車イスのある風景 

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2006年8月開始 福祉=前橋市肢体不自由児者父母の会等

歩け歩け

2007-10-21 22:19:07 | 日記・エッセイ・コラム

清里地区歩け歩け大会の開催日です。    雲一つない秋晴れの日でーす~! ・・・・・・・・残念・・・・・・・????   青少年健全育成会長の挨拶後に青少推会長としてコース説明をする。   大部分が小学生と親達です。  ?? 参加者は例年よりチョット少な目かな?   体操後、私ども青少推5人衆を先頭に、公民館を出発する。Sn370arure_2      ちょっと肌寒い風を受けながら、下見をした敷島公園を目指します。  途中の上毛大橋の上からは  「すそ野は長し赤城山」  「登る榛名のキャンプ村」  「紅葉に生える妙義山」  と上毛カルタで読まれている上毛三山と谷川岳を眺めながら、ゆっくりと列を進ませます。    敷島公園では松林の中で家族での昼食と語らいとで、笑顔が広がっていました。  若い世代の親子たち!充分に楽しめたかな??  今日の1日が親子の楽しい思い出となれば幸いです。

追記: 昨日は43回前橋市青少年健全育成大会で一日中、舞台係でした。 ほうれん草が2日間も出荷できず困るナア、Lサイズになってしまうよ。明日も1日用事があるんだナア!!!

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袈裟懸けの松(けさがけの松) その2

2007-10-14 15:02:54 | 小説

Sn3700 最初の頃はバスや電車を乗り継いできたものの、深谷村まで来たとき、お金が不足すると分かった兄は、食事も1回にして野宿をしながら朝夕の涼しいうちに歩きました。  しかし高崎市に着いたときには一円も残っていませんでした。   その高崎から電車道を歩きながら一本松の停車場までやって来たのです。   真夏に何も食べずに歩いてきたのです。 目の見えない弟の手を引いて来た兄もさすがに疲れました。   そこで一本の松が生えた丘で涼しくなるまで体を休めることにしました。   見わたすと三国の山が見えます、そこを越えるともう新潟です。    その時フラフラになって疲れている弟が 「兄ちゃん!お金が有るのになんで電車に乗らないんだ」 と泣きながら疑いの目で思いのたけをぶっつけたのでした。   兄は弟が叔母からウソを聞かされていることなど知りません、いくら兄が本当にお金がなくなってしまったと説明しても弟は信じることが出来ません。   挙句の果て、弟は 「僕のことなど、どうでもいいんだ」 と初めて兄に反抗したのです。   そして一緒に行くと迷惑がかかるから行かないと言い張ったのです。  本当は行きたくない理由があったのです、それは行く先が裕福な造り酒屋ではなく貧しい農家と知っていたからなのです。   目の見えない者には農作業が出来ないから足手まといになるばかりで決して幸福になれないと思っていたからなのです。   そのことを知らない弟思いの兄は困ってしまいました。  盲目の弟をここへ置いてゆくことなど出来ません、困った兄が一本松の木の下から村を見わたすと点在する農家のなかに一軒のお寺がありました。  兄は寺の和尚さんに理由を言って弟をしばらく置いてもらえるように頼んだのです。   裕福な親戚に着いたらすぐに迎えをよこすから寺の手伝いをしながら待っているように言い、それが出来なかったとしても必ず 「来年の8月8日には迎えに来る」 と言ったのでした。   何をするにも2人一緒だった兄弟が別れることになったのです。   兄は別れぎわ、この一本松だって雨風や暑さにめげず頑張っているんだから一人になっても頑張るんだよ、と励ました。   そして今度会ったときは 「この松の下で腹一杯のオムスビをたべようネ」 と約束して、裕福であるべき親戚へ旅立ちました。

それからの兄は手間賃稼ぎをしながら、どうにか新発田村という母方の家まで着いたのです。  しかし案の定、そこは裕福な造り酒屋ではありませんでした。  貧しい農家で、その日その日をやっと暮らしている親戚だったのです。  毎日、朝から晩まで働かされて少ない粗末な食事をさせてもらえるのがやっとのところでした。  お金など溜まりません、約束の8月8日になった暑い日も、田んぼと畑の草むしりをせざるを得ませんでした。  とても弟を迎えに行くどころではありません、弟を寺へ預けてこられたことが責めてもの救いだったと想いながら、夜遅くまで働き続けたのです。   2年目の約束の日も、また次の年も・・・・・・・・・・・・迎えにいけませんでした。  そして働かされすぎて5年目の年にとうとう病気になって亡くなってしまいました。

長安寺という寺に預けられた弟は、幸いに大変慈悲深い和尚さんだったために、目が見えなくてもお経は読めると考えて小間使いの他に坊さんになる修行をさせてくれたのでした。   1年目の約束の日に一本松の下で遅くまで待っていましたが、兄は来ませんでした。  あの日、新潟の親戚が本当は貧乏なんだ!と、どうして言わなかったのか、言えなかったのか。 そして、お金のことで怒ったりしたことを悔やんで涙をこぼしたのです。 それからも毎年約束の日に松の下で待つことを忘れませんでした。  弟は一生懸命修行に励み袈裟(けさ)を着ることができる和尚になることができました。   風の便りで兄が亡くなったことが分かってからも、約束の日になると脱いだ袈裟を松の枝に掛けて兄との因果を想いながら、一日中拝む事を忘れませんでした。   その姿を見ている村人達は一本松のことを、いつしか袈裟懸けの松と呼ぶようになりました。

今でも一本松という地名とバス停(写真参照を)はありますが、盲目の和尚さんはとうに亡くなっています。もう、8月8日の和尚さんと松の枝になびく袈裟の風景はありません。 松の木からはセミの声が聞こえるだけになりました。  いつしか袈裟懸けの松という通称も、そして本当にあったこんな話も忘れ去られることでしょう。

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袈裟掛けの松 (けさがけの松)その1

2007-10-02 21:26:39 | 小説

Sn3700 障害を持った人に対して、いたわりの心を持ってもらいたいと想い、短い物語を書いてみました。

私が子供の頃聞いて、今でも覚えている話をします。曾(ヒイ)バーちゃんと隣りのバーちゃんが縁側でお茶を飲みながら、「久しぶりに一本松山にでも行ってんべぇ」と云うことになり、2キロ先の山へいくことになりました。    山といっても雑木林に小道があり頂上に一本の松があるだけの小さな丘で、地元の人が一本松山と呼んでいる所です。    こんな所へ出かけることも当時の子供には飛び上がるほど楽しい事なのです。    むすびを持って3人が連れ立って1キロほど歩くと三国街道に出ます。    ちょうど高崎から渋川へ向かう中ほどになります、そこにはレールの上をチンチン電車が走っています。    一度でいいから乗ってみたいと思っている電車ですから、見るだけでも楽しかったのです。    電車を眺めてから街道を横切り、ゆっくりゆっくり頂上へ登り、手拭いを敷いて座ります。    私の住む清里村は平地なので、そこからよーく見わたせました。 そこで村を見下ろしながらバーちゃん達が話してくれたのでした。

戦争が終わった翌年の事、ギラギラと太陽が地上を焦がす8月8日、二人の少年が新潟県を目指しておりました。    二人の少年のうち、一人は盲目の少年で兄に手を引かれて歩いていました。  二人の父親は戦争で亡くなりました。   母は空襲で亡くなりました。弟は空襲の時の火傷がもとで目が見えなくなったのです。   二人は叔父さんの家に引き取られましたが食べ物がない時代でしたから働けない子供を面倒みるには余りにも負担だったのです。   これ以上二人を家に置いておくことが出来なくなりました。そこで叔父は二人に言いました。   「新潟で母方の親が大きな造り酒屋をしているので、そこならば食べ物にも困らない、学校にもいける、苦労もしないですむだろう」と、兄は叔父の家の状況もわかるし弟の将来を考えると、新潟へ行くのが一番良いことだと思いました。  しかし弟は、2、3日前の夜に叔父さん達が「母方の家は貧しい農家だし、引き取ってくれと言っても無理だろう」この際、ウソを言ってでも追い出すほかないだろう、と言っていることを聞いていたのです。   兄と違って、目も見えず家の手伝いも出来ない弟は、兄に相談することもせず独り涙を流すばかりでした。   しかし本当のことを知らない兄は、いままで知らなかった親戚での生活に胸膨らますことになり、新潟へ向かうことになりました。 叔父は兄に当面の費用にと僅かばかりのお金を渡したのです。   ところが厄介者扱いしていた叔母は体面をつくろい、弟にだけ到着までの食事や交通費のほかに余りある大金を渡したよ!とウソをついたのです。    この事が二人の運命を変えることになるのでした。

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