車イスのある風景 

左サイドバーから好きなカテゴリーを選んで見てください。
2006年8月開始 福祉=前橋市肢体不自由児者父母の会等

清里地区道祖神祭り

2008-01-13 16:22:08 | 日記・エッセイ・コラム

12日(昨日)は朝から自治会と関連団体と一緒に『小屋がけ』をした。  村にある竹の切り出し(村には竹林が多く、切って燃してもらいたい希望者が余りにも多いのです)と運び出しで始まった。 子供たちは全家庭を門松やダルマの収集だ、収集時には幾らかの駄賃をもらえる、それを現場に運んできます。Sn3700doso

老若入り乱れての道祖神つくりは中々大変な作業です、(長老の経験が必要なのです) 昼のむすびを喰う時間にはミゾレ混じりの雨が強く降ってきた。 何とか1時半に完了したが風邪をひきそうだ。

今日は本番でしたので当日の流れを記す・・・・・・・・6:30~おでん、甘酒の鍋温め  7:00~役員集合 ストーブ、おでん鍋、甘酒、みかん、バケツ、シャベル、箒諸々の道具搬出  7:00~各町毎に支部長と子供が、ふれ太鼓をたたいて「道祖神が燃えますよ」と言いながら触れ回る。  点火のたいまつを作る。   8:00~開会式(挨拶、ご芳志披露、)→点火(子ども会から)→Dousojin2_2

おでん、甘酒の配布(女性役員)→消化作業(消防・第7分団)→燃え灰処理(地元土木や)・・・・・反省会(現場で挨拶と乾杯)  11時に解散となりました。   村の正月に欠かせない楽しい行事で、今回も大勢の家族連れ(特に小さな子供がいる家が来る)でにぎあいました。  何時までも続けるべき行事です。

付記:道祖神祭・・正月の行事で、門松、しめ縄、書初め、ダルマなどを、おたきあげする行事です。  燃え上がる火に、繭玉やスルメ、もち、等を焼いて食べ、1年間の無病息災を祈ります。 また地域の様々な世代との交流を図る機会ともなっています。 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

記憶たぐり

2008-01-08 14:47:46 | 小説

 背戸口の脇に「水がめ」があり、流し台のある板敷きの場所は、家中の者が食事をするお勝手だ。  その西の部屋は下屋ではあるが、欅の木で磨き上げられた光った置戸棚が据えられている。 その前で脚の長い紺股引の似合う父がのびゞと仕事の疲れを休めている。 そばで君子と恵子が・・・泣くな妹よ~と・・・古賀メロディー「人生の並木道」を唄っている、小学生に上がる前の頃だったろうか?

小学校五年の5月12日母マツの危篤で早引けしたものの、裏のクルミの木の下で遊んでいて死を知らされても深い悲しみすら感じなかった。そんな親との別れから俺の記憶は始まる。その年は何年かに一度出る大久保村秋祭り(本祭り)の屋台が出た事を思い出す。 次の年の冬、南下の笹沢家から継母の愛が来た。そして母代わりだった長姉ハナが笹沢家へ嫁いだ、その後の田中家は横浜に出た次女ヨシの結核死亡、また家族も病人の続出で当時の父の苦悩が偲ばれる。

小学生(高等科)の頃、兄貴と裏家の徳一君と自転車で迦葉山まで行った事は楽しい思い出だ。戦中、兄が召集されるも進歩的な継母だったため師範学校に出してもらえた。  師範の思い出は栗林先生の偉大な寄宿舎生活等、記すに限りなし。

駒寄小学校時代は「心うつろにも、うつし絵抱き、いとし子ら、行方を祈るれは、心亦楽し」と教育に燃えた。しかし江原君と戦争の風と波に自分がわからず1年で止め、若い血のみで昭和20年1991部隊に入隊、復員後すぐに清里小学校へ赴任した、それから終戦の後、結婚までの生活が俺の人生一番の華であった。

青春の喜びはさることながら、教員としての充実感と喜びを感じていた。初めての古巻小学校は初等科2年白組の担任で、今でも子供たちの顔と名前が1人1人浮かんでくる。  中沢利平校長や本田先生、2年黄組担任の同姓同名の田中三郎は熱血漢で戦争に燃えて志願兵として少尉に任官、歌と字が上手だったが南方へ向かう護送船で戦死した。 男らしいもったいない男だった、思えば二人で弁当を腰に通ったものだ。  古巻小時代は、若い者同志で良く宿直をし職員室で飯迄炊いて食べた。  田中栄村長や池田村会議長等に可愛がられてガラメキ温泉(今は無くなった相馬ヶ原の温泉)で鯉こくを食べて一泊した想い出等は忘れられない。

清里小学校へは、中野高等無線に失敗して帰る間もなく桑原正一先生の紹介で赴任した。  戦争最中、石北校長が体育指導に熱心で指定校として金古からの鈴木貞造先生(後に県教育組合委員長)を筆頭に体育研究会を良くやった。 この人が体育はもとより絵も書も詩や短歌も優れていて、俺が出征する時に『教えの道』を五百の○○に○して作詞作曲し送ってくれた。 終戦後は野苺の会(短歌会)も発足した。 体育指定校のお陰で運動神経のにぶい俺も、鉄棒、跳び箱、空転等人並みの指導が出来る事に成ったものだ。 清里小には中島寅さん、藤原昭夫君、田中初子さんの4人が大久保から勤務していた全盛時だった。

農家に婿入りしてからは、子育ては夢中で、百姓一筋となり子供達には楽しみなど与えずに終わってしまった。 女子1人、成子は生後一年で目が悪いと言いながら世を去った。 百姓、農業とはこんなものか、陣場の山の畑(桃井村)の甘藷などは祖母までも桶一杯に入れて川を渡ったものだ、当時の川は綺麗で清水も湧き出ていて喉をうるおしてくれ冷たくて美味しかった。 大久保地の牛王頭川には鰻もいて清水が湧き、一休み毎にすくいのみしたものだ。

木箱に金車を着けて、父の手作り乳母車に祖母(カツ)が寛を乗せて、東の「けーど」の木陰でよく遊ばせていた、祖母は足が悪かったから大変だったと思う。  当時はワラ屋根の家だった、裏の井戸のふちにはイチジクの木と栗の木、欅の大木が有り、外は竹薮で覆われており中には椿が咲き、アケビが成ったりしていた。   

居宅改築の藁屋根の時代は養蚕と米・麦等の専門の百姓だった。 藁すぐりをしては簇や縄網を作り、そして筵織り等をする、冬仕事の合間には麦踏みと作きり等、今のせせこましい時代と違って優雅だった。  雪の日は藁すぐりの藁で敷き詰められた庭中に蚕かごの雀捕りだ。  居宅改築は近所の人や親戚の人々の手伝いで壁塗り迄してもらう、土台の砂利は牛王頭川から運ぶ、今では想像もつかない細かい作業までしたものだ。

改築後数年で養蚕の時代はすたれてしまった。共同飼育所や條桑育(テント張りの小屋)でキクエも忙しく働いたがリュウマチで入院したりした。父は俺が婿入り当時から傷痍軍人だったので毎年、利根の川古温泉へ湯治に出かけて行ったものだ。  土地改良前の裏田1反8畝には小蕪も作り、父母等四人で朝三時起きで洗い、前橋市場へテーラーでは運んだ。 総社駅の南踏み切りでリヤカーのタイヤが挟まり冷や汗を流した事もあった、 当時の蕪つくりは、今のようなビニール覆いではなく養蚕カゴに藁を架け、大竹で組んだ桁に架ける、その竹やカゴ運びは大変なものだった。

ほうれん草出荷も大変だった、藁をすぐって束ねるので今の出荷とは比べものにならない程の大変な毎日だった。養蚕火鉢に蒔きを燃やしながら夜遅くまで家族中で作業するが、父はよく居眠りをしていた、今思うと良く働いてくれたものだと申し訳なく思う。 そんな、ほうれん草の時代(丸池出荷組合長をしていた)には小野関國竜の世話で北軽井沢に別荘地を購入することも出来た。その後、寛が別荘を建てた。

 付記:82歳の父が手帳の隅に時々メモしていたものを整理して書きました。

母は18年に病気で亡くなり、父は19年12月(昨年)に交通事故で寝たきりの状態になってしまった。  このメモは2007年の手帳に、その日の出来事とともに思いつく都度記入していたのだと思います。  この手帳と一緒に12月に購入した2008年手帳が置いてありました。  この後も新しい手帳にその日の出来事とともに想い出を書きたかったのだろうが脳挫傷となってしまったので未完成の記憶たぐりです。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする