飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

秦氏研究以降の見通し

2012-11-21 21:34:52 | 日本論と宗教論
『下鴨神社の始まりに何があったのか』で描写されたのは、
(1)丹波を中心に山陰や北陸、山背、近江、伊勢、尾張、相模、関東、熊野、阿波、吉備などを開拓した丹波系の物部氏
(2)北九州に拠点を持ち、九州の倭人達を統率していたが、河内や大和盆地に東遷して、丹波系の物部氏と共に邪馬臺国を統率した九州系の物部氏
(3)後の時代に百済から播磨や山背などに入り込んで、物部氏の大半を糾合した秦氏や賀茂氏
(4)丹波系の物部氏以前に山陰から北陸にかけて蟠踞していたミャオ族とチュルク系の製鉄遊牧民
(5)新羅や高句麗の丹波系倭人で後の源氏を含む新羅系秦氏
でした。

日本国建国以前の列島にはこの他に、次のような部族がいたと思われます。
(6)全国の山岳を中心に東国方面に疎らではあるが広く広がっていた幾つかの雑多な部族
(7)近畿の大和川や淀川、木津川、宇治川、桂川、鴨川、琵琶湖などの水系を支配領域としていた葛城氏
(8)豊国を中心に半島南部から瀬戸内海のあちこちに拠点を持っていた蘇我氏(ヒッタイト)や中臣氏(エブス人)。蘇我氏や中臣氏は半島の拠点を失った後、東国に進出して力を蓄えた。
(9)南九州に蟠踞していた隼人や熊襲
(10)九州系の物部氏の元に糾合するとともに移住してきた扶余の王族に従って馬韓に勢力を伸ばしていた大伴氏をはじめとする九州の倭人達
(11)百済が列島に覇を広げていた時期に列島各地に定着した百済系の人達
(12)弁韓にあった東表国の拠点が百済や新羅に押されて失われた時に列島の各地に逃れて定着した東漢氏や西文氏などの伽耶系の人達
(13)高句麗が列島に覇を広げていた時期に列島各地に定着するとともに、比較的浅い時代には東国を中心に多くの人達が移住してきていた高句麗系の人達

さらには、山陰や北陸からはそれ以降も続々と、例の沿海州から日本海を経由してチュルク系の遊牧民が入ってくることになります。例えば、継体天皇は、そのようにして列島に侵入してきて、列島から半島の新羅に覇を広げたエフタルであり、聖徳太子は、経路こそ百済経由で異なっていますが、当時のユーラシア世界で名を知らぬ者のいない、鉄勒(テツロク)の英雄達頭(タルドゥ)だったと、小林恵子さんは緻密な文献学的論証を通して描き出しています。

今後はこの人達に順番に焦点を当てていくとともに、7~8世紀の日本国建国や平安王朝確立、藤原氏の正体、平氏や源氏の正体などが私の古代史研究のテーマとなって行きます。

この古代史研究はすべて、「『三人の天皇』を検証する」の下敷きとして行っています。

何のために捏造の歴史を暴くのか

2012-11-21 17:15:49 | 日本論と宗教論
悪を実体として捉えることができるか、あるいは捉えるべきかという疑問は、例えば親鸞の悪人正機説など、哲学者として重々承知しています。しかしその論議はひとまず、脇に置いておかなければなりません。今問題としなければならないのは、歴史的実在としての「邪悪な」氏族のことなのです。

欧米のハザール偽ユダヤ人と同じように、氏族としての自らの、イスラエルやその他の氏族との決定的な違いを悪と強く自覚して、生存して行くための方策の体系を、善にではなく悪によって徹底的に組織し、何世代にも渡って実践を繰り返しながら徹底的に練り上げ、自分達の血や肉のレベルにまで染み込ませ、結果として、他人を陥れ、犠牲にして生き残っていくことに自然な喜びや生き甲斐を感じるまでになった、自分では何も生産せず、他氏族に依存してしか生きようとしない氏族。悪を実体と信じ、実際に悪を実体のようなものにまで昇華させ、それを生存の源泉として生きている氏族。悪の体系の一環として善なる変装にも巧みで、他氏族に、特にイスラエルやユダヤに、従って物部氏や秦氏に化けて侵入する意欲と技能に、我々の想像を遥かに超えて熟達した者達。人間一般を「家畜」と呼び、人間一般に対する共感や同情、同族意識が根本的に欠落し、我々人間から見ても、冷静に言って最早、生物学的に人間とは呼べないレベルにまで種族として進化してしまった者たち。我々人間一般の生活に本来は全く不必要なはずのお金の使用を押し付け、我々を見えない監獄に閉じ込めた者たち。

このような者達の存在を想定し、その者達のこれまでの行状を洗いざらい明確に記述して、隠蔽された真の歴史を表に引き出すことで、人間一般が本来の神々しい次元にまで戻る下地を確立すること。この者達が実体のレベルにまで昇華させた悪を根本から滅ぼして、彼等を人間の領域に連れ戻すこと。これこそが今、私が行おうとしていることであり、この一連の著作を通じて皆さんに伝えようとしていることです。

このような者達がこの列島に外国から侵入して、列島原住民としての我々を支配し、苦しめているというのが、インターネットや書物では一般的な論調となっています。ここに私は、一石を投じたい。そのような者達は、この日本では、後からやって来た秦氏や賀茂氏の中にはいなかった。秦氏や賀茂氏がこの列島で出会い同化した所謂「列島原住民」の方にこそ紛れていた。その者達は秦氏や賀茂氏に先回りするかのように既に到来していた。秦氏や賀茂氏は逆に、善を実体として昇華させて、悪を根本から滅ぼす力を獲得した、これまた我々の想像を遥かに超える次元の存在者達だった。その秦氏や賀茂氏すら現在は、内側からも外側からも、かの悪なる種族に乗っ取られてしまっている。かくして我々一般の人間は、家畜としての惨めな生を、その自覚すら許されないまま黙々と過ごし、収奪され続けた果てに虚しく死んで行くよう運命付けられてしまっている。

しかし、本物の秦氏や賀茂氏が完全に滅びてしまったわけではない。これまた我々の想像を遥かに超えたやり方で何処かに潜伏しながらも、この世の中の動きを具に把握した上で全体のコントロールを維持し、流れを何とかいい方向に持って行こうと奮闘しているのだ。

善と悪をこのように実体化して語るとまるで、「小説のような話」になってしまいます。しかし、小説のような話も、それを心の底から信じ込んだ上で、驚くほど高度な知能と練りに練られ蓄積された技能を持つ人達が、何千年にも渡って氏族全体で実践し続ければ、小説を遥かに凌駕するような奇想天外な構造を持った現実として、生きて動き出すものなのです。そもそも、この壮大な仮想現実の方が小説などより遥かに古い歴史を持っている訳で、逆に小説こそ、それをイマジネーションの源泉として、その壮大な仮想現実の中での何らかの重要な役割を帯びて、次から次へと、あちらから我々の元に届けられ続けているものに過ぎなかった。まさにこれが真相だったのです。