『魏志倭人伝』として一般に知られている書物は実は3世紀の原本ではありません。12世紀に原本或いは写本を書き写したものに過ぎないのです。この写本に記載された「邪馬壹国(ヤマイコク)」について、4世紀から11世紀の間に3世紀原本を下敷きにして書かれたと思われる『魏志倭人伝』以外の倭人伝においては全て「邪馬臺国(ヤマトコク)」となっている。それ故12世紀写本における「邪馬壹国(ヤマイコク)」は、ある時に原本が失われて以来400年から600年の間に行われた多くの二次写本の過程で紛れ込んだ極めて稀な不幸な誤写の結果と判定できる。このような趣旨のことをこれまでの記事で書きました。我々日本人は12世紀写本の中でテーマとして取り扱われている「倭人」の末裔です。「邪馬壹(ヤマイ)」を「邪馬臺(ヤマト)」と訂正することは、その我々の自然な感覚からも十分に許されることなのです(確認できる最古の訂正は14世紀北畠親房の『神皇正統記』である)。しかも、そのような自然な感覚に基づくのでない限りどんな科学的処置もその意味を失ってしまうという一般的な事実を考えると、「邪馬壹(ヤマイ)」を「邪馬臺(ヤマト)」と訂正することは、科学的処置としても十分に許されることなのである。12世紀写本の「邪馬壹(ヤマイ)」に拘って解釈を続ける人がいるが、そのような処置より遥かに適切だ。例えば12世紀写本の「邪馬壹(ヤマイ)」に拘って解釈を続けた古田武彦氏の研究は、優秀な科学者でありながらひとりの人間としての実存を見失ってしまった場合に陥りやすい、原爆の製造ともその本質を一にするような典型な失敗例である。このような趣旨のことも述べました。
しかしながら実は『魏志東夷伝』倭人之条12世紀写本にはもうひとつ、誤写である可能性が盛んに指摘されながらも今度は、日本人としての自然な感覚とは無関係であるために、よくなされる訂正に妥当性があるのかないのか判定することが困難な表記があるのです。誤写なのかどうなのか判定しにくいがヤマト国論争の行方には大きく作用してしまう、そんな表記です。「会稽東治(カイケイトウチ)之東」という表記がそれに当たります。これは、訂正される場合は一般的に「会稽東冶(カイケイトウヤ)之東」と訂正されます。これについては私も、訂正することに妥当性があるのかどうか、上に述べた理由と同じ理由では全く分からないと言わざるを得ないのです。ただし「会稽東治之東」のままで残す場合(Case A)と「会稽東冶之東」に訂正する場合(Case B)のそれぞれで、それらをどのように解釈すべきなのかについては明確に判定できます。
Case A の場合は直前に、遥か昔の夏王朝の時代に会稽で定着した風習について述べられていることに注目すべきです。この直前の記述からこの「会稽東治の東」が「会稽内の東治地区の東」と解釈されなければならないこと。あるいは「会稽を中心に西晋の東部を統治している行政区の東」と解釈しなければならないこと。これが分かるのです。この場合は何れにしても要するに、地点としての会稽の東の意味になるのです。即ちヤマト国は、現在の地形で言うとメルカトル図上の屋久島南方沖と、会稽を直線で結ぶ海上にあったということになるわけです。ですからこの場合は、列島高速回転移動説を受け入れなければならなくなります。玄界灘の何処かの点を軸とした反時計回りの高速回転以前に近畿がこのライン上にあったと判定する必要が出て来るのです。
古田武彦氏は因みに、Case A を採用しています。その際に列島高速回転移動を発想できなかったため、Case A では「邪馬壹国」が海上に位置してしまう矛盾を前にして、それを解消するために「会稽東治之東」のことを「都である洛陽(北緯35度)から会稽(北緯30度)に至る比較的広い東部地域の東」のことと解釈し、北緯35度から北緯30度の間に収まる九州の何処かに「邪馬壹国」があったとしてしまうのです。しかしながら実際は、通常は看過されていますが、中国には当時既に羅針盤があったのです。メルカトル図上の緯度線より南に緯度分だけずれたライン。これが古代の中国人にとっても、今の我々にとってもそうであるように東だったのです。古田武彦氏はどうやらそのことを認識できていないのでしょう。当時はまだ羅針盤がなく、北極星の角度で正確に判定できる同緯度が当時の人にとっての東だった。このように決めつけてしまっているのです。それ以上に大きな間違いとして更に、帯方郡から東南に12000里余の位置にあると直前に明記されているし、北極星の角度から北緯まで正確に分かっていた、そんな厳密な「地点」としての邪馬臺国であるにも拘らず、その方位に関して、北緯35度から北緯30度の間などという極めて広域に広がる領域をその基準として採用しつつ記述しているのがこの「会稽東治の東」なのだ。このように主張してしまっている点を挙げなければなりません。これは極めて不合理な解釈です。この間違いには恐らく、所謂「論理性の欠如」も関与しているのでしょう。比較されるふたつの項目はその存在形式においてあらゆる点で共通していなければならないという規則は思考の際には第一原理と言っていいくらいの極めて重要な規則になるのですが、まさにこの第一原則に違反してしまっている訳です。
同じ理由から、Case B を採用して「会稽東冶之東」を「会稽(北緯30度)から東冶(北緯26度)に至る地域の東」と解釈する解釈法もまた間違いということになります。即ち、Case B を採用して「会稽東冶之東」と訂正する限り、その解釈は「会稽地区内の東冶の東」とする以外に途がなくなってしまうことになるのです。しかしながら実は『魏志東夷伝』倭人之条が書かれた当時、東冶という名の町は、会稽地区以外の別の行政地区に入れられていたことが分かっているのです。しかも直前にはわざわざ、遥か昔の夏の時代の会稽での出来事が記述されている。即ち、この場合の「会稽」とは明らかに地域としての会稽ではなく、地点としての会稽でなければならない。これらのことから、Case B を採用して「会稽東冶之東」と訂正し「会稽地区内の東冶の東」と解釈するのもまた不合理ということになるのです。
以上の論証から、「会稽東治之東」を「会稽東冶之東」などと訂正するのを控えること。そして、列島高速回転移動を事実として受諾すること。これが最も妥当ということになる訳です。
因みに、列島高速回転移動説の提唱者である飛鳥昭雄氏は、如何なる論証もなしに Case B を採用しています。従ってこの問題については、彼の理論と言えども、修正を促す必要があります。
列島高速回転移動の遥か以前に西日本島が琉球列島を間に挟んで江南や台湾島と陸続きだった。彼の著作ではこのような情報も紹介されています。これについてはしかし、卑弥呼の邪馬臺国のことを研究している人なら誰でも、南方系の風俗記述など他の多くの要素を想起し、それらと照らし合わせた場合にこの情報の内容が不思議なほど整合的であることに思い至るのではないでしょうか?彼の著作ではまた東日本島と北海道島について、カムチャッカから分離した後で遥か南方にまで移動し、縄文時代にはパプアニューギニア沖にあったなどという、あまりにも刺激的過ぎる情報まで暴露されています。これら全てが、アメリカ軍によるGPSなどの最新機器を用いた海底調査の結論なのだそうです。
しかしながら実は『魏志東夷伝』倭人之条12世紀写本にはもうひとつ、誤写である可能性が盛んに指摘されながらも今度は、日本人としての自然な感覚とは無関係であるために、よくなされる訂正に妥当性があるのかないのか判定することが困難な表記があるのです。誤写なのかどうなのか判定しにくいがヤマト国論争の行方には大きく作用してしまう、そんな表記です。「会稽東治(カイケイトウチ)之東」という表記がそれに当たります。これは、訂正される場合は一般的に「会稽東冶(カイケイトウヤ)之東」と訂正されます。これについては私も、訂正することに妥当性があるのかどうか、上に述べた理由と同じ理由では全く分からないと言わざるを得ないのです。ただし「会稽東治之東」のままで残す場合(Case A)と「会稽東冶之東」に訂正する場合(Case B)のそれぞれで、それらをどのように解釈すべきなのかについては明確に判定できます。
Case A の場合は直前に、遥か昔の夏王朝の時代に会稽で定着した風習について述べられていることに注目すべきです。この直前の記述からこの「会稽東治の東」が「会稽内の東治地区の東」と解釈されなければならないこと。あるいは「会稽を中心に西晋の東部を統治している行政区の東」と解釈しなければならないこと。これが分かるのです。この場合は何れにしても要するに、地点としての会稽の東の意味になるのです。即ちヤマト国は、現在の地形で言うとメルカトル図上の屋久島南方沖と、会稽を直線で結ぶ海上にあったということになるわけです。ですからこの場合は、列島高速回転移動説を受け入れなければならなくなります。玄界灘の何処かの点を軸とした反時計回りの高速回転以前に近畿がこのライン上にあったと判定する必要が出て来るのです。
古田武彦氏は因みに、Case A を採用しています。その際に列島高速回転移動を発想できなかったため、Case A では「邪馬壹国」が海上に位置してしまう矛盾を前にして、それを解消するために「会稽東治之東」のことを「都である洛陽(北緯35度)から会稽(北緯30度)に至る比較的広い東部地域の東」のことと解釈し、北緯35度から北緯30度の間に収まる九州の何処かに「邪馬壹国」があったとしてしまうのです。しかしながら実際は、通常は看過されていますが、中国には当時既に羅針盤があったのです。メルカトル図上の緯度線より南に緯度分だけずれたライン。これが古代の中国人にとっても、今の我々にとってもそうであるように東だったのです。古田武彦氏はどうやらそのことを認識できていないのでしょう。当時はまだ羅針盤がなく、北極星の角度で正確に判定できる同緯度が当時の人にとっての東だった。このように決めつけてしまっているのです。それ以上に大きな間違いとして更に、帯方郡から東南に12000里余の位置にあると直前に明記されているし、北極星の角度から北緯まで正確に分かっていた、そんな厳密な「地点」としての邪馬臺国であるにも拘らず、その方位に関して、北緯35度から北緯30度の間などという極めて広域に広がる領域をその基準として採用しつつ記述しているのがこの「会稽東治の東」なのだ。このように主張してしまっている点を挙げなければなりません。これは極めて不合理な解釈です。この間違いには恐らく、所謂「論理性の欠如」も関与しているのでしょう。比較されるふたつの項目はその存在形式においてあらゆる点で共通していなければならないという規則は思考の際には第一原理と言っていいくらいの極めて重要な規則になるのですが、まさにこの第一原則に違反してしまっている訳です。
同じ理由から、Case B を採用して「会稽東冶之東」を「会稽(北緯30度)から東冶(北緯26度)に至る地域の東」と解釈する解釈法もまた間違いということになります。即ち、Case B を採用して「会稽東冶之東」と訂正する限り、その解釈は「会稽地区内の東冶の東」とする以外に途がなくなってしまうことになるのです。しかしながら実は『魏志東夷伝』倭人之条が書かれた当時、東冶という名の町は、会稽地区以外の別の行政地区に入れられていたことが分かっているのです。しかも直前にはわざわざ、遥か昔の夏の時代の会稽での出来事が記述されている。即ち、この場合の「会稽」とは明らかに地域としての会稽ではなく、地点としての会稽でなければならない。これらのことから、Case B を採用して「会稽東冶之東」と訂正し「会稽地区内の東冶の東」と解釈するのもまた不合理ということになるのです。
以上の論証から、「会稽東治之東」を「会稽東冶之東」などと訂正するのを控えること。そして、列島高速回転移動を事実として受諾すること。これが最も妥当ということになる訳です。
因みに、列島高速回転移動説の提唱者である飛鳥昭雄氏は、如何なる論証もなしに Case B を採用しています。従ってこの問題については、彼の理論と言えども、修正を促す必要があります。
列島高速回転移動の遥か以前に西日本島が琉球列島を間に挟んで江南や台湾島と陸続きだった。彼の著作ではこのような情報も紹介されています。これについてはしかし、卑弥呼の邪馬臺国のことを研究している人なら誰でも、南方系の風俗記述など他の多くの要素を想起し、それらと照らし合わせた場合にこの情報の内容が不思議なほど整合的であることに思い至るのではないでしょうか?彼の著作ではまた東日本島と北海道島について、カムチャッカから分離した後で遥か南方にまで移動し、縄文時代にはパプアニューギニア沖にあったなどという、あまりにも刺激的過ぎる情報まで暴露されています。これら全てが、アメリカ軍によるGPSなどの最新機器を用いた海底調査の結論なのだそうです。