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ポンコツPAK-ブログサイド-

ミリオタ、エルンストによるブログです。
pixivでダラダラ描いてます。

”魅力的な格好の、日本の士官たち”

2011-02-11 21:53:59 | 幕末
唐突ですが、こんな絵を描いてみました。



領事館のイギリス人の警護に騎馬で江戸へ同行する武士。お勤め前に顔なじみの下番と話してたら、どっかの異人の少女が興味深そうにこちらを見てる之図。
「ジャパン・パンチ」1865年10月号、写真家F.ベアトやイギリス公使館員を護衛する騎馬の武士の一団の絵から服装を再現してみました。恐らく外人警護の専門組織「別手組」所属の侍だと思います。刀槍、そして馬術にも長けた集団だったようです。当初は饅頭笠に義経袴でしたが、居留地という土地柄でしょうか、
服装に真っ先に変化が現れたようです。平陣笠にダブルブレスのフロックマンテル、足はブーツを履いております。腰に肩掛け式のホルスターを下げています。外国人一人につき武士五人がつき、居留地外の仕事や旅行の遠出のたびに騎馬で警護しました。中にはパイプかタバコホルダーを加えてたり、
ブランデーのフラスクのようなものを持ってたり「おまえら仕事中だろ!」と突っ込みたくなります。

左端のおっさんは同時代のILN,1865年1月号に描かれた「横浜の日本兵」正体はおそらく神奈川奉行所の下番で、農民を徴募して蘭式調練を施した兵士です。銃は国産コピーのゲベール銃(雷管式滑腔マスケット銃)を装備してたようです。独特のマークの入った韮山笠に筒袖、立付袴を履いています。
ソケット式銃剣鞘は農兵刀とともに腰へ差しています。農兵刀は歩兵と同じく、「百姓より身分がちょっと上」という証であって実用品とは
ほど遠かったようです。
彼らは慶応二年に奉行所の役人であった窪田鎮章や古屋佐久左衛門らとともに駐留イギリス軍より調練を施され、のちに幕府歩兵組(第12連隊など)へ編入されています。


居留地には恐らく、外国人商人や外交官の家族もいたことでしょう。変な髪形をして刀を差して、それでいて洋服を着て銃を持っている。現代の同じ日本人から見ても奇抜な当時の武士の格好を、外国人の子供たちはどのように見ていたのでしょうか。

建物の屋根部分だけ見えてる背景は、オスプレイの影響だと思いますw。

広がれ!維新軍装の輪!?

2011-01-09 00:28:25 | 幕末


突然ではございますが、今日、新たにリンクを張らせていただきました。
Pixivで西南の役や戊辰戦争時の軍装のイラストを描かれている桜丘さまのブログ、『薩軍分営』でございます。
私と同じ、「女の子と軍服の融合」系でpixivで活動されている、いうなれば同志でございます。
戊辰戦争はもちろん、西南の役に関する薩軍、政府軍、警視隊などの軍装も丁寧に再現されており、その筋の資料として重宝すること間違いなし!
歴史ファン、ミリタリーファンはレッツゴー!

…すみません、せっかくバナーいただいたのに、どうも貼れないみたいです…なのでせめてこの記事に使わせていただきます。
桜丘さま、ありがとうございました!

突発企画!ブリュネ砲兵中尉軍服考

2010-12-19 21:20:26 | 幕末


pixivでの同志、桜丘さまへのレスポンス企画でございます。そして多くのブリュネファンの方々へも捧げます。

以前、ブリュネ中尉の軍服を実際に自分で絵でも描こうと思いましたが、袖のオーストリア織で挫折、それっきりとなっております…。
なので、自分が調べたものを羅列させていただきます。(ネット上で拾った画像も多いのでちょっとおおっぴらなコンテンツ化は難しいですけどね…)
オスプレイの普仏戦争のものでも砲兵士官のものがないので、結構難儀しますよね…。

フランス軍と言えば赤いケピに赤いズボン、という印象がありますが、砲兵科は他兵科と違い、ケピのトップもズボンも全部紺一色。また仏軍将校用ケピはストラップが金色です。

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/c4/77b1da2048dc8bf7b09e3e1ac47accf6.jpg
(すみません、コピペしてください↑)
上衣の肋骨服はハンガリー式軽騎兵が肩に引っかけてるペリーズというもので、騎乗砲兵も同様でした。
現物の写真がなく、その代り比較的鮮明に写っている集合写真がありました。

色ですが、ブリュネの写真をよく見ると、袖口の色が制服の色と違うように見えます。

近衛砲兵用のドルマン(ペリーズの下に着る短上衣)の画像がありますが、袖は赤ですね。ペリーズもこれと同じ配色だった可能性があります。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/aa/8c94349cbcee170b7845d22580b1a08a.jpg
派遣前の顧問団の集合写真で着ていたのはこのドルマンですね。


ズボンの2本の側線ですが、部隊によって金色と赤色があるようですね。ブリュネ氏の写真ではどうも袖章と同じ金色に見えます。
ですがメキシコ戦役時の同僚を描いたスケッチでははっきりと紺色ズボンに赤色の2本の側線が描かれています。これは配置転換後に変わった可能性があるな…。


ブーツの形状は画像をよーーーく見てみると

膝のあたりに少し特徴があります。上から3枚目の集合写真もそうですが、胸甲騎兵のものに似てます。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/8f/67bade06009cc495c7d144301493fe90.jpg
ちなみに胸についてる微章、星型のものはメキシコ戦役で受勲したレジオンドヌール勲章。クラスはシュヴァリエでリボンは赤、真ん中のパーツは時期によって月桂冠と王冠がありますが、ブリュネのものは真ん中に穴があいてないので後者と考えられます。もう一個のメダルはわかりません…。
いまだちょっと漠然としてますね…。フランス語でいいから普仏戦争くらいのフランス軍のまとまった資料本がほしいよ~!オスプレイじゃ薄いんだ!
すんません!こんなところでお許しくだしあ!

官軍の精鋭ぜよ!

2010-12-04 23:27:59 | 幕末


戊辰戦争へ参戦した土佐藩兵で、その中でも主力を担った迅衝隊の軍装を描いてみました。
薩長土肥と新政府軍の三番目に入る土佐藩も、実は戊辰開戦時、ミニエー銃はあっても軍装が整っておりませんでした。
京都進発時にようやく筒袖の上着が揃えられた程度で、甲州勝沼・江戸開城以降になって舶来の洋装が取り入れられたみたいです。

ひとりは徒士小隊司令大砲係だった方の、慶応四年四月に江戸で撮影された写真を参考にしました。上着は詰襟のフロックコート、下は縞の切袴、足元は脚絆に革靴です。足元がスコットランドのハイランダー連隊っぽく見えるの自分だけ?
手にはP1861短エンピール銃を持っています。
母成峠の戦闘でスペンサー騎銃を使ったのが有名ですがどうも土佐藩自身が購入したものでなく、作戦時に限って特別に貸与されたものと思われます。
ttp://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/30/393623fa68bafc98809830833b5e3348.jpg
↑参考元の写真です。縞のデカパンみたいに見えますが、ひざ下丈の切り袴ですねw。かっこいい!
おそらく今市や母成峠などの北関東の戦闘では下も動きやすいズボンに履き替えていたものと推測されます。

士官の方は会津の博物館に現存する、鶴ヶ城攻防で戦死された迅衝隊3番隊長、小笠原謙吉の遺品より再現しました。胸ポケットつきのフロックコートにズボンです。
拳銃も残っており、フランスかベルギー製のルフォーショー拳銃のダブルトリガー型を装備してたようです。
被りものは遺物がなく、韮山笠は明治期の絵巻や堺事件を報じたフランスの絵新聞を参考(ただし、描者は現場をみておらず)。
士官の陣笠は以前に専門家の先生に聞いたものを参考にしております。(こればかりは私の記憶頼りでございます…)
肩印は遺品や写真などに多くみられる土佐藩の合印です。アメリカ軍の階級章みたいですね。この肩印はどうも江戸開城以降に改定された識別章で、それ以前は肩に短冊状の合印を錦切れと一緒に下げていました。土佐は京都進発以降、結構ころころと合印や身分章階級章などが変わっており、この白い肩印が最終的なものと思われます。
戦時に小荷駄裁判役として従軍した樋口真吉の写真も残っていますが、彼は肩印と錦章以外なにも付けていないようです。

「龍馬伝」終わりましたね。個人的にはその後の海援隊士や龍馬の関係者のことをちょっとさらってもいいんじゃないかって思いましたが、良い作品でした。

とある幕府の大砲組(アーティラリー)

2010-11-28 21:55:32 | 幕末

四斤山砲です。
歴史小説などでアームストロング砲の次くらいにでてくるようなそうでもないような、有名な大砲です。戊辰戦争では東西各藩で使用され、幕府と薩摩藩では国産化も試みられました。国内での初陣は第二次長州征伐で、幕府大砲組によって使用されました。

せっかくなので創設時~フランス伝習までの大砲組軍装の変遷を描いてみました。彼らは文久の兵制改革によって諸組の同心から編成されました。
創設時にはダンブクロの正面に白く大の字つなぎの染め抜きがありました。上着は夏服で描いてみました。
慶応二年の改正時に陣笠が制定され、袴の染め抜きは廃止されました。翌年にはフランス式伝習が始まり、軍服も変わりました。
その折、帯刀は廃止したようで、腰にはソードバヨネットのみを装備しています。
小銃はゲベール、各種ミニエー、そして各種短ライフルへと変わっていきました。戦役では左から天狗党の乱、第二次長州征伐、鳥羽伏見の戦いくらいでしょうか。
背嚢は慶応三年時の「仏式ランドセル」フランス軍M1854ナップザック、銃はフランス/ベルギー製M1859ライフル銃です。
仏式軍装は大田陣屋の歩哨のスケッチと、フランス軍メキシコ遠征時の上着を参考に、赤いパイピングを施してみました。
なので、とてもじゃないけどこれが正確なものではないかもです。

本来、操砲には6人以上の兵員が必要ですが、そんなに描いたら砲がみえないんで、勘弁しておくんなまし。

ああ、風邪引いた…だるくないけど関節にキます…。

幕府陸軍将校できた!あと某ドラマを観たこと

2010-11-08 23:22:24 | 幕末

遅くなりましたが更新いたします。
1867年頃の幕府陸軍歩兵将校です。
左の娘の服装は「幕末百話」で幕府軍の軍服の変遷を語った方です。大手前屯所ということなので、仏式伝習第一大隊の歩兵差図役頭取(陸軍大尉)です。
着ているのは「襞取りマンテル(”膝”とされているのは誤聞)」というフロックコートです。フランス軍の、主にズアーブ連隊の将校の制服に当てはまるものが実在し、写真も多く残っています。また挿絵では右手にケピ帽と思わしきものをもっております。
ジブスケ袴はフランス軍のえらいダボっとしたトラウザースのことです。
右腰のホルスターはピン打ちルフォーショー拳銃のです。サーベルはM1845歩兵将校用となっております。

右の娘は前回紹介したレキション(『銃隊式沿革図』にも描かれていますが立ち襟を外側に折り、衿を前に折って肩の紐を結ぶようです。)
にダンブクロ、ロングブーツという組み合わせです。
笠は正体がわかりません、饅頭笠の正面を切り取ったような形状です。ブリュネのスケッチに複数描かれていますがなんだこれ?
銃隊式沿革図で伝習隊の訓練と思われる絵で下士官らしき人が被っているものと同じものでしょうか?夏用の笠なのかな。
刀は当時の陸軍士官に流行った突兵拵の大小です。

立石斧次郎や徳川慶喜の軍装も紹介したいなぁ。


話は変わりますがTBSドラマ「99年の愛 Japanese Americans」の二世部隊の考証が気になってその辺だけ観ました。
M1ガーランドを装備し、M43HBT上下の上にM43フィールドジャケットを着ていて、足はレギンス、背にはM1828ハバーザックという感じでしょうか。記章が袖の部隊章くらいしかないのが残念ですが、民放の考証にしては上出来な気がします。(「さとうきび畑」はひどかった…戦後型のユーティリティにM1カービンしか出てこねえんだもんな)

沖縄のシーンでは中尾くんがマリンコのM41作業服着てましたね。M41ハバーザックもしょってたし、残念なのはヘルメットが戦後型なことくらいか。あと洞窟の日本兵が革製背嚢だったよ!

でもドイツ戦車部隊のシーンはなんか「バルジ大作戦」の再現だったよな…M47パットンが61式(「戦国自衛隊」のドーザー改造プロップだなあれ)に代わっただけという。でも気がついた人いるかな、戦車兵の服がM44ドット迷彩でしたね。
ドイツ兵は襟が服と同じ色の後期型の軍服っぽかったしMG42持ってたし、まあまあかな。(欲を言えばワンポイントでスプリンター迷彩装備してればなお良かったけど…)

でも、雪原でM43作業服にM43フィールドジャケットだけだとかなり寒いです。昔千葉の某フィールドで経験しましたが、みぞれがスウェードの靴とキャンバスレギンスを濡らし、そのときは塹壕足になるかと思った…。んでウェポンがマルシンのM1ガーランドで生ガス吹きまくって動きゃしねぇ!!楽しかったけど。その後イベントでレプリカのレインコートを手に入れました。
そんな大学時代の記憶がよみがえりましたとさ。

幕末の武士とロングブーツ

2010-11-04 23:05:13 | 幕末
寒くなりましたね。ついこないだまでシャツ二枚で過ごしてましたが、もう限界なのでフリース出しました。
ブーツの季節でしょうが、私はジャングルブーツ、トウキャップアンクルシューズ、南北戦争モデルのブローガンズしかなくて普段履けるものはありません
(全部イベントの軍コス用です…orz)。
幕末、洋装する武士のなかでも靴を履くことが流行しました。特に流行の先端を行っていた幕府陸軍の将校の服装から、
丈の長い「ストーブパイプ」ロングブーツを取り上げてみましょう。フランス式軍装が多くなってくると当然ロングブーツも多くなりますが、
ここではそれ以前の慶応二年頃からを見ていきます。
今日もムダに画像貼りまくるぞ!

なんとなくフランス軍事顧問団ブリュネ中尉のスケッチをぱらぱらと見ていると、1867年に描かれた絵の中に二人でだべっている幕府軍将校がおります。なんか面白い笠かぶってんなぁ。
彼らの足元ですが、これ、

タッツケ袴でも履いてんのかと思いきや、他とはどうも違います。ブーツ履いてるんですね。サイドからはみ出てんのは履くときに使うフンガープルループのようです。ちなみにタッツケはこう↓


次はイラストレイテッドロンドンニュース。ワーグマンのスケッチで洋式軍隊が描かれ始めるるのはだいたい文久三年ごろからで、
洋装の武士が目立つのは慶応二年くらいからです。


1866年4月7日、江戸で描かれた武士。ロングブーツの士官ですが、これもフィンガープルループを垂らしています。ブリュネの描いた士官と同じタイプのブーツのようです。


これは同年5月19日、横浜で描かれたもの。韮山笠、平袖の羽織にズボンとロングブーツを合わせています。オシャレです。
羽織+ブーツという組み合わせは箱館政権時のの将校の写真にも残っており、意外とスタンダードな組み合わせだったみたいです。


でも、最初のスケッチのダンブクロにブーツって…なんかニッカボッカと地下足袋見たいにも見えるよ…。
ちなみに、これら革靴はまだまだ日本人の足にはフィットせず、あくまで平時のオシャレな装飾品くらいの扱いみたいです。
描かれている幕軍将校も戦時には草鞋に履きかえたことでしょう。


いままた絵を描いてますが、まあこの記事に大きく関係しているわけです。

陸軍笠/羽織・第一次資料編?

2010-10-24 22:49:35 | 幕末
何の気なしに国会図書館のデジタルアーカイブ除いてたら
勝先生の「陸軍歴史」おもっきり読めました。しかも上下巻前頁!!
そして陸軍笠の表記もありました。
以前紹介した階級表と比べますと、色の表記は大体あっています。が、笹間氏の本にあった差図役/頭取の笠の「叩き塗」という表記が見当たりませんでした。
立石斧次郎の写真に写っている歩兵差図役頭取の陣笠の表面にはザラザラしたような加工が施されているのが確認できます。この加工は個人の好みだったのか、はたまた他の階級の笠も同じ加工がほどこされていたのか…。

頭/奉行クラスの陣羽織の表記には羽織の色や紋の指定はありません。どうもレキションから甲冑用の陣羽織とかもオッケーだったみたいです。
(ただ、銃隊式沿革図には黒レキションに白紋をつけた歩兵頭の絵があり、こちらは太田氏「日本近代軍服史」に当てはまります。)

1889年陸軍省総務局版、勝安芳「陸軍歴史」下巻468~470ページに笠/羽織の表記があります。 

こんなレアな本がタダ読みできるなんて!そしてなんで今までチャックしなかった!みんなも今すぐアクセス!(誰に言うておる)

ちょっとのぞき見



ちなみに巻末の方に各兵科の支給品リストがあり、フランス式装備の供給状況も拝めます。そして騎兵にはカービン銃のほかにピストルも支給されてたみたい。
もっと読み込もうと思います。

靖国偕行文庫いってきた。

2010-10-14 14:42:49 | 幕末
数日前、靖国偕行文庫へ行ってきました。
目的は幕末期の洋式調練の操典を閲覧することです。
幕府歩兵組で使われていた「歩操新式」と上田藩士赤松小三郎が翻訳したイギリス軍の歩兵操典「英国歩兵練法」などの一部が閲覧できます。
実はこれらの洋式調練は今から6年ほど前、ある団体の企画で実際に受けたことがありまして、現在、一部の時代祭などに出ていらっしゃる長州/薩摩藩兵リエナクターの方々もこれと同じものを伝習されています。
自分も歩操新式のオランダ式の小銃動作を叩きこまれ、装填~発射や右向ケ-廻れなどの号令もいまだ覚えています。今は土日に休みをとるのが難しいため休止中…。
その中でも、歩操新式の銃剣術の部分と英国歩兵練法内の戦列展開の部分がややあやしくなってきましたので、複写申請させていただきました。

文庫そのものはなんか、靖国という大きな神社のものとは思えないほど素朴で、私の出身大学の図書室にも雰囲気がにていました。

で、びっくりしたのが、英国歩兵練法…申請したら、コピーとかラミネート保護されたものじゃない、実本そのものが出てきた…これにはちょっとチビりそうになりました。だって、博物館級のものをこの手に取れたんだもの!
150年前の本にも関わらず、活字がきれいで、日本語のあやしい私でもやや読みやすいですww。
一部抜粋。著作権的にもセーフだよね。たぶん。





奇兵隊の影に隠れた勇戦

2010-10-03 00:03:01 | 幕末


大河ドラマなどではほとんど取り上げられない第二次長州征伐の側面を描いてみた。
高杉晋作率いる奇兵隊は主に小倉口で戦っていたため、そっちばかりがクローズアップされております。「四境戦争」というくらいですから、実際は戦線は四か所ありました。
その中でも幕軍が岩国を目指した芸州口の最初の戦闘を取り上げて描いてみました。

慶応二年六月十四日、芸州口における幕府軍先鋒、彦根藩の武士とそれを迎え撃った長州軍諸隊のうち、維新団の兵士です。

芸防境界の小瀬川を渡ろうとした彦根藩の軍勢は山間部に陣取っていた長州諸隊からの猛射撃にあい、高田藩とともに敗走しました。
芸州口は結局、幕府歩兵隊と紀州藩兵が穴を埋める羽目になりました。

維新団は被差別身分から徴収された銃隊で、遊撃隊に属していました。藩当局からも白い目でみられていましたが、実戦では他隊と同じ水準の装備を誇り、活躍しました。
銃は藩がグラバー商会から購入した前装式のエンフィールドP1861短ライフル銃、装具の詳細は不明ですが、
イギリス軍の1859年型胴乱に56年型雷管入、スネークバックルベルトにヤタガン銃剣を装備させてみました。銃は南北戦争時の南軍の中古品なので、装具も「CS」南軍のでも良かったかも。
ちなみに、このイギリス軍の装具も慢性的物資不足だった南軍の一部で使われています。考証的にはセーフかと。

また軍装は上から下まで黒ずくめだったようです。「一、衣装黒、筒袖黒、立付共紐の事。一、笠惣黒塗りの事。」笠の詳細もわからないので、とりあえず韮山笠にしました。
黒く塗った菅笠でも良かったかも。

飾りも許されず全身黒服のみという服装差別が、皮肉にも彼らの軍装を後世に記録させることとなりました。
彼らはこの戦闘で実力を示し、それまでの差別的な待遇から一転、一目おかれる存在になったといいます。
金色の飾りも禁止されてたみたいですが、このスネークバックルは実用品だぞ。飾りじゃない!だからおk。

翌年、視認性の低さもあってか他の長州諸隊の軍装もほぼ黒色に統一されています。


いっぽうの彦根藩は戦国以来の伝統の赤備えをもって前線へ臨みました。その結果、前装施条銃で固められた長州諸隊の攻撃に大損害をこうむり、鎧かぶとを棄てて後退しました。
火器の装備は長州側の鹵獲品の記録に残っていますが、火縄式だった十匁筒を雷管式に改造したものや、球形弾を布にくるんで押し込む旧型ライフルのヤクトビュクス銃などで、その数も少なかったといわれています。でも大砲はアメリカ製ボートホウィッツルがあったそうな。

絵は管打ち十匁筒を描いてみました。現存する管打ち和筒は小筒ばかりなので躊躇しました。長州軍のエンフィールド銃とは火力の差が大きいですね…。
兜は日根野頭形、胴は仏胴というスタンダードな当世具足にしてみました。前立ては井伊家陪臣を現わす銀の天衝です(家臣は金色の天衝、藩主は金の脇立てになる)。
背負い旗は赤地に金で名前が書いてあり、彦根藩士共通っぽい感じのものです。(天衝みたいに家臣と陪臣で変化があるのかは分からず)

芸州口はほぼ戦役の最後まで戦闘が続き、彦根藩も緒戦の雪辱を果たさんと奮戦しましたが、結局、休戦が決まり、幕府軍は撤退しました。

実は幕府陸軍関連の資料もあるので、そっちもまとめてみたいものでござる。