人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

探究の終わり?

2020-08-01 10:42:12 | 求道、探究
所謂ノンデュアリティの謳い文句の一つに"探究の終わり"というのがあります。
"幸福になろう、悟ろうと探し求めていたものは、既にここにあったのですi"、と、既に悟っているということに気付いた、かのように語られる訳です。
しかし、そう言っている人がセッションだとか講演会だとか"サットサング"(ただ既に悟った人と共に、そこに居るだけでお金を取るらしい?何かの集まりのこと)だとかを催し、それに集まってくる人も結構多いらしいのは何故なんでしょう?
そして、そこでは多く瞑想法の伝授とかも行われているらしいです。
"探求者たち"は、そこにウンとショートカットして、人生のゴールに至れるような魔法みたいな何かを嗅ぎ付けるようです。
ここに如何にスピ界隈には探求者が多いか、いや探求無しにスピの道は成り立たないということが知られるでしょう。探求は終わりそうにないですね。
こういう風なことは、言うまでもなく私もかなりオタクっぽいほどの探求者だったから書ける訳でして...
で、今は?...大部探求心は薄らいじゃったですねえ...だって、気付いちゃったんですよi 人生のゴールに達してしまったことをi
だから、こないだの昼前、都内で緊急地震速報が発令された時なんか、もう取り乱してしまって、"助けてくれえi"と、心ここにあらずって感じになってしまい、"既に悟っている"場合じゃなかったのですi
この他、すぐキレるし、Hなアヤマチ?に走ろうとしたり、自分の感情をコントロール出来なくて、到底そんな境地になるのは無理なのです。
以前は、"悟った人間は、いや悟りを目指そうとする人間は、そんなことで心が動いてちゃあ、ダメなんだi"、と思おうとしたりもしましたが、そんなポーズなど人の目は誤魔化せても、裸の自分には通用しません。
いくら自分を変えようとしたって、変えられない...歳ばかり食っていて、人生のゴールは見えてしまったではありませんかi
だから、自分をどんどん高め、深めてゆくのが探求の道なら、それはもう終わってしまったと言ってもいいのです。
しかし...ある時からそんな自分で自分に愛想が尽きたような、私の心もふとある方向に切り替わってしまうのを身に覚えるようになったのです。神の方に意識が向けられる...そして、失いそうになる"私は在る"という感じを取り戻す...。
それは約20年くらい前、"自分が悟る"という道を断念したことが端緒になっているのですが、同時にいつも神的なものと共にある、という感覚が芽生え始めたのです。
そして、このブログを書き始めてから、いよいよ自分が悟ることなどどうでもよくなってしまったのでした。
私の探求は終わったのでしょうか?...私は精神的探求はイイカゲンになってしまいましたが、虫の生態のこととか、バッタの顔と宇宙人の顔との相関のこととか、探求したいことで一杯です。
人間は結局探求し続けずにおれない生き物なのでしょう。
一向に収まる気配の無い、コロナのトンネルを通っても止むことが無いのでしょうか?
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