人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神への、神からの想起

2022-12-27 09:50:07 | 回想
“意識を向ければ、パッと何かが開かれる“、といつも言ってますが、これは何にも無い、考えている私だけからは、そういうことにはならないということなのです。
意識が向いてしまう何かがある...端的に神的なものと言ってもいいですが、それと関わる原体験のようなものを頭の記憶でなく、存在レベルで覚えており、意識的になるだけで自動的に再生されたりするようです。
私は長い間その原体験は、昭和58年夏の初めて”人生の裏側“に踏み入れた、爆発的覚醒体験のことと思っていたのですが、そうとも言えるが、よく考えればそうとも言えない感じなのです。何故ならば、その時キョーレツに実感されたことは、”この神と一なる至福状態“という失われた記憶の甦りだったからです!
これは又、実はそれに遡る昭和54年初頭、初めて現臨感が芽生えた頃にも朧気ながら感じていたことなのです。
それはその爆発体験の時には失われていた訳ですが、その時のこと共々が重なり合ったようなものなのでした。
現臨感を覚えた頃というのは、そんなに著しいものではなく、思考は後退はするものの、機能を失うまでには至らず、その爆発的体験というほどのものでは無いのです。
しかし!...私はやがてどういうことに導かれるだろうことは、それが恒常的に感じられていた、その一年半ほどの間、度々既に知らされていたようなのでした。
それがもっとも鮮烈に示されたのは、昭和55年春、ベルジャーエフの「精神と現実」という本を読んでいた時でした。
“私は思い描いたように、景色を見てるように見えない世界と関わるのでは無い!...この私の内奥と全く一つの世界と関わり、その神と出会うのだ!“、と。
実際にそういう体験を経ずとも、それは既に感じられていたのです!
それは、取りも直さずそういう導きを受けていたということに他なりません。
そして又、今こういうことが想起され、感じることは...あの時、この時別々の時期に、別々の事柄として記憶に甦るのでは無く、この今と切り離されることなく、連綿と内奥に息づいているあるもののことです。
それは、何も無いところから、それに応じるとされる修行などを通じて、より進んだ、高い段階を登り詰めた後得られるもの、という風には導かれることはありませんでした。
ということは、現実にそのようには意識が向かわなかったということです!
意識は、自ずと実存と切り離されない神的なものに向かうのです!
意識的に想起されるならば、過ぎ去った時と現在の間には、如何なる中断、分断もありません。
突出的な著しい体験と認識されることもあるでしょう。しかし、それは連綿たる神とのつながりから離れてあるものでは無いのです。得てして体験そのものに囚われると、それを失ったように感じたりもします。
とにかく、この神的根源的つながりのことを祈りをもって想起され、その息吹が呼び起こされるまでです。
このそもそもの想起は、どこに求められるのでしょう?
それは、思いを超えている!...多分、生まれる先か、“来ない先“からでしょう?
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