慶応二年、第二次長州征伐に赴いたころの八王子千人隊の千人隊之頭見習(向かって左)と組頭の差図役下役(曹長)です。
出陣前に大坂で撮影されたと思しき古写真と、八王子の郷土資料館で展示されていた遺物を基に描いてみました。
幕末まで「八王子千人同心」槍奉行支配下の槍同心だった彼らも安政年間より洋式砲術の訓練を受けました。
慶応年間には陸軍奉行支配下となってミニエー銃隊として組織されておりました。(遺品では海軍モデルのエンフィールドP1858短小銃が現存。これは官軍の丹波山国隊が甲陽鎮撫隊から鹵獲したものと同じで、この辺に新撰組とのつながりのようなものを感じます)
二人とも、毛織物っぽいレキション羽織にフュスト(チョッキ)の和製洋式軍装です。
八王子千人隊組頭、二宮光鄰。リストでは千人隊差図役下役と表記されており、曹長クラスであったことがわかります(組頭級は下級士官~下士官とされていたようです)。
手に持っている軍帽、おそらくは韮山頭巾の派生型のようですが、詳細は不明です。ディテールも謎で、写真の情報からできる限り再現しました…。
肩印は現存品を参考にしました。展示物はこのほか、独特の標目の入った韮山笠や英軍式に近い形状の葵紋入り胴乱(表面の仕上げを見る限り国産コピーではなく輸入品を改造したもの?)もありました。
千人頭見習の陣笠は陸軍笠ではなく、それ以前の家格だけを色で識別するタイプ(布衣以上=表黒裏金・御目見以上=表藍裏金。正面に金輪抜)のようです。レキションや革靴は複数の方の写真からミックスしました。
第二次長州征伐では小倉藩、久留米藩、肥後熊本藩兵らとともに小倉口の戦闘に参加し、長州藩の高杉晋作、山形狂介率いる奇兵隊と戦いました。(あまり戦闘には参加せず、損害は病死者のみ)
千人隊自体は戊辰戦争には参加することはありませんでしたが、離反して彰義隊に加わったり、官軍への日光無血開城の根回しを行ってから責任を負って切腹された方がいたりと、彼らも維新の波にのまれていきました。