飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

ずば抜けて優秀な科学的知性が歴史研究で大コケする理由

2012-11-26 13:40:25 | 邪馬臺国
古田武彦という人がいます。

「『魏志東夷伝』倭人之条の写本として最古のものに当たる12世紀写本を見ると、その中に邪馬臺国(ヤマト国)という記述などない。たった1箇所、邪馬壹国(ヤマイ国)と書かれているだけだ。これを何故か、専門家達は皆、邪馬臺国の書き間違いだろうと決めつけてしまっている。私の文献学者としての経験からするとこれは、依拠すべき文献に安易な訂正を加えてしまう誤謬の典型例に感じられる。実際に私が手に入る限りの古い手書きの文書を科学的に調査してみると、臺(ト or タイ、ダイ)と壹(イ or イチ)はどの時代の書体も、活字体とは違って、混同が起こりやすいと判定できるほど似ている訳ではなかった。また、『魏志東夷伝』倭人之条のこの12世紀写本を科学的に調査してみたところ、サンプルとして十分な数の臺と壹が採取されたが、臺と壹の混用と判定できるところはひとつもなかった。以上のことから、邪馬壹国を邪馬臺国と改めるのは、明らかな間違いと言うべきである」。このような内容の説を唱えた有名な人です。

この人の科学的な調査への自信と情熱は物凄いものがあります。普通の人なら手を出しにくい気が遠くなるような膨大な文献の地道な調査に果敢に取り掛かって行って、実際に、目を見張るような極めて精密な成果を出して来ています。そこには何の隙もないように感ぜられます。

しかし、それにも拘らずこの説は、次のような論駁によってあっけなく崩壊します。すなわち、「3世紀末の、今は失われた原本を下敷きにして書かれたと思われる4~11世紀までの倭人伝には全て、邪馬臺国と書いてある。古田氏が調査したこの12世紀写本は恐らく、何とも気の毒なことに、臺を壹と誤写した極めて珍しい事例のひとつだったと思われる」という論駁です。これには、たとえどんな人でも、どんなことを試みても抗うことはできないと、私は思います。

このエピソードを伝える時、多くの場合は、古田氏の文献学者としての能力の拙さや科学性の未熟さを示すエピソードとして伝えているようです。しかし、それは違います。

古田氏が科学的文献学者として優れているのは明らかです。説得力も凄い。にも拘らず崩壊したのです。古田氏の不幸の原因はどこにあったのでしょうか?思うに、それは全て、『魏志東夷伝』倭人之条が関与している事柄の重大性に対する日本人としての直感的な敬意や愛着が欠落していることから来ています。長年に渡って多くの研究者が、この書物に強い情熱を傾けてきた理由を理解・共有するところがないことから来ているのです。「依拠すべき文献に安易に訂正を加えている。経験上これには誤謬の匂いがする。それを証明してやろう」という、肯定的な内容を全く含まない、否定的でしかない、単なる科学的文献学者としての直感を、まるで絶対的な価値であるかの如く振り回してしまっていたが故のことだったのです。『魏志東夷伝』倭人之条が関与している事柄が帯びているような重大性に対しては決して取ってはならない類の、やや卑しい態度をもって、この重大事に関わってしまったことによるのです。ヤマトではなくヤマイと発音される国に、日本人として心底から愛着を持っていたはずがないのです。文献学者として興味を惹かれ、文献学者としての自分の価値を表現したかっただけに違いないのです。ここに間違いがあったのです。

そもそも、「ヤマイを勝手にヤマトと変更して気に病まないのは科学者としておかしい。この史書にはヤマトのことなど書かれていないと判定すべきだ」と言うのなら、『魏志東夷伝』倭人之条のことは少なくとも、謎の文献として、ヤマト国研究からは除外して考えるべきだったのです。ヤマイ国をヤマト国と変更してでも『魏志東夷伝』倭人之条を自分の国のルーツを伝える貴重な文献として扱おうとする多くの研究者の、日本人としては自然な感覚を攻撃することは決してできなかったはずです。理由が明確でないが兎に角感覚的に、ヤマト国に変更しておいて、その上で多くの調査をして、そうしている内にその調査に感覚として破綻が来ていると分かったら、理由も明らかにした上で正確に訂正するなど、責任をきちんと取ることができるし、そうでなく多くの貴重な事実が引き出されたなら、この可能性の方が遥かに高いことを予感するとともに、期待もし、願っている訳だが、その何と無くの判断の理由もそこから逆算して明確になって来るに違いないと考える方が、科学としても遥かに健全なのです。ヤマイ国なるものにそこまで拘る必要が全くなかったのです。それに拘った理由が高潔なものだったとは決して評価できません。日本人の人間としての存在価値と結びついた重大なテーマに資格のない人間が何故か、人並外れた異常な純科学的情熱をもって関わってしまったことから来る不幸だったのです。このような類のテーマに関わる資格があるのは、敢えて刺激的な言い方をすれば、神に選ばれた謙虚な人間だけなのです。そのテーマに対する強烈で自然な畏敬と愛着がその目印となります。彼にヤマイ国に対するそれ程の愛着があったとは思えません。「感覚として、たとえどれほど異常に感じても、文献学上そうなっていると言わざるを得ない以上、これからはヤマイ国と発音して恥じることなどない」という程度のことだったに違いありません。ヤマトを簡単に放棄して、ヤマイなどという奇妙な言い方を、自分のルーツに対する呼称として、科学的文献学者としての情熱が過ぎる余りに自分の日本人としての感覚を犠牲にしてまで、採用してしまったことひとつで、この人に我らが祖国ヤマトに対する人間としての愛着が欠けていたことが、従って人間一般に対する愛着が欠けていたことが、透けて見えてしまいます。

偉大な科学者ニュートンが、彼の科学者としての知性の高さや手法の適格性、成果の重要性などについて異議を唱える人などいないと思いますが、その偉大な科学者としての活動の背後に創造主と宇宙の原理に対するキリスト教徒としての強烈な畏敬の念があったことや、それを源泉として様々な科学的偉業を導き出していたことは、よく指摘されることです。科学的手法は、それだけでは、どんなに優れた能力と粘り強さで調査を繰り返しても、有限であることに変わりはないのです。そのような有限な手法が無限なものにも関わるような重大なテーマについて正確で有益な成果を生むのは、無限なものに結びついた特殊な心性の導きの元で、精妙な取捨選択と組み立てを実現できた時に限られるのです。カント的に言うと、統制的原理としての理性の統制の下で悟性(知性)を働かすのでないと、健全な判断力は働かないという言い方になるでしょうか。いくら科学的手法とは言っても、いや実は科学的手法だからこそ、それ以前の、何と無くとしか表現し様がないが、それでも簡単には捨てられない肯定的な根源的感覚がその命として宿っているのでない限り、成果をあげられないどころか、とんでもない間違いを惹き起こしてしまいかねないということなのです。古田武彦氏は著作の中で、自分をかのシュリーマンになぞらえながら、自分の研究態度を述懐しています。しかし、残念ながら結果的には、シュリーマンのあのトロイに対する情熱に匹敵するようなあるものに対するどこまでも肯定的な情熱が欠けているが故に、信奉しているはずのシュリーマンからは最も遠い、シュリーマンとは全く似て非なる代物にしかなれなかったのです。シュリーマンは「トロイなんて伝説だ。遺跡があるはずない」と世間一般が否定文で決めつけてしまっているのに対して、「いや、絶対にある」と肯定文で情熱を燃やしたわけですが、それに対して古田武彦氏は、世間が「この邪馬壹という記述はどうも邪馬臺に変えて理解した方が自然だ」と肯定文で判断し、その判断の元で地道に実績を積み上げているのに対して、「そんなことはしてはならない。私もヤマイ国なんて馴染みはないが」と否定文で異常な情熱を燃やしてしまったのです。その意味ではここでも、論理性の大切さが確認できます。否定文には拒絶する対象としての他説しか含まれていないことになるから、自分の主張は必ず肯定文にして、ちゃんと内容を込めなければいけないというのは、私が常日頃、受験生に対する受験指導の中でいつも、読解や論述の大原則として強調していることです。

山形明郷氏の漢文の教養の豊かさと漢籍調査への人並外れた情熱の強さを、いくらそうであってもそれはやはり有限でしかないのに絶対化して、邪馬臺国が半島にあったと言って熱狂しているマヨさんや飯山一郎氏の様子を見ていると、その知性の高さには目を見張るようなものがあるとは私でも感じ、称賛を惜しみませんが、それでも、上に述べたような古田武彦氏の間違いと同じような間違いを犯しているように思えてなりません。

そう言えば、古田武彦氏もそうですが、「自分の説が間違えていることが分かったら、その時は私は、いつでも潔く身を引き、撤回する用意があるし、自分の見解と違う見解に対する尊重の態度を崩さない」という言い方を、なぜこんな時にという時に、この人達は盛んに申し立てます。確かに、それ自体は間違いではないけれども、それだけを盛んに述べたてるのは、自分の説に骨がないことに対する本能的な怯えの徴表とみなしていいのかもしれません。

文献上は楽浪郡や帯方郡の位置を、通説より北の満州や遼東半島に持って来なければならないことになるという主張には、確かに、成る程と感じさせるものがあります。しかし、それを理由に三韓や倭を、単純に北に移動している時のそのやり方に、牽強付会の感がどうしても否めません。三韓の広がりの規模を比較的小規模なものと根拠なく決めつけていたり、「界を接す」を短絡的に「国境線が陸上で接している」と読み替えてしまっていたりしているからです。正しくは、前者の場合は、三韓がもっと大きいものだったのかもしれず、その場合北に移動ではなく北に延長の可能性もあると考えるべきです。また、後者の場合も、当時の「国」が近代国民国家のような明確な国境線を持った広がりではなく、拠点間のネットワークにすぎなかったことを踏まえた上で、この「界を接す」も、その枠内で正確にイメージすべきなのです。「界を接す」とは「三韓ネットワークを南に下ると、どの場合もそこには、倭のネットワークが現れる」という意味であり、通行ライン上の接触しか意味しないし、そこから航路上の接触が排除されている訳ではないからです。

「百済は元々高句麗と共に遼東にあったが、高句麗が遼西に侵略し遼西を領土として確保した時に、この百済も遼西に百済郡をおいた」という内容の文献を発掘し、紹介したことそのものには、これは凄いと感じさせる点があります。しかし、それを元に「百済は明らかに、通説とは違って遼西にあった」と主張するのを目にする時も、次のような幾つかの疑念が湧いてくるのを禁じ得ません。即ち、第一に、この「百済」をペクチェと発音せずにクダラと発音しているに違いないこと。第二に、馬韓が発展してペクチェとなりクダラとして日本の歴史書に登場するというのは実際は、馬韓がクダラとして統一された後で、その北辺にあった百済(ペクチェ)が中原に対して持っている東アジアにおける政治的ステータスの高さを糾合する意味で、中原向きには百済(ペクチェ)、内々では百済(クダラ)としていたということだった可能性が高いのに、それを計算に入れ切れていない可能性があること。第三に、「百済が遼西にも百済郡を置いた」としか書いていないのを「百済が遼西にあった」と自分が単純化してしまっているのを、意図的にか無意識的にか、全く自覚できていないように見えること。これらをはじめとする幾つかの疑念です。

何故そんなことになるのか?知的な面白みや常識を覆す快感以上のものが背景に全くないから。そうすることで手に入るであろうと直感しているものがその人の実存と、根っこのところでは本当の意味では結びついていないから。これが原因です。

今後機会があったら、この人達の説についても詳しく、論述してみたいと思います。