ポンコツPAK-ブログサイド-

ミリオタ、エルンストによるブログです。
pixivでダラダラ描いてます。

ルノーFT17軽戦車(1918年・西部戦線)

2012-06-20 22:28:47 | ミリタリーな話題

WW1末期頃のルノーFT-17軽戦車(ジロド砲塔搭載型)。

第一次世界大戦後期に生まれた本車は単一の旋回砲塔を装備し、操縦/戦闘室とエンジン室を仕切った今日の戦車の基本レイアウトを初めて築き上げました。
さすがルノー!
武装はオチキス8mm機銃一挺か短砲身の37mm砲一門の二種類でした。


大戦間期のベストセラーとなり、ロシア革命をはじめ1930年代に至るまで各地の紛争で運用されました。第二次大戦では旧式化しながらも装甲列車の装備や後方警備の支援車輛、
パルチザン狩りに砲塔を掃って牽引車、果ては「大西洋の壁」用砲塔トーチカとして長い一生を酷使されながらも強く生きた戦車です。
我が日本でも試験的に輸入され、戦車部隊の基礎を築くのに一役買いました。

フランス兵の軍装は1915年から採用された水色(正確には”ホリゾンブルー”)の軍服にM15アドリアンヘルメットを装備しています。
このトサカとエンブレムがいかにも”兜”という感じで、19世紀以来の胸甲騎兵や竜騎兵のヘルメットの延長線上にあるデザインですね。
戦車兵は俗にM18と言われている?前面バイザーを切り取ったM15ヘルメットを被り、革のコートを着ています。黒いベレー帽も彼らの標準装備です。

ドイツ兵は当時一般的なM15野戦服姿ですね。ヘルメットはM18シュタールヘルムの「イアー・カットアウト」型というもので、音を聞き取りやすくするために耳部分を切り欠いたタイプです。

戦車はバッチリ迷彩でキメてるのに、フランス兵は水色なんですね…。これでも大戦初期に比べて低視認性を重視してるんですよ。
(ズアーブやアルジェリア/セネガルなどの植民地軍など一部ではカーキ軍服も採用されてました)

ちなみに遠くで飛んどるのはニューポール28のつもりです。ちっさ!

ヘイル・コロンビア!横浜の合衆国海兵隊兵卒(嘉永七年)

2012-06-04 20:34:06 | 幕末

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1854年3月、横浜の幕府応接所前にて。アメリカ海軍東インド艦隊二度目の日本上陸時のアメリカ海兵隊の兵卒です。
1852年式礼装を着用し、整列する姿が描かれています。
シャコ帽や燕尾式の制服の形状は1830年代のイギリス陸軍の制服に準じているみたいです。
1859年に服制が改まり、シャコ帽の形状変更とケピ帽の採用、フロックコート式制服へと変化しました。
白い負い革の胴乱や銃剣帯は1860年代末まで使われているみたいです。

この時期の海兵隊の服装は米墨戦争と南北戦争に挟まれてるせいかとても少ないです…。(さる資料と格闘しました…絵が少ないうえに細かい英文なんだもん)
シャコの帽章はたった一枚の兵卒の写真から復元。それ以前の陸軍と同じような鷲のみの図柄から、現在のものとよく似た錨の上にワシの止まった構図となってますね。
(でも1859年からは一時的にラッパ章になっちゃいますが)

持っている銃は古いM1816フリントロックマスケット銃を雷管式に改造した69口径滑腔式マスケット銃です。管打ゲベール筒ですね。
ミニエ式弾丸のP1855が採用された後も、南北戦争の第一次マナサス会戦あたりまで合衆国海兵隊(ほか多くの南北地上部隊も)は滑腔式マスケット銃を使用してました。

隣にいるのは「横浜上陸図」に描かれている日本の鉄砲同心で、旗印から小倉藩小笠原家中と思われます。
浅葱色の足軽半天に股引脚絆(膝がタッツケ袴っぽくふっくらと描かれてますが、洋式調練導入まで足軽が袴をはく風習はなかったようので股引にしました)、
肩には火縄銃の入った革製の鉄砲袋と思わしきものを担いでいます。

ちなみにこのころすでに、神奈川奉行所では異国船に備えて洋式砲に加え、長崎で購入されたフリントロック式マスケット銃が備えられていたそうです。

背景のペルリも1852年式礼装で描いてみたよ!ちょっと久○田ペリー入っちゃったけど…。

おまけ

こちらは前年の1853年、初めて日本に上陸した際の夏用トラウザーズの海兵隊員。
日本人が初めて目にしたマリンコーの軍装でした。