人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

キリスト教の裏側

2017-02-07 16:02:54 | キリスト教関連
ずっとこのブログを読んで頂いている方なら、お分かりのように私は所謂宗教というものがキライなのです。
自分の頭の中で絶対に正しいと思い込んでいる信仰を強要してくる教師、伝道者たち…それに迎合して自ら隷属してしまう信者たち…ここにあるのは、誰の人生であるか、ということが蔑ろにされるばかりの主体性、自己信頼の欠如です…イヤですねえ…ムシズが走ります。
私はそういう世界にとっぷり浸かっていたからこそ、そう感じざるを得ないのです。
とりわけ嫌悪感を催すのは、キリスト教です。宗教のマイナス・イメージのほとんどは、ここから来るといってもいいくらいです。
直接関係の無さそうなカルト宗教でも、随所にその遺伝と思しきものが見え隠れしています。
これこそは形態的にも、精神的にも悪しき分裂を引き起こす分離宗教の典型ではないでしょうか?
しか―し…ご存じのように私の精神的歩みの中で、このキリスト教的なものとの関わりが深かったのも紛れもない事実なのです。
どうしてかと言うと、決まってるでしょ! 惹かれたから…スキだからです。
キリスト教は一番キライで一番スキな宗教なのかも知れません。
かように、私の中でキリスト教的なものを巡って相反する感情が真っ二つに割かれているのです!(分離してます)
手島先生、小池先生、ベルジャーエフ、サンダー・シング、エマーソン…影響を受けたキリスト者は数知れません。
どうして同じキリスト教でスキかキライで別れるのかと言えば、彼らは主流、正統を自認する自称キリスト教から異端視されるなど、傍系に追いやられている、ということで一応の説明は尽きます。彼らはほとんど教会の外に住していたのです。
でも、それだけの理由で理屈抜きに惹かれてしまう訳じゃありません。
私が初めてキリスト教的なものに意識的に触れたのは、原始福音の「生命の光」誌を手に取った時からなのですが、私はどうやらその時、理屈抜きに惹かれてしまうあるものを感受していたようです。表面意識では”どうもアヤシイ宗教のようだ”とか、”キリスト教はどうも偏っているようでイヤだ”といった思いがかすめているのですが、”この何となく畏敬の念をもたせ、ヒタヒタと音も無く迫って来るような感じのものは何なのだろう…”と…どうも何がしかの、その息吹に触れていたようなのでした。
これは修行、メソッド、教えを信じる事、信仰…といったプロセスを通さなくとも直接触れ得るものです。実際私はその雑誌を読んで、それを頭で理解した訳でも無く、理屈抜きに伝わってしまったようなのです。こうした事は、後にそうした集会などを通じて何度もあります。
そしてこの言葉で言い表せない”感じ”のものこそは、しばしば私が上よりの力で捉えられてしまうものとつながるのです。確かに現臨として今日まで身に覚えているものなのです。
私が初めて、強烈にそれに預かったのは、直接そのキリスト教的なものとのつながりは無かったですが、あの”感じ”というものと同質のものと言っていいでしょう。これはキリスト教的に言えば聖霊と言っていいのかもしれません。
でも、それは本来色も形も無く、何教と限定されるようなものでもありません。
しかし、この霊なるハタラキは表側のキリスト教とは別の裏側の霊統を通して伝えられてきたということは言えるでしょう。
そういうものは勿論他宗教にも伝わっているものですが、よりディナミス(力)を感じさせます。(この事がしばしば変質して狂信性を生み出す要因ともなったようです)
それは本来、修行も信仰も介さない直接的な聖霊の事態です。だからこそ私は理屈抜きに捉えられてしまうのでしょう。
その媒体となった者の多くは神秘主義者、神秘主義運動(個人を超えて集団に霊なるものが働くケース)などと呼ばれてきました。どうして多くがキリスト教的なものを通して伝えられたのかはよく分かりません。(他の例ではユダヤ教のハシディズムなどがあります)
この霊なるハタラキは、純粋に何の相対的な色が付着されることなく、伝わってこそ普遍性へと開かれ、自己の深みにも浸透していくものです。
このもの自体は相対的宗教を超えており、一つの宗教によって独占されるべきものでもないでしょう。”全てのものを照らす真の光(ヨハネ伝)”です。
キリスト教は、諸々の不調和、相克をもたらし宗教の和合ならぬ分離に加担してきました。
ベルジャーエフが言うように歴史的キリスト教は既に役目を終えてしまったようです。否、キリスト教が主導した宗教そのものがもう死に絶えてしまったのかもしれません。
宗派的キリスト教の諸々の夾雑物は取り払われ、その裏側で息づいてきた霊なるハタラキが顕わになることでしょう。
それと共に宗派的な、相対的に分離したあらゆる宗教も終わり、普遍に開かれた宗教的なものが開かれることでしょう…。










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