人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現臨の春が来た!

2024-02-14 09:47:33 | 回想
この2月の早春の頃というのは、私の精神的な歩みにおいて、一つの転機となったことも幾つかあり、思い出されることが多いのです。
昭和53年2月のある日、本格的にそうした道を求めて数か月くらい経った頃でしたが、何か自分の中から喜びが突き上げてくるものに押されるように当てどもなく歩き出し、気が付けばその時初めて訪れた、中野の中野新橋辺りに居たのでした。
“そうだった!“...その翌年の正月明け(この時はもっと高揚した気分でしたが)、訪れようとしていたのは、ここだったのです!...あの意識状態に肖りたいと思ったのでしょうか?
それにしても、どうして中野新橋なのか?、そこに一体何があるのか?...確かに神田川に架かるこの橋から眺める夕日は格別で、そこは都内でも“My“絶景スポットの一つです。
しかし、その後も何度もこの辺りを訪れてますが、特にどうということも無いですよ。
これはもう、その時の意識状態がそこを聖地たらしめているということなのでしょう?
といって、まだこの時は翌年のその頃芽生えた、神的な現臨感というものの自覚はありませんでした。
その時の突き上げてくるような喜びの中身は、その数か月前まで入っていた宗教教団からの“人類はやがて神の裁きにより、大天変地異により粛清されるが、この教えに従う者は救われる...“といった、私の精神を支配していたその教えからすっかり解放されたこと、何よりも自由に真理を探求出来るということ、私のルネッサンス時代の到来を思わせるような、自由な精神が開かれたことにあったのです。
その根底にあったものは、神は愛なのであり、自分と離れてあるものじゃないという思いなのでした。
これには、何度も書いているとおり五井先生との出会いが大きかったのです。
それからというもの、そのほとんどは知的好奇心から書物を求めることが中心でしたが、そうですね、オカルト的なものも多かったと思いますが、次から次へと精神世界の探求に駆られるようになりました。
しかし...そういう傾向のものは何一つ身に付いていません。今、そういう本を読もうと思っても、多くは生理的に受け付けません。
五井先生流に言えば、そういうものは、“消えてゆく姿“ということなのでしょう。
それでも、私にはその頃のことは、喜ばしい思い出として残っていることには変わりはありません。
その根底に息づいているものが、今もなお、ここに息づいているからです!
それは、もはや過去の思い出では無いのです!...身に覚えられていることというのは!
“何かが開かれた!“、そして、今日の東京の天候のような、一気に春が来たような暖かいものが伝わって来る感じ...
あれは確かに神的な現臨感の萌芽と言えるものに違いありません!
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