ポンコツPAK-ブログサイド-

ミリオタ、エルンストによるブログです。
pixivでダラダラ描いてます。

六ツ星と雪輪のもとに 足利藩兵と誠心隊士(慶応四年)

2013-03-29 20:52:50 | 幕末


戊辰戦争時、関東諸藩は多くの地方と同じく新旧入り乱れのような状態で、宇都宮・笠間など甲冑装備のまま新政府への恭順を余儀なくされた藩もありました。

北関東の小大名家であった足利藩戸田家は殿様が陸軍奉行並を務めた経験もあってか、しっかりと西洋式兵制を取り入れおります。
足利藩は慶応四年、新政府へ恭順。官軍として上州戸倉で会津藩と戦闘を交えました。
一万一千石の陣屋大名家でしたが安政年間から三度に分けて兵制が改革されておりました。

左は遺品を元に再現した誠心隊の兵士。彼らは画家の田崎早雲も差図役として勤務していた藩の町民・百姓を募って編成した草莽隊で、市中の警備や百姓一揆の鎮撫に活躍しました。雪輪の合印を右肩に付けた黒い三斎羽織に金雪輪入りの韮山笠。足元はダンブクロです。(小銃は元込で、1挺25両という価格からスナイドル銃と推測しました)早雲のスケッチにはボタン掛けの上衣を着た兵士も描かれています。

右は慶応四年8月ごろ、今市出兵時の藩士の軍装を想定して描きました。
同年4月の改定では藩の合印が正式に定められ、銃士は洋服を着用、被り物は笠かシャッポー(帽子)が奨励されてました。古写真などに足利藩士の軍装が残っていないため、他藩の洋装の武士など複数の資料を基に一般的な官軍軍装を再現してみました。錦切は戸倉戦争後の慶応四年5月21日以降に総督府から下賜されたようで、それ以前の北関東官軍諸藩は「左手に白布を結びつける」ことで識別していたようです。

同伴に関する資料が手元になかったのですが、「シリーズ藩物語 足利藩」を読んだら一発でした。おもしろい!
田崎早雲と誠心隊の活躍も詳しく読めました。

きっとまだまだ自分の知らない諸藩の戊辰戦争時の軍制とか、詳しく調べれば沢山でてくるんだろうな。

ブラックリバーの鉄亀 ネオショー級河川モニター艦USSオセージ

2013-03-16 22:05:46 | ミリタリーな話題


唐突ですが、気が付いたら出来上がってたもので…。
アメリカ南北戦争では、南部の河川で両軍の砲艦や川用装甲艦などが激戦を繰り広げておりました。
機雷なども多く使用され、ヤズー川の作戦で北軍シティ級装甲砲艦USSカイロが世界で最初に蝕雷、沈没しております。

さて、イラストの変な物体は南北戦争後半に投入されたネオショー級河川モニター、USSオセージです。

武装はエリクソン式旋回砲塔に11inchダールグレン滑腔砲2門を備えておりました。
このクラスはモニター艦では唯一の外輪推進式を採用してました。(艦尾のプリンみたいな構造物の中に外輪が納まってます)
見た目はともかく、この時点ですでに砲塔艦としての基本的な設計をほぼ確立したような構造物の配置をしております。
しかし、操舵室やキャビンは一見粗末な木製です。被弾したらやばそう…。

ルイジアナやアラバマなどの河川で戦闘に参加、二度損傷し、1865年3月にブレイクリー川で南軍の機雷によって沈没しました。

なんでこんな艦描いたんだろう…。エリクソン式モニターでは屈指の変な恰好だと思うんです…。なんかウミウシみたいだもん。

ついでに北軍水兵もかいてみました。水兵服は同じ艦の乗員でも襟元などの細部が微妙に違っていたり、バリエーションが豊富です…。
腰回りはコルト51ネイビーにM1861カトラスと、豪華ですね…。
海軍ではシャープスやスペンサーの海軍銃(ヤタガン銃剣が着剣できる)やシャープス&ハンキンスなどの後装銃を多く採用しており、
なかでもスペンサー小銃は陸軍に先駆けて採用しました。


まあ、今進行中の大河「八重の桜」の時代の地球の裏側ではヤンキーがレッドネックとこんな軍艦で(しかも川で)ドンパチやってたんですよっていう。
そういえば、先週は川崎尚之助がウェストリー・リチャーズ(レカルツ)カービン銃をバカスカ撃ってたね…。


昨日の昼飯…MREレーションのチキンヌードルをご飯にかけて食べた…いや味はなかなかだったけど…ね。

ジブスケ袴アイドル・響と貴音(慶応三年)

2013-03-11 22:23:56 | 幕末

pixivにて垂れ流しております拙作「七六五隊始末記」で七六五の面々のライバル的位置になる…であろうご両人。

「笛亜里組」元蟠南藩士の幕臣・黒井崇康が当時最新装備の仏式伝習歩兵を無理行って一個小隊引き抜き、自分用の私的警護部隊(兼治安部隊)として創設。

七六五隊が全員銃士なのに対し、見てわかる通り彼女らは士官待遇で迎えられました。

二人とも、衣装は当時の幕府フランス式伝習隊の士官の古写真などから再現しました。カラーリングは幕軍の文献と同時代のフランス軍の服制から再現。

正面左から四条貴音。独特の上衣はフランス軍ズアーブ兵士官の制服を真似た「襞取りマンテル」。ズボンもダボっとした仏軍使用の「ジブスケ(デュ・ブスケから転化)袴」です。
このタイプの制服は伝習隊士官と思われる集合写真に一例だけ残されております。(イラストも残っています)
サーベルはフランス軍1845式歩兵士官用のものです。

右が響。着ている服は元大手前の伝習第一大隊差図役頭取だった方の古写真から再現しました、(腰の水色のサッシュとサーベルベルトはここっちで描き加えたもの)
ズアーブっぽい上衣ですが、図のような肋骨状の飾りがついたものは仏軍ズアーブには見当たりません。そのかわり仏軍擲弾兵の制服にはこの形状の肋骨飾りがついております。
ちょっと明治八年制定の兵下士官正衣に似てますね。
書籍によっては「フランス植民地騎兵風」などと説明されてますが、それに該当するアフリカ猟兵(Chasseurs d'Afrique)とは軍服のデザインが全然違います。

ハム蔵のデザインは完全にアニメ版準拠です。声を担当した中村繪里子さんの演技が光った素晴らしいキャラクターでした。

出羽の強兵 庄内藩・奇銃兵(慶応四年・秋田)

2013-03-01 21:34:43 | 幕末


戊辰戦役の戦いの一つ・秋田戦争時の庄内藩兵です。
秋田方面では、薩摩、佐賀藩などの増援を受けた久保田藩などの東北官軍諸藩を相手に奮戦しておりました。北越にも長岡支援の為に派兵していますね。
猛将酒井玄播に率いられた第二大隊の”破軍星旗”は有名ですね。

慶応三年暮れ、翌年の鳥羽伏見の戦いの発端ともなった三田の薩摩屋敷焼き討ちを実行したことで知られる同藩ですが、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の一翼を担い、活躍しました。
藩御用商人の本間家からの献金と軍艦の売却費を使い、スネル商会から大量に武器を購入して装備を整えておりました。
主力のエンフィールド銃をはじめウィットワース銃や、シャープス、スペンサーなどの後装単発/連発銃を装備していたようです。
対する久保田(秋田)藩は甲冑に火縄銃装備だったようです。

天頂部が丸くなった朱の丸入り陣笠は現存。筒袖だんぶくろの色は致道博物館のある「戊辰戦争絵巻」を参考にしました。
絵の庄内藩兵は黒い朱の丸入り陣笠に筒袖紺・ダンブクロ黄色の者、筒袖黄色・ダンブクロ紺の者、全身紺の者に全身黄色の者か白いダンブクロのものなどバリエーション多彩です。
この絵図のカラーリングは参考になるかは不明です。しかし、当時軍装を黒に統一していた米沢藩兵が「米沢の烏」、仙台藩の衝撃隊が「烏組」と呼ばれていたあたり、
奥羽の諸藩では紺や黒で統一した軍装は珍しかった物と思われます。(太田臨一郎『日本近代軍服史』参照。庄内藩兵の軍装に関しては『武器と防具 幕末編』も参考にさせていただきました)

イラストではスペンサー1860騎銃を持たせてみました。左腰のでかい箱はブレークスリー式70発入りカートリッジボックスです。
この弾薬盒、ストラップの片方がフック式で取れやすく、腰ベルトを後ろのループに通さないとダメみたいです。
スリング代わりに紐を使っていますが、これは北軍の騎兵と先住民の戦士の遺品にある装備方法と同じようにしてみました。
もともとスペンサーカービンにはハンドガード部にスイベルリングがなく、騎兵用の担帯の使用を前提としていました。
しかし使い勝手が悪かったのか、銃身部に革製リングを付けて歩兵用スリングを装備したものが現存しています。
1865年型になってようやくスイベルが追加されました。