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続・知青の丘

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

We20号初校届きました。目次再掲

2025-08-01 23:49:21 | 俳句

表紙絵は、可能ならば
あと少し大きくしてもらおうと思います。
少しページ順に変更がありました~

<We 第 20号目 次>
招待作家俳句作品「化身」 ・・・・・・・・・・・・・瀬戸優理子  2
巻頭エッセイ「壁のはなし」 ・・・・・・・・・・・・・・ 加能雅臣 4
特別作品 ・・・・・・・・・・・・・・・ 柏原喜久恵  小田桐妙女  8
俳句・川柳作品 (初参加)・・・・・・・・・・・・・・・丘 菜月  10
 内野多恵子 江良 修 男波弘志 加能雅臣 貴田雄介  
 斎藤秀雄 竹本 仰 田中目八 林よしこ 早舩煙雨 阪野基道 
 松永みよこ 籾田ゆうこ 森さかえ しまもと莱浮 加藤知子
台湾俳句川柳事情 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・早舩煙雨 20
前号俳句 田中泥炭選 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 25 
前号俳句ふたり合評  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 26
  小田桐妙女 男波弘志 加能雅臣 貴田雄介 斎藤秀雄 しまもと莱浮 
 田中目八 林よしこ 早舩煙雨 阪野基道 松永みよこ 籾田ゆうこ
表紙エッセイ「ピアノとマリンバのための新撰犬筑波集」斎藤秀雄  31
竹本仰の前号俳句鑑賞 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  32  しまもと莱浮句集『のんびりあん』特集Ⅰ  いわさき楊子 楡原 級   38 
短詩グラマトロジー 第十四回:「 声喩 」 ・・・・・・  斎藤秀雄 44
俳句エッセイ「自炊雑感」 ・・・・・・・・・・・・・・  男波弘志 46
短歌作品(ナ行~)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・   48永田義彦 西田和平 服部 崇 阪野基道 芳樹景子 織江 市 
  加藤朱美 加藤知子 北辻󠄀一展 斎藤秀雄 弟子丸直美    
前号短歌評 ・・・・・・・・・・・・服部 崇 北辻一展 斎藤秀雄 54
短歌英訳の試み ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 芳樹景子 57
しまもと莱浮句集『のんびりあん』特集Ⅱまつりぺきん 斎藤秀雄 58
土偶のはなし(4)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  植昌  64
共鳴句探訪 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  加藤知子 66
古・難・珍季語集(14) ・・・・・・・・竹本 仰小田桐妙女  68
ありがとぼいす ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  69 
We俳句賞の告知 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・     74
原稿募集・略規・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   76
編集後紀 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  77
表紙絵:斎藤秀雄「ピアノとマリンバのための新撰犬筑波集」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
確認のために初校(紙媒体で届いた)を皆さんに
PDFファイルで送りました。
殆どの方から返信があり
8月4日に初校戻しをします。
8月25日までには納品予定。

*購入されたい方は
なるべく一緒に発送したいので
申し込みは25日までにお願いします。
一冊送料込みで、1100円です。


狭庭の菜園にトンボが2匹止まりました。
何回か1匹で止まっていたことがありますが
その日は初めて番?で~

きょうは、久しぶりに夕立が来ました。
既に、オクラと小葱に水遣りは済んでいましたが
うれしい雨でした。
大粒の雨が10分ほど・・・
ああ~
もっと雨ほしい。

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「俳句短歌 We」 第 20号目 次

2025-07-17 21:27:03 | 俳句
We 第 20号目 次
招待作家俳句作品「化身」 ・・・・・・・・・・・瀬戸優理子  2
巻頭エッセイ「壁のはなし」 ・・・・・・・・・・・ 加能雅臣 4
特別作品 ・・・・・・・・・・・ 柏原喜久恵  小田桐妙女  8
俳句・川柳作品 (初参加)・・・・・・・・・・・・丘 菜月  10
    内野多恵子 江良 修 小田桐妙女 男波弘志 加能雅臣貴田雄介  
 斎藤秀雄 竹本 仰 田中目八 林よしこ 早舩煙雨 阪野基道 
 松永みよこ 籾田ゆうこ 森さかえ しまもと莱浮 加藤知子
台湾俳句川柳事情 ・・・・・・・・・・・・・・・早舩煙雨 20
前号俳句 田中泥炭選 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 25 
前号俳句ふたり合評  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 26
  小田桐妙女 男波弘志 加能雅臣 斎藤秀雄 しまもと莱浮 
      田中目八 林よしこ 早舩煙雨 阪野基道 松永みよこ 籾田ゆうこ
表紙エッセイ「ピアノとマリンバのための新撰犬筑波集」斎藤秀雄  31
竹本仰の前号俳句鑑賞 ・・・・・・・・・・・・・・・・・  32  
しまもと莱浮句集『のんびりあん』特集Ⅰ  いわさき楊子 楡原 級   38 
短詩グラマトロジー 第十四回:「 声喩 」 ・・・・・・  斎藤秀雄 44
俳句エッセイ「自炊雑感」 ・・・・・・・・・・・・  男波弘志 46
短歌作品(ナ行~)・・・・・・・・・・・・・・・ ・   48
       永田義彦 西田和平 服部 崇 阪野基道 芳樹景子 織江 市 
  加藤朱美 加藤知子 北辻󠄀一展 斎藤秀雄 弟子丸直美    
前号短歌評 ・・・・・・・・・・・・服部 崇 北辻一展 斎藤秀雄 54
短歌英訳の試み ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 芳樹景子 57
しまもと莱浮句集『のんびりあん』特集Ⅱまつりぺきん 斎藤秀雄 58
土偶のはなし(4)・・・・・・・・・・・・・・・・・・  植昌  64
共鳴句探訪 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・  加藤知子 66
We俳句賞の告知 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・     68
古・難・珍季語集(14) ・・・・・・・・竹本 仰 小田桐妙女 70
ありがとぼいす ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  71 
原稿募集・略規・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   76
編集後紀 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  77
表紙絵:斎藤秀雄「ピアノとマリンバのための新撰犬筑波集」

*7月14日、印刷所に入稿した段階での目次です。
なにか、修正などお気づきがありましたら、
ご連絡をお願いします。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
なんだか、GOOブログにまだ残っている方々が
少な~くなった感じで
昨夜、はてなブログに移転しました。
時間かかるのかと思っていましたが、
けっこう直ぐに完了となりました。
細かいところはまだよくわかりませんが
ボチボチ慣れていこうと思います。

同じ記事をはてなブログにもUPしています。

子カマキリの威嚇かな??
収穫し始めたオクラの葉の上にいました。
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竹本仰の前号俳句鑑賞(We第19号より)

2025-07-14 21:40:54 | 俳句
竹本仰の前号俳句鑑賞

早蕨の未明を抱へ湿地躰            楠本 奇蹄
萬葉集すべての歌に目を通した訳ではないが、志貴皇子の〈石走る垂水の上の早蕨の萌えいづる春になりにけるかも〉が屈指の歌だと信じている。湿地躰という表記からこれは人体の事と思うが、一個の人体の上にも幼少年期、否もっとホモサピエンス以前の、細胞の記憶としての「未明」を感じたのではないか。誰という特定の記憶でもない何かの記憶。安部公房『第四間氷期』に水中棲息化した人間が昔の人類の記憶で涙する、という結末があったが、それに近い感覚ではと思った。

永遠だと思ってふたつになっている     早舩 煙雨
わたしは二人いるという感じは大事ではないか。伝え合える何かが存在すること、それが生命の存続を促しているだろう。よく孤高の作家などという文句があるが、編集者や読者がいなければ成り立たず、孤高というレッテルでつき合うしかない生き方を甘受しているのだろうな。富沢赤黄男の句に〈草二本生えてゐるだけの 時間〉とあった、何となく剥き出し感の強い表現の裏に、何かに縋りつきたい思いを感じる。生を支える要件は永遠に生きられるという感覚だろう。もうこれは本能の世界だ。

視野広き人に譲ってもらう虹       貴田 雄介
ありゃ、ひょっとして虹じゃないかい?そんな見知らぬ人の独り言のような一言に、虹を貰っちゃったという事だろうか。そういえば、あら、月見草、という一言に「富士には、月見草が似合う」という名作「富嶽百景」を生んだ太宰治を思い出す。人にとっては自分以外の人は誰でも視野広き人ではないか。或る時、手にした文庫本や耳にした唄の中に、これってこの人の自分探しじゃないかと痛切に気づいた事がある。視野広き人に出会うことは幸いである。松下竜一の本の中に「にじ通信」というのがあり、見つけた人はご一報くださいと実際にやっていたらしい。虹は対話を生む。感謝。

芭蕉布や袖に入りたる夕の風      籾田 ゆうこ
ああ、気持ち良さそうだなと思った。劇作家の松田正隆さんが或る本のあとがきに、いい舞台には風が吹いている、と書いていた。堀辰雄の『風立ちぬ』の冒頭にも、風立ちぬいざ生きめやも、と何やら訳の分からない擬古文があり、和歌でも「風の音にぞおどろかれぬる」と詠まれたように、ハッと気づかされるものなのだ。そう思って読み直してみると、芭蕉布を揺らす大きめな風と袖に入るくすぐったいような小さい風と、この高低差が楽しく、持って帰れた楽しい風の記憶が盛られているのだ。ビートルズが来日した時、授業をさぼって会場に席を占めた当時の女子中学生は、薬瓶にその時の会場の空気を入れていまだに大切にしているという。あなたも持って帰ったんでしょうね、と思った。

そう言って蒲公英の種旅立ちぬ      林 よしこ
「そう」は何を言ったのだろう、なんて野暮なことは聞かない。ただこの空白のスペースが貴いのだ。旅立つ瞬間はアッという間だ。今、何て言ったの?ねえねえ教えて。あれは決定的瞬間なのだが、誰も解読できなかった。そこに言語は役立たない。中也の「言葉なき歌」を思い出す。「あれはとほいい処にあるのだけれど/おれは此処で待つてゐなくてはならない」、故・谷川俊太郎さんが朗読したのを聞いたことがある。しっかりした、切りそろえたような語尾ではっきり、言葉なき世界を語ろうとしていた。地球の大半は海である。言葉の向こうには海がある。耳を澄まし聞いてみなければならない。

辺境のたましい灼ける咎なき火      阪野 基道
ガザのこと?と捉える方も多いだろう。だが、いつも辺境は熱い。そして火はいったん点くともう広がるしかない。その点、火にはまったく咎がない訳だ。これは恋愛を代表とする人間関係、みんなそうだ。軋轢や衝突によってしかお互いを知ることは出来ない。よく思うのは、平和の間に戦争があるのではなく、その逆だ。戦争の合間の時代を束の間の休憩と見るほかは無い。カフカに「歌姫ヨゼフィーネ、あるいは二十日鼠族」という短編があり、鼠の歌姫についての考察ながら実は民族についての見解らしい。ユダヤ人カフカが自らチュウチュウ鳴きをする鼠族の中に身を置き、慨嘆したのであろう、まだホロコーストもシオニズムもパレスチナ問題も発生しない頃の貴重なスナップ。実は、生命みな辺境ではないかと思い至る。そこに人格とか品位とか国家とか纏っているだけで。

少年に与ふ剃刀夏の朝         松永 みよこ
清水哲男の詩「パン」に「夏休みのはじまった朝/パンを焼く匂いのなかで/ぼくは猛然と/単純な夢の退路に/鋭いナイフで挑戦する」とあったのを思い出す。ナイフと剃刀では違い過ぎる。ナイフなら頑張ってくれだが、剃刀なら「どうするの?」となる。平凡に伸びたばかりの髭をそるか、或いはこっそり自傷するか、封筒に入れ自分の淋しさを届けるか、その点は任せるから、となる。少年というもの自体が絶えず変貌をとげるものであるから、ぬっと与えたその手自体が何なのだろうか。少年が怖いのではなく、逆に少年よと、その存在価値について問いかけているのだと思う。

冷蔵庫いつか悪女と呼ばれたい      森 さかえ
善人だと言われることが苦痛なのだろうと思う。重たい布団を被せられているような嫌な負担がそこにある。そこへいくと、悪女はいい。軽くショールを脱ぎ捨てるように飄々と歩いていける。だがそれもそうではないのかもしれない。悪女のレッテルをたえず刷新していかねばならない。沽券という点ではそちらの方が重い。轟寅次郎がフーテンの流儀を保つためにいかに苦労しているか。山田洋次も善男善女にいかに反発しているか。そして、善人も悪女も、ああ、またやっちゃった、と奮闘努力の甲斐もなく、呟くしかないのだろう。トランプもノーベル賞を貰いたがっている。それに比べれば、あなた。何とかわいい呟きをお持ちなんでしょう。ドンマイ。

ゆきやなぎ私は良い子じゃありません   内野多恵子
誰しも良い子じゃありませんと、答えたくなる。一つひとつ、今までの事を素直に振り返ることができる時ってある。でも、それを誰に伝える?ここではその相手がいないのだ。そういう貴重な瞬間が活写されているように思う。寺山修司の作詞でカルメン・マキが唄った「時には母のない子のように」を思い出す。母のない子のように海を見つめていたい。〽だけど心はすぐ変わる 母のない子になったなら 誰にも愛を語れない…。この句は自分に言い聞かせて、このスペースを大事にしたいのではないか。

時の記念日時を戻せぬ星に生き      江良 修
そう、生まれた時から時は戻せない。自分に与えられた時間を失くしていくこと、それが生きるという事なのかもしれない。時の記念日は、日本に初めて時計を設けた六六一年の四月二十五日からだという。当時は漏刻、水の落ちる時間により時刻を定めた。今は秒針であり、電波であるが、いかにしようとも止まらない。止まらないからこそ大事にというのだが、そうはいかない。縮めたり延ばしたり、ときには止めてみたり…無理を承知で。星に生き、という表現に平和を希求する心を感じた。

星霜の教科書に棲む山椒魚       小田 桐妙女
かつて国語の教師をしていた時、「山椒魚」で不思議な体験をした。岩穴に閉じ込められた一生物の一生なんて、閉所恐怖症の私には苦手な作品だった、つい一緒に閉じ込めた小エビが死にかけ、本当はお前のことが好きだったんだという結末。愛しているか憎むのか。と、そんな話を当の授業を受けていた或る生徒の、そのまた聞きをした妹から言われた。「お姉ちゃんは感動していました。そしてその話を聞いた私も」。いい授業とも思えぬその話を家で妹に語って聞かせるなんて。いや、実は山椒魚は教科書の中にだけ棲んでいたのではない。家の岩陰にもいたんだと、胸が痛んだ。

少年の鰭ひらひらと街を出る       男波 弘志
そうだ、我々もかつては水棲生物だった時代があったのだ。そして、陸地が水没する未来にもそうやって若者は出ていくのだろう。ということは、若者が出ていくあのひらひら感は、生物系統的に持ち込まれた記憶の発露なのかもと思える。別に都会がどうのという訳じゃなく、初代ゴジラが水爆で呼び覚まされたように、あてどない帰郷に目覚めているのかもしれない。これは比喩でも何でもなく、説得力があると感じた。

夜桜やいたるところを獣臭        加能 雅臣 
ひと頃、桜の樹をほとんど一年中見ていたことがあった。興味などでなく、不安や悩みを吹っ切る散歩の目的地に偶々樹齢七十年になる桜の大木があったからだ。年間を通してみると、本当に様々な表情があり、大いに惹かれることがあった。だが、桜の開花期間、それも三分咲き以降は近づけなかった。というのも有象無象にまったく見なかった人の群れが押し寄せるからで、それは肉に群がる獣のように凄まじかった。ライトアップし悲喜こもごもの四方山話あり、デートにもなり、飲酒&BBQ…何というか近寄れない熱気の前に、遠巻きに一瞥する。人生もそんなものだ、人気に人だかりができ、やがて去る。去り尽くし散り尽くしての夜桜はまたいい。では、少しお話ししましょうか?やっと桜のナマの匂いが嗅げるというものだ。

人影を吐き空蝉の部屋震ふ        斎藤 秀雄
空蝉の部屋は、いわば青春の形見かと思えた。たとえば、卒業式後の教室のような。誰もいない、しかしみんながいた気配と熱気の残る空っぽの空間。もう誰も戻って来たりしないのだが、初めてここにいたんだと感じられる空間。ふと震えた。何だ?そういえば、芝不器男に〈みじろぎにきしむ木椅子や秋日和〉のというのがあった。何が起こったのか、部屋が怒ったのだ。そして、震える主体は部屋だと思えるが、立ち位置は人影の方にあるように感じる。そうすると、空蝉は国家とも民族とも、無いようで有る透明な器ともとれ、そう思わせる処がとても面白い。

この国の水平保つ植田かな        島松 岳
遠景にはいつも秩序がある。どんな奇妙な出来事だって、遠景のもつ秩序や枠からはみだすことなどできやしない。と安部公房は言ったが、水平と束縛とは表裏一体なのかもしれない。自由を求めれば田舎を出るしかない、そんな『青春の門』の流れがあったが、当今の深刻なコメ不足となると誰が責任を取るのかという話で、本当は常に揺らいでいた米がクローズアップされてきた。そしてこの騒動を高笑いしているのは商人ではなく、コメ自身かもしれない。これだけこの日本の世を動かし続けた主は俺だ。人知の及ばない遠景がそこにある。

キリストの墓の住所が変わります    しまもと莱浮
こんな転居通知が来たとして、多分大騒ぎが起こるんだろうなあと思う。でも…聖地だったのはT氏の例のTタワーになりましたから、そうですね、どうしてもという方がおられましたら、あの新タワーマンション地下の礼拝所へおいでなさい。あのー、イエス様は引っ越しをなさったのですか?イエス様に永住権は無かったのですか?大丈夫です、天国はいつもイエス様と共にありますからね、イエス様のゆく処どこであろうと、イエス様も天国も常にあなたとともにあります。本当の聖地はあなたの処ではありませんか。イエス様もきっとお悦びでしょう、きっとあなたのお近くになっている事でしょうから。

風がふくぼくのおならはたびに出る    ようたろう
ちゃんとおならの事を考えてるんだ、偉い。人生、これまでこれほど身近な事柄を見落として生きてきたことにはたと気づく。そういえば、いいおならをして来なかったもんなあ。人のおならには気づくのに。わが配偶者が独身の時、当時付き合っていた私に丁寧にいかに自分のおならが貴いものであるかを説明してくれた。結局、うぬぼれというのはそういうものだと後で気づいたが、私に縁のない考え方である。で、この句にはそれを越えた哲学がある。社会的に公認されがたいおならの行方を考える。これはこれは、だ。ふいに生き方を反省してみたくなってしまう。そうだな、まだしもうんこなら、日々対峙して対話があるのに、そうか、小椋佳の〽僕は呼びかけはしない…ではダメなのだ。おならも大事な生きものである。ありがとう。

くらいのをうちゅうでねてるとおもったらすっかりねむれるんだよ              こうしろう
子供のころ、異様に闇を恐れていたのを思い出す。ところが小五の時、天体観測で小学校に泊まった時、ずっと星を屋上で眺め、クラス全員教室で雑魚寝したのだが、みんなこんな風に寝るんだと熱い闇に心打たれたものだ。そして翌朝、解散し、家の寝室で寝っ転がると、何だかまだ星空の中にいるように思い、とても安らかに寝入ったのだ。そう、一人でもひとりじゃないって感覚。初めての手術の前夜、病室のベッドの上で胸の上に銀河を感じて妙に幸せだった。何だろう、映画『オズの魔法使い』のラストのあのベッドでのドロシーのふかふか感、あれなんだが、ほんとはみんないるって感じ、生まれてきてよかったなとつくづく思えるのだ。

樟の切株恐竜の春愁            加藤知子
春愁と恐竜。思わず、そうか、あなたもか、と言ってしまった。この場合の春愁は、事の大小を問わず、何かとても痛い喪失感のおもむきだろう。ほんとうは昨日のように咆えまくっていたいのに、何だか頽れているような呟きの低声がぐるぐると聞こえてくる。これは一体何なのだろう。その「もやもやの何だろう」が、春愁というやつである。「早春譜」によれば〽春と聞かねば 知らでありしを 聞けばせかるる 胸の思いを いかにせよとの この頃か…と語りかける、実にうっくつとした心情をうまく歌詞にのせている。だが、匂いがない。掲句の「樟」は伐ったばかりのクスノキととらえたい。ナマナマしくも鼻腔から脳髄をつらぬき、心中の恐竜が咆えたくて仕方ないのだ。だから語ってみろよ、恐竜くん、わたしと。そう、出来れば、恐竜語でいいんじゃないか、解き放て、春愁。

この花はハマユウ

散歩中に人さまの畑にさいていたヒゴダイ
もうそんな季節なんだなあ~と
それにしても意外な場所に咲いてますね。
これはノコギリソウかな


前回のブログアップから二日後くらいだったか
恵の雨が降り、その後はいい塩梅に雨が降ってくれています。
水かけもしなくてよくなって
オクラは収穫始めました。

今は、外気温23℃
窓開けていると半袖では寒く感じます~
さて、本日We20号の入稿に
印刷所まで行ってきました。
なんとなく、
一週間前から体調を崩していて
(その前に友人の家に行ったら、
アデノウィルスに罹っていた赤ン坊がいて
泣いたのでしばらく抱っこしていたのだけど、
このくらいで感染するかなあ~)
ここ3日間はルル3錠にお世話になっています。
薬の効果が切れるとまた頭痛がしてきてきつくなって・・・
夜寝て、午前中に寝て、夕方寝て
と、よく眠っています~
食欲減退も症状の一つですが
体重は減らない

ハンミョウを隣家の敷地で見かけました~



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第80回現代俳句協会賞は大井恒行氏『水月伝』に決定!

2025-07-02 11:46:49 | 俳句
大井さん、おめでとうございます!!
奥様を十分に丁寧に看取りされたあとの
句集刊行だったのでしょう。

わたくしの第4句集『情死一擲』も
ある方の推薦を受けて
選考用に50句自選して送っていたのですが
あえなく・・・・沈没
昨日通知が届きました。
句集出すたびに50句送っていますがまだまだ~(苦笑)
なので、
ここにUPしておきます。



さて、これは何でしょうか?
ベースのサドル
というものだそうです。

なんなんでしょう~
手に持った重さがとてもいい感じで
フィット感がハンパない
捨てるものなので写真に残してあげる・・・

また、
そして、こういうのもありますが
これは結局ネジ穴が微妙に合わなくて使用不可に

我が家の極楽とんぼは
4年前から優雅な実家暮らしなので
弟から購入したベースの部品交換に忙しいようです。

高校の時から進学校に入学したものの
勉強そっちのけでバンドにハマり
エレキギターやらアコギやらアンプやら~
ライブまで見に行ってあげましたが。
(三男のバンドのライブも
Bナインというライブハウスに観にいったけれど
若者ばかりで気恥ずかしかったなあ)

県外に就職してからは
エレキギターは連れていっていましたが
だいぶ遠ざかっていたようですが

帰郷してからまた関心が出て来たようで
というか、
そういうことをする時間的な余裕があるということなんでしょう。
この極楽とんぼが!!!

ああ~あれから25年
私も年くったものです。

ヘンな展開になりました。

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短詩グラマトロジー 第十三回:畳音法  斎藤秀雄(「俳句短歌誌We」第19号より)

2025-06-15 11:55:21 | 俳句
短詩グラマトロジー 第十三回:畳音法
       斎藤 秀雄

 かつて岡井隆は、九鬼周造の論文「日本詩の押韻」を念頭に、押韻を退けた。《むしろ「去嫌(さりぎらい)」の禁のように、「不可押韻の格律」をもうけたほうがよい》(「短歌論――韻律論をめぐる諸問題」『新装版短詩型文学論』紀伊國屋書店、四二頁。以下、同論文からの引用は頁数のみ示す)。そのうえで、彼が《母音律》(四五頁)と呼ぶ、リズム論を展開する。岡井の論旨に、私は、半ば以上に共鳴・同情することを隠さないが、しかし、非常に多くの点で袂を分かたねばならないのもまた事実である。
 すべての点に触れる紙幅はない。二点のみ挙げる。第一に、岡井は「芸術」という《途方もないプロブレム》を前に《道をひきかえ》してしまう(一九頁)。過去の集積から、経験的・帰納法的に導かれた、「本質」という名の遠近法的錯視に利はない。芸術というプロブレムを考えるならば、まだみぬ、未経験の、逸脱した、来るべき何かが必要となるはずだ。第二に、岡井は《日本語による韻律詩の(…)美しさ・すぐれた表現力》(十頁)を問題にする(彼は《美(・)し(・)い(・)という言葉が誤解をまねく》(二九頁)ことに気づいてはいるが)。十八世紀前半に「美学」を構想したバウムガルテンは、「芸術作品は美しい」ことを疑っていなかったようであるが、同世紀末のカントは、そうではないことを知っていた。そしてさらに、十九世紀末になると《美と芸術が重ならないという主張が顕在化》(佐々木健一『美学辞典』東京大学出版会、四頁)してくるのである。
 例えば、〈畳音法〉という言葉で、私が指し示そうとしている事態は、「すもももももももものうち」にみられるような、何らかのおかしみがあり、注意を引く、情報的意味を超えたなにがしか、である。この言葉遊びは、早口言葉に用いられることから分かるように、発音しにくい。視覚的にも、情報的意味を得難い。つまり美しくない。しかしその「美しくなさ」において、「なにがしか」が発生しているのである。
 私は、畳音法を、同じ語の連続する〈畳語法〉と区別する。ちなみにWikipediaの「畳語法」の項目(英語版はEpizeuxis)は、畳語法と畳音法を同意としている。また、辞書に「畳音」は、あいだに間を置かずに「めきめき」「みみ」のように連続することと定義される。本論でみるように、本稿はこの連続性とも袂を分かつから、「特殊な畳音法」と呼ぶべきなのかもしれない。
 谷川俊太郎の「ののはな」(『ことばあそびうた』福音館書店、一九七三年)をみてみよう。

はなののののはな
はなのななあに
なずななのはな
なもないのばな

 ここで、詩としての出来不出来は問わない。特に三行目から四行目に移行するときの、大衆向けの、だらしのない抒情に、顔をしかめる読者もいるかもしれない。しかしここで注目したいのは、第一行である。先にみた、発音のしにくさ、情報的意味の得難さがある。「花野の野の花」と表記してしまっては失われてしまう、忘れ難い「なにがしか」がある。他行の七音に揃えるために「はなのののばな」とすれば、美しく、スムーズで、快いものになるかもしれないが、しかしそのことでむしろ退屈になる。四行全体に「は」「な」「の」の音(および表記)が散りばめられ、反復されていることは、本作が詩集名のとおり「ことばあそび」であることを示しているだろう。が、本作を「あそび」以上の何かに高めている最大要因は、一行目の、スムーズでなさ、躓き、にあると思われるのだ。
 短歌の例をみよう。

あの母をあざむくすべはあらざらむあざ打たれしを冷やして帰る                  岡井 隆
はつかりのはつかに戀ふるちちのみの父こそ鳥の道ゆ落ちけれ                   水原 紫苑

 一首目。歌集『眼底紀行』より。ここにa音の頻出のみをみるならば、岡井の言うように《おどろくべき「応和」氾濫》(四二頁)となってしまう。我々は《あざむく》《あらざら》《あざ》に注目したい。いっけん「頭韻」にみえるが(子音ではないから頭韻的、と言うべきだが)、異なる語に含まれる同音が、ふたつ目は《ら》音を挟みつつ、反復されている。「アザ」の二音が、「狭広狭」のリズムを携えて、一首に伏流している。「打たれしあざを」としない点も、岡井的な屈折への意志を感じさせる。
 二首目。歌集『快樂』より。ここにみられる枕詞「初雁の」「乳の実の」はいずれも、同音の繰り返しによって掛かるのだから、改めて畳音法だと呼ぶのは、冗長的ではある。現代短歌の一首に二つの枕詞を導入するのも、執拗さという点で、不思議な感慨を抱かせる。水原の短歌には「ちちのみの父」「ははそはの母」が頻出する。掲歌は同歌集所収の《なかぞらにをりをりねむりわだつみをこゆる鳥たち母たちのごと》と対照的呼応の関係にあるように感ぜられる。
 俳句の例をみよう。

甘草の芽のとびとびのひとならび      高野 素十
かさなりの深みへどくだみの緑       鴇田 智哉

 一句目。《とびとび》は畳語だが、「トビ」の音が離散して《ひとならび》に含まれる。《とびとび》は連続性を、《ひとならび》は距離を想起させ、つまり中七と下五はシニフィアンとシニフィエが交叉している。この句を論じた対談「句修行漫談」『ホトトギス』(昭和六年)(および昭和三年の虚子による「秋桜子と素十」)をきっかけに、水原秋桜子はホトトギスを離脱することになるが、当時、肯定的にせよ否定的にせよ、掲句がリアリズムとしてしか語られなかったことは、レトロスペクティヴな観点からは、不思議な事態として感ぜられる。
 二句目。ai音の三度の反復(応和氾濫)が目立つ。おそらく意図された執拗さであろう。しかし、《かさなり》《どくだみ》《緑》にある、「リドミ」の、離散しかつ反転した反復が、不思議な効果を発揮していることに注意すべきだ。《どくだみ》は白い花で、《緑》なのは葉であるはずだが、反転した「リドミ」により、葉叢の《かさなりの深みへ》いったん潜り込んだあと、そちら側から花を見上げたような、奇妙な奥深さが、読みの知覚領域に伏流してくるのである。             (続)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
雨が上がった隙に
揚羽が何度目かの卵産み付けに
(20250615)
山椒を丸裸にして
葉が茂ってきてちょうどいい頃合いに
また産卵に~

狭庭で収穫した大根
これだけ、なんでこうなるの?

GOOブログの皆さんの引越しが行われているようですね~
10月までに終了しないといけないようですが
なんだかなあ~
あまり気がすすまなくて

ずっと以前、ヤプログからの移動の時に
はてなブログで1回と
一か月前くらいに2回目UPしたように思いますが
画像UPの仕方など使い方がよく分からなくて~
だけど
まあ~引っ越しだけはしておこうかなとも


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