最初の頃はバスや電車を乗り継いできたものの、深谷村まで来たとき、お金が不足すると分かった兄は、食事も1回にして野宿をしながら朝夕の涼しいうちに歩きました。 しかし高崎市に着いたときには一円も残っていませんでした。 その高崎から電車道を歩きながら一本松の停車場までやって来たのです。 真夏に何も食べずに歩いてきたのです。 目の見えない弟の手を引いて来た兄もさすがに疲れました。 そこで一本の松が生えた丘で涼しくなるまで体を休めることにしました。 見わたすと三国の山が見えます、そこを越えるともう新潟です。 その時フラフラになって疲れている弟が 「兄ちゃん!お金が有るのになんで電車に乗らないんだ」 と泣きながら疑いの目で思いのたけをぶっつけたのでした。 兄は弟が叔母からウソを聞かされていることなど知りません、いくら兄が本当にお金がなくなってしまったと説明しても弟は信じることが出来ません。 挙句の果て、弟は 「僕のことなど、どうでもいいんだ」 と初めて兄に反抗したのです。 そして一緒に行くと迷惑がかかるから行かないと言い張ったのです。 本当は行きたくない理由があったのです、それは行く先が裕福な造り酒屋ではなく貧しい農家と知っていたからなのです。 目の見えない者には農作業が出来ないから足手まといになるばかりで決して幸福になれないと思っていたからなのです。 そのことを知らない弟思いの兄は困ってしまいました。 盲目の弟をここへ置いてゆくことなど出来ません、困った兄が一本松の木の下から村を見わたすと点在する農家のなかに一軒のお寺がありました。 兄は寺の和尚さんに理由を言って弟をしばらく置いてもらえるように頼んだのです。 裕福な親戚に着いたらすぐに迎えをよこすから寺の手伝いをしながら待っているように言い、それが出来なかったとしても必ず 「来年の8月8日には迎えに来る」 と言ったのでした。 何をするにも2人一緒だった兄弟が別れることになったのです。 兄は別れぎわ、この一本松だって雨風や暑さにめげず頑張っているんだから一人になっても頑張るんだよ、と励ました。 そして今度会ったときは 「この松の下で腹一杯のオムスビをたべようネ」 と約束して、裕福であるべき親戚へ旅立ちました。
それからの兄は手間賃稼ぎをしながら、どうにか新発田村という母方の家まで着いたのです。 しかし案の定、そこは裕福な造り酒屋ではありませんでした。 貧しい農家で、その日その日をやっと暮らしている親戚だったのです。 毎日、朝から晩まで働かされて少ない粗末な食事をさせてもらえるのがやっとのところでした。 お金など溜まりません、約束の8月8日になった暑い日も、田んぼと畑の草むしりをせざるを得ませんでした。 とても弟を迎えに行くどころではありません、弟を寺へ預けてこられたことが責めてもの救いだったと想いながら、夜遅くまで働き続けたのです。 2年目の約束の日も、また次の年も・・・・・・・・・・・・迎えにいけませんでした。 そして働かされすぎて5年目の年にとうとう病気になって亡くなってしまいました。
長安寺という寺に預けられた弟は、幸いに大変慈悲深い和尚さんだったために、目が見えなくてもお経は読めると考えて小間使いの他に坊さんになる修行をさせてくれたのでした。 1年目の約束の日に一本松の下で遅くまで待っていましたが、兄は来ませんでした。 あの日、新潟の親戚が本当は貧乏なんだ!と、どうして言わなかったのか、言えなかったのか。 そして、お金のことで怒ったりしたことを悔やんで涙をこぼしたのです。 それからも毎年約束の日に松の下で待つことを忘れませんでした。 弟は一生懸命修行に励み袈裟(けさ)を着ることができる和尚になることができました。 風の便りで兄が亡くなったことが分かってからも、約束の日になると脱いだ袈裟を松の枝に掛けて兄との因果を想いながら、一日中拝む事を忘れませんでした。 その姿を見ている村人達は一本松のことを、いつしか袈裟懸けの松と呼ぶようになりました。
今でも一本松という地名とバス停(写真参照を)はありますが、盲目の和尚さんはとうに亡くなっています。もう、8月8日の和尚さんと松の枝になびく袈裟の風景はありません。 松の木からはセミの声が聞こえるだけになりました。 いつしか袈裟懸けの松という通称も、そして本当にあったこんな話も忘れ去られることでしょう。