上の写真は2011年6月の大須小学校の校庭の写真です。
今日は、震災直後2~3ケ月後に私が訪れた被災地での体験を伝えさせていただきたいと思います。
今から思うと、当時はまだ心の整理もできないまま何かをしなければ...、と思いながら毎日過ごしていたように思います。
そんな無我夢中な気持ち中での体験でしたが、4年半以上経った今でも思い出すと、感慨深いものがあります。
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「あの時のこと」 (伝えておきたいこと)
私は、2011年6~7月に石巻の大須小学校へ支援に行っていました。
「大須」という地名、石巻で育った私は何度か耳にしたことはありましたがどこにあるのかは知らずにいました。
今回初めてその地に赴くことになり知ることとなりました。位地は 牡鹿半島の東部雄勝町からさらに北東の半島の先端にあります。
東日本大震災の震源地に日本で最も近い所です。
下見のため、初めに大須に向かい、山道のカーブを過ぎるとぱっと現れたのは、鉄筋コンクリートの立派で新しい大きな建物でちょっと驚きました。
校舎の脇のグランドのよう広い空地で小学校高学年~中学生のころの男子達がボール遊びに興じている姿が遠目に目に入り、日常性を感じたことを覚えています。(こんな大災害を経ても、元気な子どもの姿が見られるのは救いです。)
大須小学校は十分過ぎるくらいの広い敷地に(2011年当時から見て10年程前に)建て替えられたものだそうです。
立派な鉄筋コンクリート造りで教室やホール等の数や広さも十分で、当時はそんな大きな校舎を建てる意味があるのかという声も聞かれたそうですが、それが、よもや10年後にこの周辺地域の人々の命綱になるとは、誰も予想もしなかったことでしょう。
震災当日、壊滅的な被害を受けた雄勝等周辺地域の人々は、海岸沿いの山道を夜を徹して歩いて避難してきたのだということです。(私が車で30分くらいかかる距離なのに、濡れた身体と何が起きているのかもよく分からないショックを抱えて一歩一歩歩く人達の思いはどんなものだったでしょう?)
大須小学校には校舎だけでなく立派な体育館もありました。そして、市街地まで遠い、辺境の地だったため大須の家庭には食糧もたっぷり備蓄されており、避難された方々の食糧には不自由しなかったとのことです。
その体育館から学校に通ってきている小学生もいました。その子たちは担任の先生の配慮の下に指導を受けることができていました。でも、先生は..というと震災直後には自分の家族の安否もわからず連絡も取れないまま学校で教育活動や避難生活のお世話をしていたとのことです。
校長先生は、家族にはおそらく助からなかっただろうと思われていて、何日後かに初めて連絡がついた時の家族の第一声は
「お父さん、生きてた!!」だったそうです。
当時は仙台でもそうでしたが電話は通じず、まして被害の大きい地域に住んでいる家族のことは生死が全く分からず、わが子をさがしに直接仙台から出向いた同僚もいました。
私が赴任したのは6月下旬でした。
玄関に向かうと玄関前のテラスに大きなゴムプールのようなものが置かれ、自衛隊の方々が給水活動をしていました。迷彩色の制服の自衛隊の活動をこんなに真近で見たのは初めてのことでした。驚きと同時にてきぱきとした活動ぶりに
「すごい力だ!」
「ありがたいことだ!!」
と実感しました。
校舎の上の階から下の校庭を見ると、自衛隊の車がずらりと並んでいて、その中にはお風呂のあるものもあるようでした。
体育館の中にはたくさんの方々がフロアいっぱいにいました。ちょうどどなたか歌手の方が慰問(?)に来ているようで、ステージの方で歌っていました。
トイレが汚れているのではないかと思い、行ってみると大変きれいでした。みなさんが自分たちで掃除しているとのことでした。
ここで、漁村に暮らす女性の心意気と逞しさを見たような気がしました。浜の女性は強いのですね。
そんな避難所の支援の仕事でしたが、その間にそれまでには目にしたことのない人々の姿を本当にたくさん見ることができました。
大須小学校に在校している児童は20名足らずだったと思いますが、中には避難してきた児童も何名かおりました。家が流された子、身内を失ってしまった子等々…。
ショックで落ち着きのなくなっている児童に優しくたしなめる担任の先生。
体育館から通っているおしゃれが大好きでおしゃまな元気な低学年の児童…。いつも活発で自衛隊のおにいさんやお姉さんにかわいがられ遊んでもらっていました。
そして、ボランティアで訪れる方々の数の多さには本当に驚きました。
グループのボランティア団体は、一定程度の期間滞在しては帰りのバスには新たなボランティアのグループが乗ってきて入れ替わるというようでした。
また、飲食店関係のボランティアの団体も日本各地から日をおかず訪れていました。(九州からも来てくれていました。)
そして、毎日のように違ったボランティアの団体の方々が炊き出しをしてくれるのです。昨日はかつ丼、今日はイタリアン、…という風に子どもたちの給食の時間に提供してくれるのです。給食はまだ簡易給食だったので、給食の他にいただくお料理を子どもたちがおいしそうに食べる姿を見ている炊き出しの方々は、それは嬉しそうに満足そうな優しい表情で眺めているのが印象的でした。
ボランティア団体が学校を去る時、児童が挨拶の他にお礼の意味を込めて歌を歌うのですが、その歌は沖縄出身の「ビギン」の歌「島人の宝(しまんちゅぬたから)」の替え歌でした。子どもたちがあるイベントのために自分たちで替え歌にしたものだそうです。
歌詞は大体次のようなものです。(記憶をたよりにしているので少しちがっていたらごめんなさい。)
「 僕が生まれた この大須の空を 僕はどれくらい知ってるんだろう
輝く星も 流れる雲も 名前を聞いても分からない
でも 誰よりも 誰よりも 知っている
悲しい時も 嬉しい時も 何度も見上げていたこの空を
教科書に書いてあることだけじゃ分からない
大切なものが きっとここにあるはずさ
それが 大須の宝
あるボランティアの若い女性の方は、挨拶で「みんながとても明るくて元気で、でボランティアに来た自分たちの方がみなさんからたくさんの元気をもらいました。ありがとうございます。また、きっと大須に来ます。」と何度も何度も涙ぐみながら別れを惜しむ等の姿もありました。
なんだか、普段は心の中に眠っているお互いを慈しみ助け合う気持ちが溢れた瞬間でした。
また、それとは別に私が感謝したのは福井県から来てくださったスクールカウンセラーの方々です。
彼らは、福井県が毎週一人ずつ派遣してくれたのです。被災地の学校を1校ずつ順に巡回し、子供たちの心のケアに心を砕いてくださったのです。自分たちの地域に少し負担を多くしても宮城県に派遣してくれたようでした。
あるカウウンセラーの方は、
「福井県には日本で1番たくさん原発があるんですよ。」
と言っていました。
また、大須小学校のこどもたちの様子について
「ここのこどもたちの繋がりはとても良いですね。誰かが困っていると、すぐ近くの子が声をかけ手を貸すことがとても自然にできています。」
と語っていました。
ここの土地ならでの人間関係なのでしょうか?
そういえば、他の浜の被災地などでもこのような言葉が聞かれたように思います。子どもたちの気持ちが純粋なのかもしれません。喜怒哀楽がはっきりしていて素朴で子どもらしいのかもしれません。
確かに子どもたちは、何かにつけて誘い合い一緒に笑っています。まれに自分の子をいじめている等という保護者からのクレームもあるようですが、一緒に過ごしていればそういうことが起きるのは子どもの世界では自然なことですよね。すぐに耳に入ってくるのは、むしろ解決の近道では…と思ったりします。
自衛隊の方々も一定期間滞在しては交代するようでしたが、時には自衛隊の方々による演奏会も催されました。
女性の方もいて、ピカピカ輝く金管楽器等を持つ姿は優雅で、普段の自衛隊のイメージとは違っています。張りのある澄んだ音色や様々な楽器を使った演奏を、取り囲むようにして聴くのですから、迫力満点です。一曲終わるごとに思わずみんなで大きな拍手を送ります。すると、演奏している方たちも思いがけないように驚いて涙ぐむようにして喜んでいました。
まさか自分たちの演奏にこんなにも喜んで感謝されることを想像もしていなかったのではないでしょうか?
ますます自衛隊を身近に感じられた瞬間でした。
相撲の佐渡ケ嶽部屋の力士の方々も訪れてくださいました。
琴奨菊や琴欧州も来ました。
相撲と言えば「チャンコ鍋」。村の集会所のような所に集まりずらりと並べられたテーブルにつき待っていると、外を駆けながら準備をしている髷の小さい力士(の卵?)が見えました。一生懸命走りながら準備している様子から身に軽さにびっくりしました。
食後に全員で記念写真を撮りましたが、その後の挨拶で佐渡ケ嶽親方も本当にうれしそうに激励してくれました。
琴欧州と握手しながら写真を撮ってもらった私も嬉しかったですが、それとは比べにならない程の影響を子どもたちは受けたことと思います。
現在も石巻や他の被災地にアスリートが訪れ、子どもたちに指導をしてくれたり一緒に活動してくれたりするイベントが度々行われています。
大変な被害に見舞われた子どもたち…。でも、そんな中で日本だけでなく世界からも応援の手が差し伸べられています。
憧れの選手と直に触れ合った体験は、成長するにつれてきっとさらに大きな力となって彼らを導くことがあるかもしれません。
支倉常長の偉業にちなんで石巻の高校生がスペインを訪れるという交流も行われています。
今年初めに仙台で開催された「世界防災会議」では、被災地の高校生が参加する企画もありました。
被災地の子どもたちが作っていくこれからの未来に、何か震災前とは違った期待や希望を抱くのは私だけでしょうか?
私達ができること…、それは人によって違います。
最近選手生活にピリオドを打った楽天イーグルスの斉藤投手。彼はテレビでこう語っていました。
「本当は大リーグで選手生活を終わりたかった。しかし、故郷が被災しているのにペットボトルの水1本も送ってやれない自分の無力を感じた。
自分の力の充実している良いプレーを故郷の人に見せることは、もちろん力になると思うが、ボロボロになった自分が頑張ってプレーすることも意味があるのではないかと考え楽天への移籍を決意した。」
と。
それがあの楽天イーグルス初めての日本一のけん引力の一つとなったことは、もちろん斉藤選手の非凡さを示しているとは思いますが、でもその心意気は学べるものだと思います。
話は変わりますが、先日「白梅(旧県立石巻女子高)同期会」の幹事さんから嬉しいお知らせをいただきました。
11月29日(月)に「白梅44年卒業生」の同期会が行われるそうです。
本当は、2011年開催の予定が、東日本大震災のために流れてしまっていた同期会だそうです。そういうわけで、震災後初めての同期会です。
○十年ぶりの懐かしい顔、そして積もる話..等考えただけで密度の濃さが想像できます。
もしかして、住所変更等のため、招待状が届かなかったら「宮城県立好文館高等学校(県立石巻女子高の現在の校名です。男女共学になっています。)」に問い合わせをしていただき、懐かしいお顔を見せていただければと思います。よろしくお願いします。
ちなみに、お電話のお声を聴いただけではありますが、幹事さんはあの乙女時代よりさらに(?)パワーアップしている印象を受けました。(明るく元気という意味。)
話がそれましたが、私の大須小学校支援の体験の一部を紹介いたしました。
被災地なのに…、いや被災地だからこそ束の間であっても助け合う喜びをこんなに強く感じることができた!
そう思わずにはいられなかった「あの時」でした。
あの悲惨な体験から立ち直ろうとする過程の中に被災地と他の地域の方々との間に、そんな時があったことを、皆さんに是非知っていただきたくて記させていただきました。
その時起こったハプニング等については、またの機会のお知らせできればと思います。
あっ それからもうひとつ!小耳にはさんだニュースを1つ。
門中出身者に関係することなのですが、今度「門中同期会関東支部」を立ち上げる計画を進めているとのことです。近々そのための総会を開くそうです。
湊中も現在進行形だとか…。
住中・石中は震災前からできていたようです。
繋がることにより、より力強く、被災地をバックアップできると良いです。
土台だけを残して流された雄勝の海沿いの家の跡 破壊された防波堤の道路の端に並べられた土嚢
自衛隊の方とのお別れ会 琴欧州関と
学校の下の風景 きれいな海です 山道からの風景
早いものです。
いろいろあっても時は過ぎていくものです。
強く生きていくよりほかないですね。
そうやって生きているふるさとの友、
また会いましょう!!
3時頃仙台を出発してマイカーで松島のまだ行ったことのないホテルへいかに順調に行けるかと考えているところです
遅れたらごめんなさい。
それから、眠くて頭がぼけていたらごめんなさい
でも、宿泊するから朝もあります。
よろしくお願いします