久しぶりに鞠智城址に行った。
八角鼓楼(手前)と米など保管する倉庫
(どちらも復元)
温故創生之碑に刻まれている防人の歌3首は次の通り
父母が頭かき撫で幸く在れていひし言葉ぜ忘れかねつる
わが妻も畫にかきとらむ暇もが旅行く吾は見つつしのはむ
防人に行くは誰が夫と問ふ人を見るが羨しさ物思もせず
『We』4号で「鞠智城と防人の歌」と題して
木﨑康弘さんが寄稿してくれていた文章を挿入しておきます。
(木﨑さんに了解得ています)
『We』第4号より
「鞠智城と防人の歌」 考古学者 木﨑 康弘
温故創生之碑 (木﨑さん撮影)
鞠智城跡(七世紀後半築城の古代山城)には、『万葉集』の防人の歌、三首を刻した「温故創生之碑」が建っています。国指定の史跡には似つかわしくない、相応しくないなどと、議論の多いモニュメントなのですが、意外と憎めないものでもあります。
江戸中期に勃興した学問、国学の興隆に伴い、当時の国学者たちは、『古事記』『日本書紀』『万葉集』等の古典研究に励んでいました。その風潮は、当然のことながら肥後でも渦巻き、鞠智城にも議論が及んだことは至極当然のことでした。なぜなら『続日本紀』などに鞠智城のことが記されていたからです。
さて、江戸期から始まった鞠智城顕彰の動きでしたが、つい最近までの話題といえば、何処にあったのか、どんな役割だったのか、そんなところでした。要するに、実証主義な学問の世界には、鞠智城に防人がいたのではないかなど、何も記されないことへの疎外感は確かにあったのでしょう。別に隠し立てはいたしませんが、考古学者たる、私だってそうだったのです。
そうした中、防人のイメージを鞠智城にオーバーラップさせた人物が現れました。山鹿市菊鹿町、鞠智城跡の地元にお住まいだった、故古閑三博さんです。古閑さんは、古代の世界と人々を愛した、感受性豊かな眼差しで、鞠智城跡に光を当てました。そして、詩情を豊かにして、防人の存在をイメージしたのでした。そんな中から選んだのが、次の三首。
父母が 頭掻き撫で 幸くあれて 言ひし言葉ぜ 忘れかねつる
(巻二〇-四三四六)
我が妻も 絵に描き取らむ 暇もが 旅行く我れは 見つつ偲はむ
(巻二〇-四三二七)
防人に 行くは誰が背と 問ふ人を 見るが羨しさ 物思ひもせず*
(巻二〇-四四二五)
鞠智城に防人がいたのかどうか、そんなことは問題ではありません。重要なのは、古代のある一時期、ヤマト王権が倭(ヤマト、現在の日本国)存亡の危機を憂い、東国から数多くの民衆を防人としてかり出し、西海道(現・九州)の防衛に当たらせたことでした。そして、そんな背景の中、その場面には、数年の別離を悲しむ家族の姿があり、遠く異郷の地から望郷の想いを抱いた防人たちがいたことでした。
白村江の戦いでの敗戦に伴い生じた様々な動き。その中に悲哀深き人々の涙があったことは、紛れも無い歴史的事実です。そのことを防人の歌は、教えてくれています。爽やかな風に吹かれる鞠智城跡で、そんな歴史も感じてもらえれば幸いです。
【きざき・やすひろ】1956年熊本県球磨郡錦町生まれ。
先土器時代・縄文時代の研究者(史学博士)。
1980年に駿台史学会賞、2009年に岩宿文化賞を受賞。
*さきもりに ゆくはたがせと とふひとを みるがともしさ ものもひもせず
実は、
菊池への用事のついでに
桐の花(たしかあの木)が咲いていないかなと
見にいったのだけど
もう終わっていて遅かったみたいです~