人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自己と神の実存

2024-06-10 09:53:32 | 現臨、ハタラキ
自己とは何か?、私は誰か?...
と、考え追求して行って、何らかの論理的結論に達したとしても、自己そのもの、私そのものが分かったとは言えません。
そうした思考によるアプローチというものは、思考する私と、その対象となる自己とがずっと分かれたままで、その追求は果てしない堂々巡りとならざるを得ません。
頭の中だけでオチたと思っても、永久に自己そのものに達することも、オチることも無いのです。
しかし、もし何かの拍子に(ヘンな言い方ですが)自己が自己につながる、一つになってしまったら!...その時、あなたはそのことを考えていないでしょう?...ただ、それを感じている...それは思考を超えて、純粋意識が開かれた状態と言ってもいいでしょう。
考えている自分からはけっして、自己そのものと一つにはなれないのです。
この意味で、自己そのものになる、自己実存に目覚めることは、前々回で言った”思考の及ばない地点”に立っているとも言えます。
そうなるには、大変な修行が必要なのでしょうか?...私はそんなこと言うつもりなどありません。この夏は、猛暑になる予想がありますが、熱中症になったらそんな感じになるかもしれませんし...
修行などにしても、どうも私は自分からは、そのように開かれる気がして来ません。
”自己とは何か?、私は誰か?”...このことを何の先入観、固定観念も無しに、思考を巡らすことなく、ただ感じてみる、意識してみる...これは、一寸掴まえ所が無い話のようで、何をどう向けていいか分からないかも...あ、しかし!...
.”aha!...私などすぐに、その一個の私、考えている私を超えた、私たらしめているものの臨在が感じられて来ます。そう、私を超えたものの現臨!
自分からは、自己実存とつながることは出来ないのです。少なくとも私には!、自ずとハタラクもの無しには!...
出来ない!、という限界、壁に当たることをよ~く味わってみたらいい!...その限界点こそが開かれる地点なのです。
自己実存は、神の現臨と一つのもの!
ここに何故、宗教、神信仰というものが人類の歴史と共にあるのかが分かる気がします。本当の自分と神とは分けることの出来ないものだからでしょう。
自己とは何かを知りたければ神を求めよ!
ただ、これまで神は、自己と離れたままの崇拝対象として考えられ、信従して行くだけのものとされ続けていたのです。
実存する神は、そのような形而上に想像される実体のことではありません。
神が顕わに実存することは、人間実存が顕わになることと一つのことなのです。
段々顕わになる...いや、もうホントにこれは、”aha!”なことですよ!
私が私を生きていること、それはそう在らしめられるから生きている、生かされている...これは理屈ではないでしょう?...人間は最初から難しい理屈なんか無くたって生きているではないか?!...
生まれ赤子を見よ!...


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