していたインドのクシャトリアの流れであると指摘する人もいる。歌舞伎の隈取りと全く同じような化粧の伝統を持っていたことでも有名)の共通性を指摘する人もいます。また、賀茂氏の旗印である三本足の八咫烏は、遠い西方ではアレクサンダー大王のエジプトでの冒険の物語にも登場するシンボルですが、高句麗もその重要な旗印として持っていたことが分かっています。さらには、下鴨神社や松尾大社に伝わる丹塗り矢(にぬりや)の伝承は、高句麗の始祖である朱蒙(チュモン)の母親が朱蒙の父親と結婚する時の話と全く同じものです。これらのことを考慮に入れると、高句麗建国のベースにも一部、現在は一括りに「秦氏」の中に含められている、丹波を経由したこれら「邪悪な」密教集団の影響があったと考えた方がいいのかもしれません(小林恵子氏もその著作の中で、高句麗建国における列島勢力の影響の大きさについて、詳細に述べています)。
何れにしても、「半島から列島への流れ」という固定観念は、正しい歴史認識のために早急に破棄しておいた方がいいでしょう。半島の国は、倭の一部としての半島南部に形成された三韓も、付け根から満州にかけて形成された高句麗も、その形成には当時の列島勢力の下支えが少なからずあったにちがいないのです。悪は「最初」から列島にいたのです。
最後に、下鴨神社もこの八坂神社もそうですが、後発の渡来人が神社を建てる時は「縄文」以来の聖地に重ね合わせるかのように建てていることが多かったようです。これを征服という発想で見た場合は「被支配者に自分の神と同じ神を拝ませ、支配を比較的容易なものにするために支配者が、洋の東西を問わず用いてきた常套手段である」という言い方になるようですが、同化という発想から見た場合は「先行する氏族が聖地を定める際に用いるコスモロジーと、後発の氏族が聖地を定める際に用いるコスモロジーが、両者が元々は同族である限りにおいて同じになるから」ということになるでしょう。
このコスモロジーについては、下鴨神社の場合、比叡山頂や比叡山延暦寺と木嶋坐天照御魂神社、松尾大社を結ぶラインが夏至の日の見かけ上の日の出地点と冬至の日の見かけ上の日の入地点を結ぶ線に一致していることは、よく指摘されることです。またこれは私が Google Earth 上で計測し確認したことですが、山城における秦氏の代表的な神社である松尾大社と下鴨神社、伏見稲荷大社は、松尾大社を頂点とする正確に西向きに配置された一辺約5マイルの正三角形を形成していて、おまけに下鴨神社と伏見稲荷大社の中間地点にあり松尾大社から見て正確に東の方にある八坂神社と松尾大社の間の距離も約5マイルになっていて、松尾大社を中心とする半径約5マイルの円の円周上には、北から時計回りに、上賀茂神社と下鴨神社、八坂神社、伏見稲荷大社、藤森神社が、さらには巨椋池を跨いで長岡天満宮が、綺麗に配置されているのです。偶然かもしれませんがマイルは、ローマ時代から地中海世界を含む広い地域で呼び名は違っても普遍的に用いられた距離の単位で、人の2歩を1パッススとした場合に、1000パッススを1マイルとしていたそうです。passus は「歩み」を表し、mille は「千」を表します。ヘブルやイスラエル、ユダヤもこの単位を用いていたはずです。5にどんな意味があるのかは、今のところ見当もつきません。
さらには、古代人にとって何らかの装置の意味を持っていたらしいイワクラ(ヤクラ)の近くには決まって、そのイワクラ(ヤクラ)に何らかの関係づけをしているかのようにイヤサカ(ヤサカ)と呼ばれる環状列石(ストーンサークル)がひとつ設置されているそうですが、八坂(弥栄)神社の場合は、その北に岩倉という地名があり山吉神社(磐座神社の縮小した現在の神社)内にその地名の由来となった磐座があることや、八坂神社内の公園の名前が「円」山となっていることに私は気づいています。ただ、八坂神社内にかつて本当にストーンサークルがあったかどうかはまだ、未確認です。
古代のヘブルやイスラエルに太陽をはじめとする各天体への信仰や巨石信仰があったことは旧約聖書内の記述からもほぼ定説となっているそうですから、今述べたような二つの事実もまた、物部氏以前の先行氏族がヘブルやイスラエルと深く結びついていることの証拠となっていると言っていいのかもしれません。
註:日本イワクラ学会と呼ばれる学会の会長の地位にある何某氏の著作によれば、イワクラは地球規模にネットワークの広がる一種の光通信装置で、イヤサカはイワクラへの一種のエネルギー供給装置のようなものになっているのではないかということでした。