ポンコツPAK-ブログサイド-

ミリオタ、エルンストによるブログです。
pixivでダラダラ描いてます。

南軍・騎兵軍曹(1863)

2015-07-22 21:38:28 | お絵かき

南北戦争時の南軍の騎兵です。
主に下馬して銃で戦ったり、機動力を生かして敵地後方で兵站襲撃したり電柱引っこ抜いたりしてました。
アイパッチ+南軍制服って古い西部劇映画の悪役みたい。

軍服は黄色い兵科色の襟と袖口がついた灰色のシェルジャケットに民生品のスロウチハットをかぶっています。前をめくり上げるのが当時の騎兵によく見られるスタイルです。
例にもれず彼らの軍装のバリエーションは豊富で、紺の鉢巻に黄色いトップのケピ帽も被られました。

銃はリッチモンドM1862カービンで、占領した合衆国ハーパーズフェリー造兵廠で接収した機械と部品で製造された1855ライフルマスケットのコピー”リッチモンドライフル”の短縮版です。
元々3つバンドの小銃をそのまんま短縮して"カービン"にしたため、本来この時代の騎兵銃では定番の、機関部左側の騎兵スリング用リングがありません。
また製造工程での混乱か、ストックと第1バンド部以外に、トリガーガード部にもスリング用スイベルリングが残っちゃってます。そのまんま感満載!

拳銃はグリズウォルド&ガニソン社製のコルト51ネイビーの南部製コピーで、フレームが真鍮で製造されておりました。
鋼鉄材の不足から来たものでしたが、これはこれでかっこよくて好きです。

サーベルも当時南部で製造されたタイプです。基本形は合衆国軍が戦前定めた各種兵科用刀剣のコピーでした。細部の違いは茶革のグリップ、ベルト用の輪を嵌める金具が真鍮であることなどです(おそらく上記の拳銃と同じ鋼鉄材不足が原因でしょう)。全体的に北部製との大きな違いは作りが粗いことでした。(具体的にはグリップの金線が捩じられていない・刀身に溝が無いなど)

彼らは騎兵のはずなんですがサーベルすら装備していないことも多かったようで、馬上でカービン+2挺拳銃という西部劇映画のようなスタイルが主流でした。下馬戦闘する騎兵というと”龍騎兵”という言葉がありますが、実質彼らは騎馬ライフル兵(騎乗+ライフル銃の、フロンティア辺境の民兵隊などにみられたスタイル)と区別があまりなかったようです。

赤熊の官軍兵士(明治元年)

2015-07-03 16:44:55 | 幕末


赤熊(しゃぐま)こと赤い熊毛頭をかぶった新政府軍の兵隊さんです。(所属藩の合印は画面の死角にあると思ってください)。

服は古写真で見かける長マンテルにちょっと裾の丈が短くて足首がチラ見えしてるズボン。
刀帯は現存している和製の物を参考にしました。鹿革製で、表側に黒漆が塗られたものが現在にもつたわっております。
ベルトのバックルも古写真で見かける無地のスプーン型というものです。おそらく外国製の物を模倣した国産コピーとも考えられます。

このころ古写真では革靴の武士が写っておりますが、維新以降の明治の戦争くらいまで日本の兵隊さんは革靴よりも足袋+草鞋の組み合わせのほうが野戦で足に馴染んだようです。

刀の拵にフォトショの素材使って遊んでたらなんか派手になってしまった…。錦切れの柄もペイントツールでやってみました。錦切れは裏に総督府の判さえ押されていれば真偽がわかるので、表の錦の柄は様々なものが現存しています。

小銃は外火後装式のスタールM1858カービンで、パーカッションキャップとリンネル巻薬莢を使用するフォーリングブロック式銃です。機関部をオープンした状態で描いてみました。

熊毛頭ですが、以前記事でも書きましたが当ブログでは太田臨一郎『日本近代軍服史』など複数の専門家の方々の研究をもとにさせていただきまして、熊毛の色による藩の区別や階級区別は否定しております。

当時官軍かそうでないかは左上腕部に短冊状につけた「錦切れ」で行われており、各藩の識別は肩や袖に直接縫い付けたり、上腕部に錦切などとともに短冊状につけた「合印(袖印・肩印)」で行われました。
また、大・中・小・半の各隊長クラスはそれぞれ定めた図案の指揮用の小旗(フラフ)を定めており、それで指揮官を識別したようです。

「土佐=赤、薩摩=黒、長州=白」の記述は『戊辰物語』の上野戦争のくだり「根津のほうから進んだ長州は白い毛、土佐藩は赤い毛をしてゐる」が元ネタのようですが、土佐藩はこの時北関東へ兵を進めており、上野戦争へは参戦しておりません。
「本能寺合戦図」など上野戦争を描いた絵図などには黒門口を攻める赤熊の兵士がよく描かれていますが、このカラーリングが事実とすれば(錦絵だし信ぴょう性は薄いけど)戦闘の場所を考えると彼らは薩摩藩兵や熊本、鳥取藩兵と思われます。

実際靖国神社の遊就館に薩摩藩士の遺品の白熊(はぐま)が現存しています。黒じゃないんです。
高知県歴史民俗博物館に現存する土佐藩士の熊毛は白熊で、慶応四年一月の高松征討の際に被られたといういわれの物が現存しております。…江戸開城時の鹵獲品説も怪しくなってきますね…。

そういえば、奥羽越列藩同盟下の南部藩家老、楢山佐渡の肖像画も黒い熊毛の冠り物をかぶった姿で描かれていますね。

チャールズ・ワーグマンが『ジャパン=パンチ』に描いた漫画の中に当時の維新直前の幕軍将兵や新政府軍兵士の姿も見られますが、官軍の兵の中に熊毛っぽい被り物が散見されます。

画面左の絵は漫画絵ながら、当時の官軍兵たちの服装、特に帽子類を知るうえで貴重な資料に思えます。
画面右のほうはボサボサの散切り頭かも知れない…でもそれにしてはボリューミーなんだよなぁ…。



小林清親『絵日記』のフランケットを羽織った官軍兵
明治三年の演習時の新政府軍を描いた錦絵。被り物はバラバラで、赤、白熊毛の兵士も士官ではなく兵卒っぽいです。


元々このチベット原産のヤクの毛の製品は兜や鎧などの装飾品として戦国時代に輸入していたものです。
幕末の遺品には黒熊毛を韮山笠や先反り陣笠に植え付けたものが現存し、山国隊が「魁」前立付の熊毛陣笠を揃いでかぶっていたことは有名です。
しかし直にカツラのように被るタイプ(中に籠状のライナーがある)もあり、結局のところなんでこんなもんが流行したのかはいまだ研究が進められているようです。