悪を実体として捉えることができるか、あるいは捉えるべきかという疑問は、例えば親鸞の悪人正機説など、哲学者として重々承知しています。しかしその論議はひとまず、脇に置いておかなければなりません。今問題としなければならないのは、歴史的実在としての「邪悪な」氏族のことなのです。
欧米のハザール偽ユダヤ人と同じように、氏族としての自らの、イスラエルやその他の氏族との決定的な違いを悪と強く自覚して、生存して行くための方策の体系を、善にではなく悪によって徹底的に組織し、何世代にも渡って実践を繰り返しながら徹底的に練り上げ、自分達の血や肉のレベルにまで染み込ませ、結果として、他人を陥れ、犠牲にして生き残っていくことに自然な喜びや生き甲斐を感じるまでになった、自分では何も生産せず、他氏族に依存してしか生きようとしない氏族。悪を実体と信じ、実際に悪を実体のようなものにまで昇華させ、それを生存の源泉として生きている氏族。悪の体系の一環として善なる変装にも巧みで、他氏族に、特にイスラエルやユダヤに、従って物部氏や秦氏に化けて侵入する意欲と技能に、我々の想像を遥かに超えて熟達した者達。人間一般を「家畜」と呼び、人間一般に対する共感や同情、同族意識が根本的に欠落し、我々人間から見ても、冷静に言って最早、生物学的に人間とは呼べないレベルにまで種族として進化してしまった者たち。我々人間一般の生活に本来は全く不必要なはずのお金の使用を押し付け、我々を見えない監獄に閉じ込めた者たち。
このような者達の存在を想定し、その者達のこれまでの行状を洗いざらい明確に記述して、隠蔽された真の歴史を表に引き出すことで、人間一般が本来の神々しい次元にまで戻る下地を確立すること。この者達が実体のレベルにまで昇華させた悪を根本から滅ぼして、彼等を人間の領域に連れ戻すこと。これこそが今、私が行おうとしていることであり、この一連の著作を通じて皆さんに伝えようとしていることです。
このような者達がこの列島に外国から侵入して、列島原住民としての我々を支配し、苦しめているというのが、インターネットや書物では一般的な論調となっています。ここに私は、一石を投じたい。そのような者達は、この日本では、後からやって来た秦氏や賀茂氏の中にはいなかった。秦氏や賀茂氏がこの列島で出会い同化した所謂「列島原住民」の方にこそ紛れていた。その者達は秦氏や賀茂氏に先回りするかのように既に到来していた。秦氏や賀茂氏は逆に、善を実体として昇華させて、悪を根本から滅ぼす力を獲得した、これまた我々の想像を遥かに超える次元の存在者達だった。その秦氏や賀茂氏すら現在は、内側からも外側からも、かの悪なる種族に乗っ取られてしまっている。かくして我々一般の人間は、家畜としての惨めな生を、その自覚すら許されないまま黙々と過ごし、収奪され続けた果てに虚しく死んで行くよう運命付けられてしまっている。
しかし、本物の秦氏や賀茂氏が完全に滅びてしまったわけではない。これまた我々の想像を遥かに超えたやり方で何処かに潜伏しながらも、この世の中の動きを具に把握した上で全体のコントロールを維持し、流れを何とかいい方向に持って行こうと奮闘しているのだ。
善と悪をこのように実体化して語るとまるで、「小説のような話」になってしまいます。しかし、小説のような話も、それを心の底から信じ込んだ上で、驚くほど高度な知能と練りに練られ蓄積された技能を持つ人達が、何千年にも渡って氏族全体で実践し続ければ、小説を遥かに凌駕するような奇想天外な構造を持った現実として、生きて動き出すものなのです。そもそも、この壮大な仮想現実の方が小説などより遥かに古い歴史を持っている訳で、逆に小説こそ、それをイマジネーションの源泉として、その壮大な仮想現実の中での何らかの重要な役割を帯びて、次から次へと、あちらから我々の元に届けられ続けているものに過ぎなかった。まさにこれが真相だったのです。
欧米のハザール偽ユダヤ人と同じように、氏族としての自らの、イスラエルやその他の氏族との決定的な違いを悪と強く自覚して、生存して行くための方策の体系を、善にではなく悪によって徹底的に組織し、何世代にも渡って実践を繰り返しながら徹底的に練り上げ、自分達の血や肉のレベルにまで染み込ませ、結果として、他人を陥れ、犠牲にして生き残っていくことに自然な喜びや生き甲斐を感じるまでになった、自分では何も生産せず、他氏族に依存してしか生きようとしない氏族。悪を実体と信じ、実際に悪を実体のようなものにまで昇華させ、それを生存の源泉として生きている氏族。悪の体系の一環として善なる変装にも巧みで、他氏族に、特にイスラエルやユダヤに、従って物部氏や秦氏に化けて侵入する意欲と技能に、我々の想像を遥かに超えて熟達した者達。人間一般を「家畜」と呼び、人間一般に対する共感や同情、同族意識が根本的に欠落し、我々人間から見ても、冷静に言って最早、生物学的に人間とは呼べないレベルにまで種族として進化してしまった者たち。我々人間一般の生活に本来は全く不必要なはずのお金の使用を押し付け、我々を見えない監獄に閉じ込めた者たち。
このような者達の存在を想定し、その者達のこれまでの行状を洗いざらい明確に記述して、隠蔽された真の歴史を表に引き出すことで、人間一般が本来の神々しい次元にまで戻る下地を確立すること。この者達が実体のレベルにまで昇華させた悪を根本から滅ぼして、彼等を人間の領域に連れ戻すこと。これこそが今、私が行おうとしていることであり、この一連の著作を通じて皆さんに伝えようとしていることです。
このような者達がこの列島に外国から侵入して、列島原住民としての我々を支配し、苦しめているというのが、インターネットや書物では一般的な論調となっています。ここに私は、一石を投じたい。そのような者達は、この日本では、後からやって来た秦氏や賀茂氏の中にはいなかった。秦氏や賀茂氏がこの列島で出会い同化した所謂「列島原住民」の方にこそ紛れていた。その者達は秦氏や賀茂氏に先回りするかのように既に到来していた。秦氏や賀茂氏は逆に、善を実体として昇華させて、悪を根本から滅ぼす力を獲得した、これまた我々の想像を遥かに超える次元の存在者達だった。その秦氏や賀茂氏すら現在は、内側からも外側からも、かの悪なる種族に乗っ取られてしまっている。かくして我々一般の人間は、家畜としての惨めな生を、その自覚すら許されないまま黙々と過ごし、収奪され続けた果てに虚しく死んで行くよう運命付けられてしまっている。
しかし、本物の秦氏や賀茂氏が完全に滅びてしまったわけではない。これまた我々の想像を遥かに超えたやり方で何処かに潜伏しながらも、この世の中の動きを具に把握した上で全体のコントロールを維持し、流れを何とかいい方向に持って行こうと奮闘しているのだ。
善と悪をこのように実体化して語るとまるで、「小説のような話」になってしまいます。しかし、小説のような話も、それを心の底から信じ込んだ上で、驚くほど高度な知能と練りに練られ蓄積された技能を持つ人達が、何千年にも渡って氏族全体で実践し続ければ、小説を遥かに凌駕するような奇想天外な構造を持った現実として、生きて動き出すものなのです。そもそも、この壮大な仮想現実の方が小説などより遥かに古い歴史を持っている訳で、逆に小説こそ、それをイマジネーションの源泉として、その壮大な仮想現実の中での何らかの重要な役割を帯びて、次から次へと、あちらから我々の元に届けられ続けているものに過ぎなかった。まさにこれが真相だったのです。
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