人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

皆で遊んだ記憶は無い

2023-11-23 09:51:16 | 回想
今日のような小春日和の休日なんかは、どっかの紅葉の美しい公園で、読書なんかをしてのんびりしたいものです。
決まって子供が楽しそうに遊んでたりします。かわいいですね。
しかし...それが2、3人くらいならともかく、大勢でかくれんぼなんかやりだすと、もうウルサイのなんの!...お邪魔ムシがウジャウジャと!
連中、まったく少人数の時と顔つきが違うぞ!...何かに取り付かれたみたいに!
公園は公共の場なんてことなど全く頭に無いみたいです。小さい子供なんだから無理ないかもしれないけど、もっと大きな中学生くらいの子供でもいっしょでしょう?
集団が人間を変えてしまうようです。
“あんたかて、小さい頃はいっしょだったやろ!“、って...
私は、時々は大勢で遊んだことはありましたが、それが楽しかったとか、そういう思い出は皆目ありません!
とにかく皆で遊んだ記憶というものが無いのです!
どうも、ホントは気が乗らなかったのを無理に誘われたようなケースが多かったようなのです。
集団でやる遊びのルールなど覚えるのもメンドクサイし...
親しい友達、特に女の子と遊んだこと、特に又お医者さんごっこ(!)をした時とかは、楽しい思い出になってますよ。
その顔、表情もはっきり覚えています。だけど、大勢のことになると、全く思い出せません。
集団になると、人間は別の生きものになるみたいです。そこには血の通った人格みたいなものは認められなくなるようです。
学校でも一人一人のことは覚えていますが、それが“生徒“という何か規格化されたようなもので括られると、違うものに化けてしまうのです。
イジメという問題でも、人間が集団化しなければ深刻なことにはならないのではないでしょうか?これは、子供でも大人でも同じでしょう。
一人一人は、他人に迷惑を掛けたり、傷つけるのは良くないことくらい分かっているけど、一人一人が束になると何だってやれちゃうようです。人殺しでも戦争でも...
全体のためなら...全体って何だ?
ごく一部でしかないのに、全体だと思っているだけの自集団からすると、他集団は認められないらしい?...だからそんなものは無くせばいい!
かかる全体主義ほど、より大きなものを見えなくするものは無いのです。
私はどうしたって子供の時から集団には馴染めなかったのです。今に至るも馴染んだ試しがないのです。
大学の頃、宗教集団に入ったことがありましたが、心から馴染んだことは一度もありません。
むしろ、そのことから今書いていることを深く学ばされたのです。
神も集団的思念に覆われると悪魔のようになる!
なんてことはない!...私は子供の時のまま、大きくなってしまっただけのようです。それでいいのか悪いのか?...

小さい小悪魔さんたち、今日はもう少しスピーカーの音量を下げてね!、ベンチに土足で上がっちゃダメだぞ!...僕は残り少ない今年の秋を満喫したいんだから!

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