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続・知青の丘

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三浦春馬と熊本川尻の和菓子店「天明堂」と

2020-10-08 12:58:52 | ちょッと言わせて
三浦春馬に関して、
知人からこのようなメールが届きました。
(許可を得てUPしています)

"わたしは私的に天明堂さんに出入りしています。
本店の川尻天明堂と白藤天明堂があります。
5年ほどまえに三浦春馬さんが
取材にいらしたことも知っています。
会ってはいませんが、周辺では話題になりました。
この春『日本製』という本が出たことも。
お菓子処 北川天明堂 Facebook 5/17
で、天明堂の酒かすてらをYouTubeで
CMする動く春馬さんを見る事ができます。
べつに天明堂さんが依頼したのではないそうです。"

全く知らなかったことで、
調べてみると、熊本日日新聞によれば
三浦春馬は、
“月刊誌「プラスアクト」(ワニブックス)で、
全国47都道府県の文化や伝統技術などを紹介する連載を担当。
熊本は北川さんが選ばれた。”
ということで、2015年9月に
熊本市南区川尻の和菓子店「天明堂」を取材訪問していたようです。

「決して自慢話をせず、地域や人を思うピュアな青年だった」と、
同店和菓子職人の北川和喜さん(69)。

今年2020年4月5日の三浦春馬の30歳の誕生日に合わせて
約4年間の連載をまとめた『日本製』が刊行されたということです。

天明堂の「酒かすてら」のCMがYouTubeで観られるならばと
普通にWEB検索したのですが
(念のためにedgeのほうで)ダメでした。
Facebookでないとムリのようです。

三浦春馬の心根というか、こころざしというか
大変有難い稀有なことですね。
ますます、こころが痛くなります~

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
この知人は、月1回、
この和菓子の川尻本店の喫茶コーナーで
川柳句会をされているようです。

ちなみに
私は、生クリームの洋菓子は苦手なほうで
生和菓子大好きです!!

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
話変わって
あの「元院長」は、今日の初公判で起訴内容を否認し、
無罪を主張したようです。
マスコミはなぜいつまでも「元院長」を使用するのでしょうか。
「飯塚幸三被告」で統一していただきたいものです。

事故時、被告の運転技術の異常ではなく
被告が運転していた車の方が異常だったという証明は
被告がしなければならないのじゃないのかなあ~

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「おカネの切れ目が恋のはじまり」の最終回観ました。

2020-10-07 05:51:24 | つれづれ
「おカネの切れ目が恋のはじまり」の最終回観ました。

三浦春馬のおとむらいのような最終回だった。
出演者の方がたも悲しみをこらえて、
それでも役を演じておられて
観ているこちらまで、
涙が込み上げてきそうで・・・

でも、そういう時でも演じられる役者さん方の
プロ根性には敬服。
全体的に沈んでいたけれど・・・
脚本家のかたも
この最終回に向けての書き直しがあったとおもうけれど
うまい具合に、
このドラマのファンも納得するように収束させてくれたな
と思った。

若い男優さんが泣くシーンがあったけれど
あれは、脚本にはなくて
こらえきれずに思わず
泣き出してしまったのかと思った。

作品はいつまでも残るけれど
わが息子を見守るように
三浦春馬という役者もずっと見守っていきたかったなあ~

ちょっとしばらくはつらいなあ~

おとむらいは温かい<知青の格言③>

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「文学とは〈闘い〉であり、〈抗い〉である。」(加藤知子)

2020-10-06 08:59:50 | 俳句
文学とは〈闘い〉であり、〈抗い〉である。
と「We」7号の石牟礼道子論の中で
私は書いています。

私は、今回の件について
現代俳句協会を通じて高野公一氏に
まずは御氏の眼に留まり評を頂いたことにお礼を述べて
(もうひとりの、選評を頂いた高橋修宏氏にもお礼を述べたい)
「後塵を拝した」という具体的な根拠をご教示頂きたいと
質問状?(要望書)を送りたいなと思っています。
今後の勉強の糧にさせていただきたい。

いわゆる「結社」からは退会し所属していなくて、
後ろ盾もいない私です。
誰に気兼ねすることなく、自由に動けます。

しかし、私の胃はチクチクしています
ひとりの闘いはチクチクします。

それでも、
自分の姿勢はなかなか曲げられません。
65になって穏やかな余生を送れるかと思いきや、
そうもいかないところが人生の妙味かもしれません。
まさかの坂ってヤツでしょうか。

私の、俳句界に対する印象は、
男たちによる俳壇政治的世界だということ。
中には女でもマウント獲っておられる方はいますが。
女には作品中心に活動している方が多いように感じます。

そういう中で
無名の女の
(この前、自分の第1句集が我が家には1冊しかないので、
アマゾン古書に出てれば買おうかなと思って検索かけたら、
なんとこの無名の者の句集に1万円の値を
付けて出してくれていました。
誰も買わないと思いますが、
200部限定上製本ですもんね)

身の程を知らない闘いは、
躰に障りますかね。

心とは誤差かと秋の川ゆく  竹本仰

俳友の竹本仰の近作です。
誤差とは、ウィキペディアによれば、
真の値と測定値または近似値との差 とある。
何らかの特定の意味を持つ対象について、
実際に得られた値が、本来の値からどれだけずれているかを表わす量であるとも。

「秋の川」は納得できる。
春のうわつき感はなくて、冷静さがあろうから。
そして、ひとり考えながら川べりを歩くてゆくのである。
方円の器に従う水になれたらいいな
(否、なりたくないな)と思いながら。

人のこころのなんと厄介なことだろう。

自分の理想としたい生き方を選びたいという心と
現実的な対応を迫られる心と。
人の心は常にそういう状態にあるといえましょう。

誤差は量とあるから、心は容れ物
心が重くなるという一般的な表現もこれまた納得できる。

いま、期限のある大事な仕事を抱えています。
熊本県現代俳句協会設立30周年記念合同句集の編集と
拙句集の印刷に入る前の最終段階の時期にあります。

近いうちにケリがつくので
質問状はその後になるかと思っています。

文学とはチクチク刺さるものである <知青の格言②>



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今日の株価は

2020-10-05 22:25:27 | つれづれ
おかげさまで、昨日今日と
このブログへのアクセス数が一気に増えて
今日の株価のよう。

トランプが一時外出して
まだまだ俺は大丈夫だよなんてアピールしてみせ
好感したのか今日は大幅反発しましたねえ~
だけど、トランプはどこかのお医者様から怒られた。

私は、
先月の権利確定日の月曜日にリセットするべきものはそうして
現金ができたので
その翌々日の水曜日にどこ買おうかな
なんて漁っていて
実は、落ちるナイフに手を出してしまっていましたね。
というか、指値していたら思いのほか下落してしまって
買えちゃっていたというのが事実。
指値甘かった。)
買ったのが一日早かったんです。
終末に買っていたらねえ~
トランプの体調なんて知らないもんね。

ですが今日、
赤字を抱えていた銘柄が値を戻したので
2銘柄売りました。
一つは買った値段で売り、
もう一つは1250円の+でした。
ああ、貧乏人ですね~。
売買手数料のかからない範囲を計算して
やっているんですから。

トランプとその仲間たちは
トランプが大統領になってからというもの
大儲けしているんだろうなあ~

最近よく思うことは
上がった時は即売ること。
1単位残してどうなるか見ておこうとホールドしていると
もうけ損なって赤字転落。
12000円の含み利益が出ている、わーい
と眺めていたら
4000円の含み損に・・・・

待てば海路の日和あり
このくらいなら待ちましょう。

この気分転換により
一昨日からのマイナーな気分は引きづっていましたが
少しはサッパリしました。

憤りと絶望は創造の母である<知青の格言①>

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現代俳句カレンダー2021~論文を書こうとする時

2020-10-04 21:20:40 | 俳句

(現代俳句カレンダー2021)
わたくしの句は2月にあります。


「ある方からの10月3日の拙ブログに対してのコメントを読んで」

ある人が論文を書こうとするとき
最初に考えることは
アプローチのしかた、つまり切り口とその構成(項目)。
そこに独自性を見つけることが
最も大事なこと
だと考えます。

それが決まればしめたもので
あとはそれに従って
見合った資料を探し
(時間をかけて収集している資料の中から)
書く内容の精査とどこまで書くかの
肉付けをしていくだけかと思います。

文章の優劣や
書いた人の文体への好き嫌いはありましょう。
大変洗練された文章を書く方もおられましょう。

俳句作品の読みなど、
判決で黒を白にするくらい
どのようにでもなるんです。
ただ文章が上手い人が書くと
佳句・名句となることは往々にしてありましょう。

高野公一氏があのように述べたということは
構成のしかたと
取り上げた資料(具体的な短歌、短編小説)など
アイデアに被っていた点があったということ。

俳句の作家論として読んだ時
武良氏のは感想文だ評伝だという人あり
俳句作品の中に入らないで「上官が望遠鏡で遠くから眺めた」
ようなものと言う人あり
総論だけで各論がないと言う人あり

「武良氏が18歳まで水俣に居たという事実には敵わないよ」
と言われるならば
私達は、先人たちの評論など書いても
同時代の人の評論には勝てない
と言っていることと同じです。

もし、その方法論において参考にしたとするならば
先行論文を参考文献に挙げなければなりません。

どう考えても
私の評論に向けられた、
「後塵を拝した」ということばは
おっしゃるほど「下水に流せ」るほど
不要のものでもなく
軽く流せるものでもありません。


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