続・知青の丘

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第76回現代俳句協会賞は

2021-06-30 19:52:46 | 俳句
きょう帰熊したら
受賞該当者なし
ということで、
候補者の一人であった私にも
通知が来ていました。

拙句集『たかざれき』が
どのあたりまで上がったかは不明ですが
推薦してくださいました方に
御礼を申し述べるとともに
ご報告させていただきます。

選考委員の方々は
(敬称略)恩田侑布子、塩野谷仁、高岡修、
     照井翠、前川弘明、渡辺誠一郎

しかし、私は聞きたい。
現代俳句協会会員の昨年度の句集には
賞に値する句集は一つもなかったのですか??
他所の協会に勝るとも劣らない、魅力的な句集は
一つもなかったのですか???

ほんとに、そうだとしたら
現代俳句協会は終わってませんか?
協会としてはそれでいいのですか?
私はこの協会のやることが分かりません。

柳本々々さんが
現代俳句協会機関紙『現代俳句』7月号に
『たかざれき』について
とても面白い書評を書いてくださいました。
私の句集は読まなくても((笑))
このもともとさんの書評はよんでくださいね。
「からだのやったこと」というタイトルで書いてあります。

また、
『連衆』90号(編集発行人:谷口慎也)では
高鸞石さんが
「加藤知子は何を書いてきたか」で書評を書いて下さっています。
こちらのは、これまでの3冊の拙句集を俯瞰して書いてあります。

おふた方にも感謝しております。



コメント

尺取り虫は大きくなったら何になる?

2021-06-17 20:31:42 | つれづれ
いや~知りませんでした。
というか、そんなこと今まではどうでもよかったのに

昨日の夕方、玄関先で出くわしまして
気になって調べたら
シャクガという蛾になるらしいんですね~。
そして、種類も豊富だそうです。
よく見ると
あまり気持ちのいいものでもないですが
ゆらゆらしているなあとチラ見した後
画像確認している間に
そそくさといなくなってしまいました。

さてわたくし、
昨夜電話きて、急遽
また次男のとこのサポートに
19日(土)から30日まで
上京することになりました。

息子は仕事が無茶苦茶忙しく、
嫁さんはムリして動いたようで腰痛になったようです。
産後のキツさや子育ての大変さはわかるので
頼まれれば、お役に立てる間は参りましょうぞ。
赤ん坊も2か月目に入りました。

PCは持っていき、
We12号作品の受け入れや編集の仕事はしますので
よろしくお願いします。

ブログUPのほうはどうなるかわかりません。




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『俳句鼎 妙』2021.5発行、 通巻54号

2021-06-15 12:10:13 | 俳句
(編集発行人:小田桐妙女)

この号は、
お題が「三月」、「傷」各1句ずつに
       雑詠3句の一人5句投句

勝手に選をさせていただき
御礼に代えたいと思います。
掲載順に

マスクして目にまだ眩し福寿草  銀河徹朗
あかときの踏切くぐり番ひあふ  小田桐妙女
春ぐれや俳句しのぎに傷ふえて  泉屋健一
傷観せを終えりゃ威儀師に花海棠 大木夕方
三月の骨よ我らは野の鼓     鴨三居
三月の受精かたくな火の時計   斎藤秀雄
涙温し心的外傷の春       千一尋
瓶の底違う世界の星月よ     水輝将女

いつもありがとうございます。
 
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鞠智城歴史公園へ(6月6日)

2021-06-09 09:20:06 | 古墳・菊文研
久しぶりに鞠智城址に行った。


八角鼓楼(手前)と米など保管する倉庫
(どちらも復元)
          
温故創生之碑に刻まれている防人の歌3首は次の通り
父母が頭かき撫で幸く在れていひし言葉ぜ忘れかねつる
わが妻も畫にかきとらむ暇もが旅行く吾は見つつしのはむ
防人に行くは誰が夫と問ふ人を見るが羨しさ物思もせず

『We』4号で「鞠智城と防人の歌」と題して
木﨑康弘さんが寄稿してくれていた文章を挿入しておきます。
(木﨑さんに了解得ています)

『We』第4号より
「鞠智城と防人の歌」 考古学者 木﨑 康弘

温故創生之碑   (木﨑さん撮影)

 鞠智城跡(七世紀後半築城の古代山城)には、『万葉集』の防人の歌、三首を刻した「温故創生之碑」が建っています。国指定の史跡には似つかわしくない、相応しくないなどと、議論の多いモニュメントなのですが、意外と憎めないものでもあります。
 江戸中期に勃興した学問、国学の興隆に伴い、当時の国学者たちは、『古事記』『日本書紀』『万葉集』等の古典研究に励んでいました。その風潮は、当然のことながら肥後でも渦巻き、鞠智城にも議論が及んだことは至極当然のことでした。なぜなら『続日本紀』などに鞠智城のことが記されていたからです。
 さて、江戸期から始まった鞠智城顕彰の動きでしたが、つい最近までの話題といえば、何処にあったのか、どんな役割だったのか、そんなところでした。要するに、実証主義な学問の世界には、鞠智城に防人がいたのではないかなど、何も記されないことへの疎外感は確かにあったのでしょう。別に隠し立てはいたしませんが、考古学者たる、私だってそうだったのです。
  そうした中、防人のイメージを鞠智城にオーバーラップさせた人物が現れました。山鹿市菊鹿町、鞠智城跡の地元にお住まいだった、故古閑三博さんです。古閑さんは、古代の世界と人々を愛した、感受性豊かな眼差しで、鞠智城跡に光を当てました。そして、詩情を豊かにして、防人の存在をイメージしたのでした。そんな中から選んだのが、次の三首。
父母が 頭掻き撫で 幸くあれて 言ひし言葉ぜ 忘れかねつる
                  (巻二〇-四三四六)
我が妻も 絵に描き取らむ 暇もが 旅行く我れは 見つつ偲はむ
                  (巻二〇-四三二七)
防人に 行くは誰が背と 問ふ人を 見るが羨しさ 物思ひもせず*
                  (巻二〇-四四二五)
 鞠智城に防人がいたのかどうか、そんなことは問題ではありません。重要なのは、古代のある一時期、ヤマト王権が倭(ヤマト、現在の日本国)存亡の危機を憂い、東国から数多くの民衆を防人としてかり出し、西海道(現・九州)の防衛に当たらせたことでした。そして、そんな背景の中、その場面には、数年の別離を悲しむ家族の姿があり、遠く異郷の地から望郷の想いを抱いた防人たちがいたことでした。
 白村江の戦いでの敗戦に伴い生じた様々な動き。その中に悲哀深き人々の涙があったことは、紛れも無い歴史的事実です。そのことを防人の歌は、教えてくれています。爽やかな風に吹かれる鞠智城跡で、そんな歴史も感じてもらえれば幸いです。

【きざき・やすひろ】1956年熊本県球磨郡錦町生まれ。
先土器時代・縄文時代の研究者(史学博士)。
1980年に駿台史学会賞、2009年に岩宿文化賞を受賞。

*さきもりに ゆくはたがせと とふひとを みるがともしさ ものもひもせず


実は、
菊池への用事のついでに
桐の花(たしかあの木)が咲いていないかなと
見にいったのだけど
もう終わっていて遅かったみたいです~

コメント

タテハチョウの交尾かな(20210608)

2021-06-08 11:50:58 | ありがとう
11時半頃、
我が家の狭庭に出たら
なんと、
山茶花の葉のところでタテハチョウが交尾していたのに
出くわした~
こりゃ~いいものを見せてもらったと
急いでカメラを取りに家の中へ







10分くらいの出来事で
先に左(オスじゃないかな)のほうからその場を離れ
ちょっとしてから右(メス?)のほうもその場を立ち去った。


***decollo07空見日和さんから教えていただきました。
この蝶は<ツマグロヒョウモン>
というのだそうです。
そして、メスは、
この写真で言えば左下のほうだそうです。
全く逆に思っていました。😓


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