◆死と隣り合わせの生活
秦軍、いや曽祖父の昭襄王が子楚らに一切配慮せず趙を攻略した為、子楚と政(始皇帝)の親子の命は風前の灯火となった。
何しろ、親子は人質なのだから、こうなっては処刑されるのは必然である。この時、趙側は、先ず人質の子楚を処刑しようと捕らえたが、彼は呂不韋の手引により番人を買収して辛くも秦への脱出に成功した。しかし、妻子を連れて行く暇などなかった為、政は母と置き去りにされてしまったのだ。
趙は必死でこの2人を殺そうと探したが巧みに潜伏され見つけられなかった。一説には呂不韋が趙に賄賂を贈ったことで、事なきを得たとも伝わっている。いずれにしても、政は母親と共に、敵地の真っ只中で追われる身となってしまったのである。
後世の歴史家の考察、歴史小説家の創作の中では、この時の体験こそが始皇帝の人格形成に大きな影響を及ぼしたとされることが多い。伝説に過ぎないが、始皇帝は生まれつき身体が弱く、年端も行かないうちに早死にするだろうとも言われていたそうだ、身体が弱く、人々からは侮辱され、軽視されて長期に渡る心理的抑圧を受けていれば、精神発達は自ずと正常には成り難いだろう。おまけに、現在より命の価値が遥かに軽かった時代ではあるものの、父親が自分だけ安全なところへと脱出してしまったわけだから、人格は相当歪んでいたのではないかとも考えられる。彼の人格が歪んでいたかどうかを確かめる術はないが、少年時代の不遇を後の苛烈な政策の理由と考えるのは自然なことかも知れない
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まさか秦の土を踏む日が来るとは思わなかった 秦への帰還
◆奇跡的に太子となる
秦による首都・邯鄲の包囲により滅亡寸前かと思われた趙であったが、その抵抗は激しかった。しぶとい篭城が続いたことで秦は、まだ趙を滅ぼす時ではないと判断し、一旦は軍を引き揚げることとなった。これにより、政と母親は何とか命を長らえることができたのである。とは云え、父親の子楚は秦へ逃亡したままであった。いつ殺されてもおかしくはないと云う環境での生活は、その後も数年続いた。
そうした中で紀元前250年になり昭襄王が没する。そして、1年の喪が終わり安国君が即位して孝文王となった。これによって呂不韋の政治工作はようやく実を結んだ。子楚が太子となったのである。それに伴なって、趙で10歳に成っていた政とその母親を秦へと送り返すことになった。ここにようやく、政は命の危険を脱したのであった。そればかりではなく、いつ殺されてもよい人質扱いであったはずの子供は、帰還と共に王の跡取りとして敬われる地位になったのである。こうして太子の子となった政であったが、孝文王は、即位した後に僅か3日で死亡してしまう。そして紀元前249年に子楚は荘襄王として即位する。ここに、政は太子として認められる。
その生誕時の状況と、絶体絶命とも言える邯鄲での生活から考えれば、奇跡と言っても過言ではない逆転劇が起こったのだ。それは政の力によって行われたものではなかったが、幸運こそ彼の優れた素質であったと言えるかも知れない。その幸運は、更に荘襄王の早逝によって、彼を幼くして秦王へと祭り上げて行くことになる。
(画像・司馬遷『史記』秦始皇本紀)
秦の始皇帝 最強研究
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