●妻の侍女に惚れて......
建武の新政を行なったことで有名な後醍醐天皇は、無類の女好きだったようだ。記録に残っているだけでも妻は18人、産ませた子供は30人以上と言われている。そんな後醍醐天皇に最も愛され、一時は彼の寵愛を独り占めしていたのが阿野廉子(あの れんし)である。
廉子は1319年、礼成門院という女性が後醍醐天皇の中宮として入宮した際に、侍女として同行した。その時、廉子は19歳と当時にしては若くはなかったが、直ぐに礼成門院を差し置いて後醍醐天皇の寵愛を受けるようになる。醍醐天皇は廉子にゾッコンで、いつも廉子を傍らに置いた。そして次第に政務を怠るようにすらなったと言う。
建武の新政を行なったことで有名な後醍醐天皇は、無類の女好きだったようだ。記録に残っているだけでも妻は18人、産ませた子供は30人以上と言われている。そんな後醍醐天皇に最も愛され、一時は彼の寵愛を独り占めしていたのが阿野廉子(あの れんし)である。
廉子は1319年、礼成門院という女性が後醍醐天皇の中宮として入宮した際に、侍女として同行した。その時、廉子は19歳と当時にしては若くはなかったが、直ぐに礼成門院を差し置いて後醍醐天皇の寵愛を受けるようになる。醍醐天皇は廉子にゾッコンで、いつも廉子を傍らに置いた。そして次第に政務を怠るようにすらなったと言う。
●無理矢理にでも我が子を世継ぎに......
後醍醐天皇は廉子に「三位局」という位まで与えて重用した。廉子は後醍醐天皇との間に恒良親王・成良親王・義良親王と3人の皇子を産む。廉子が長男の恒良親王を産むまでに、後醍醐天皇には4人の皇子が先に産まれていた。しかし廉子は自らの子供をどうしても世継ぎにしようと、巧みに立ち回ったようだ。皇太子の最有力候補だったのは、元弘の変など後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕運動で活躍した腹違いの兄・護良親王だった。ところが実際に皇太子に任命されたのは廉子の長子である恒良親王。これを発端に始まった護良親王と廉子の政権抗争は、後醍醐天皇の建武の新政が挫折した原因の一つと言われる。
後醍醐天皇は廉子に「三位局」という位まで与えて重用した。廉子は後醍醐天皇との間に恒良親王・成良親王・義良親王と3人の皇子を産む。廉子が長男の恒良親王を産むまでに、後醍醐天皇には4人の皇子が先に産まれていた。しかし廉子は自らの子供をどうしても世継ぎにしようと、巧みに立ち回ったようだ。皇太子の最有力候補だったのは、元弘の変など後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕運動で活躍した腹違いの兄・護良親王だった。ところが実際に皇太子に任命されたのは廉子の長子である恒良親王。これを発端に始まった護良親王と廉子の政権抗争は、後醍醐天皇の建武の新政が挫折した原因の一つと言われる。
●知っておきたい用語 「建武の新政」
後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ばした後の1333年、「天皇自ら政治を行なう」として開始した政治体制。武士層の不満を買ったことなどから足利尊氏が謀反し、1336年には政権が崩壊した。
後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ばした後の1333年、「天皇自ら政治を行なう」として開始した政治体制。武士層の不満を買ったことなどから足利尊氏が謀反し、1336年には政権が崩壊した。
学校で習った歴史はウソだらけ!?
日本史 大ウソ事典 「中世」
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