Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

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子夏が人を教えるには順序のあることを説いた

2015-02-21 12:16:53 | Weblog

子游曰、子夏之門人小子、當酒掃應對進退、則可矣。
抑末也。本之則無。如之何。子夏聞之曰、噫、言游過矣。
君子之道、孰先傳焉、孰後倦焉。譬諸草木區以別矣。君子之道、焉可誣也。有始有卒者、其唯聖人乎。

子游曰はく、「子夏の門人小子、酒掃応対進退に当たれば則ち可なり。
抑々末なり。之を本づくれば則ち無し。之を如何。」
子夏之を聞きて曰はく、「噫、言游過てり。君子の道、孰れを先にし伝え、孰れをか後にし倦まん。
諸れを草木の区にして以て別るるに譬う。
君子の道、焉んぞ誣うべけん。始め有り卒り有る者は其れ唯だ聖人か。」

                                            子張第十九の十二

 

子夏の学は篤実であるから、先ず卑近な処から手をつける、子游が知らないでこれを謗って曰うよう、
「道には本と末とある、徒(いたずら)に末を勉めて本を忘れては為らぬ。
子夏の門人小子を観ると、酒掃応対進退等をするに当たっては能くこれを習って感ずべき所がある。
しかしこれは末事である。道の大本を尋ねてみると全くできていない。どうして善いと謂われようか。」
子夏がこれを聞いて歎じて曰うには、「ああ、言游の言うことは過ってる。
君子が人を教える道は順序次第がある。本末の何れを先として伝えようとするのでもなく、
又本末の何れを後として教えることを倦むのでもない。
教えを受ける者の程度に高低があるから、これに応じて教える方法も一定しないのである。
例えば草木の大小の種類に因って別けてそれ相当の手当てをする様なものである。
君子が人を教える道はどうして、教えを受ける者の程度を考えず、教える順序を定めないで、
一概に高遠なことを強いて門人小子を誣い昏まして善かろうか。
もし酒掃対応進退の末事から誠意正心の大本に至るまで皆具有して、
順序次第に因って教える必要のない者があるならば、それはただ生知安行の聖人のみである。
どうしてこれを門人小子に責めることができようか。
聖人以下の人物ならその程度に応じて教える道の異なるのは当然である。
故に小子に先ず酒掃対応進退の末事を教えたのである。
子游が謗ったには過ってる。」

 

まだまだ雪の山が目立つ我が家周辺ですが、朝から良い日差しになっています。
こうして外が明るいと、気分もいいし、やる気も出て来るものですよね~ん。Fight(^∇≦)о☆

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