人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

言葉と体験

2024-06-21 09:53:11 | 哲学・思想
私はここで、“言葉に言い表せない!“、という表現を何度使ってきたでしょうか?
例えば、“神的なものが臨む“、なんてことは、現実にそういうことになってみなきゃ分からないことなのです。
そうなったら言葉なんて要らないのです!...って、そうやって言葉で表したりして!...言葉無くして何で私はここでこんなことしているのか!
近年のノンデュアリティなど悟り系スピでは、直接経験ということを強調するためか、言葉による伝達というものを軽視しているようです。
そのくせ、“あなたという個人は居ないのです、全体しかないのです“などと巧みに誘導、洗脳?したりしています。
やっていることは、“イエスを信じないと救われない!“、という二元的な教えと変わらないではありませんか?
中には、それにひっかかって(?)、悟りの境地か、単なる意識障害か分からないですが、そんな感じになる人も居るかもしれません。
又中には、言葉の誘導無しに、直接的にそうなる人も居るかもしれません。
私は、普通の教会とは違いますが、ある福音集会で、集まる人が聖霊を受けて回心させられているような場面に何度か出会わされました。
そこには、意図的な暗示的、催眠的な言葉の操作こそ見られませんでしたが、聖書の話とか感話など何らかの言葉が表されることが重要な役割をしていたのは事実です。いやそれよりもそれを含めた、その場の集団的に高揚した雰囲気によることの方が大きかったでしょう。
その回心の模様ですが、言葉の誘導などの外的要因によるものなのか、内的、内発、自発的なものによるものかは、当たり前のことながら傍目にはよく分かりません。聖霊体験というものは受けてみないと分からない!“とその集会で言われる通りです。
そうなんです。私は?...そういう集会の佳境?にある時は一度もそういうことになったことはありませんでしたが、人も減り下火になった時にありました。
それは、全く言葉による誘導でないとは言い切れない(何度も集会に参加していて、刷り込まれている部分もある)ですが、内的、自発的なものによるという感じの方が大きかったのです。
ということは、先入的要素としてのキリスト教的な言葉による“洗礼“は受けていない、一度もクリスチャンになったことは無い、ということなのです。
というより、私は外的な言葉による洗礼は決して受けない、内発的なものによらなければ、という感じはずっとあったのです。それが先のように集団的熱狂にはひっかからなかった理由なのでしょう。
いや、それが本当の自分、言うところのキリストにある自己の覚醒であるならば、内奥から、あるいは恩寵もたらされるものしか無いのではないでしょうか?
アタシャ、キリスト教でなければとか、非二元の教えとか、後から外から付帯されるようなものは受けたくないのであります。
私が受けた感じでは、例えば重要な宗教的言葉、神と人間の関係についてですが、言葉は先入要素として誘導される場合もあるけれど(というより今日では全くそういう影響を受けないというのは不可能とも言えるのですが)、それ以前に我々に原態として内在し、あるいはそれを超えて、直接的に働きかけるものもあると言わねばなりません。 
しかし、それのみで意識の表層に顕わになることは難しいし、現実には言葉によって呼び覚まされることも多いのではないでしょうか?
しかし又、言葉は、その言葉以前の、言葉を超えたものから言葉が切り離されたら、観念に浮いたり、思念により固定化され、いずれも生きたものにはならなくなるでしょう。
言葉は生きたものによって生きる!
それを生かすも殺すもあなた、いやあなたの神次第でしょう?



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