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ポンコツPAK-ブログサイド-

ミリオタ、エルンストによるブログです。
pixivでダラダラ描いてます。

佐賀藩のアームストロング砲(慶応四年)とスペンサーカービン

2012-05-04 11:00:51 | 幕末


アームストロング砲です。
幕末モノなどではだいたい名前の登場する有名な大砲です。
日本では薩摩藩と佐賀藩が輸入しており、佐賀藩が2門のコピー製造に成功しました。実戦で実際に使われたのは6ポンド砲2~4門(いずれも佐賀藩。国産砲があったかはかは不明)だったようです。

イラストは佐賀藩製のコピーのほうではなく、輸入使用されたと思われる本家イギリスのアームストロング6ポンド野戦砲のほうです。

口径は6.4センチと小さく、射程、貫通力には優れていても榴弾効果は四斤砲などより劣っていたみたいです。
世間で言われるような新式の最強砲では全然なかったようです。

本家英軍の艦載砲も故障が多かったようで、構造はまだまだ過渡期のものでした。
西南の役くらいまで明治陸軍でも前装式の長四斤山砲が主力だったことがそれをうかがわせます。

アームストロング砲がすごかったのは威力ではなく、日本の一外様の藩がこの新式技術をコピーしたという事実でしょう。

というか写真が佐賀藩製のものしかなくて、本家のほうを海外サイトで探しまくりました。砲架に複数のバリエーションがあるみたいです。
(ニュージーランドのリエナクターが使ってました。ウラヤマシス)

佐賀藩の砲兵も描いてみました。薩摩藩のハップリそっくりの銃陣笠を被っています。服装は昭和期の絵図「佐賀藩上野砲撃図」や幕末期の古写真、書籍では「日本近代軍服史」「武器と防具 幕末編」など複数を参考にミックス。洋式軍服に足元は和式の脚絆と草鞋です。

佐賀藩と言えば(?)スペンサー騎銃ということで歩兵も描いてみました。こちらは筒袖ダンブクロに同じ銃陣笠、
スペンサー銃専用の10本入りマガジンケースとカービン銃用スリングを装備しています。

佐賀藩はこれら新式装備でかためていたように思われがちですが、実際には多くの藩と同じように、
主力は前装式のエンフィールド銃、火砲は四斤山砲が主でした。

たとえば、スペンサー銃のリムファイア式金属薬莢は当時の日本で製造ができず、100%輸入に頼ってました。
(前装銃のハトロンやシャープス銃のリネン/紙製薬包は可能でした)
スペンサー銃を扱う兵には再三にわたって弾薬を節約するようにお達しが出ていたようです。せっかくの連発銃なのに…。
あと、この銃はレバーアクションではありますが、ウィンチェスター銃のようにハンマーとレバーが連動しません。
レバーを起こす前にハンマーをハーフコックにしておかないと暴発する危険があったようです。
http://www.youtube.com/watch?v=iCeXtqUgMJo
↑歩兵銃タイプの射撃動画。



こないだの休みを使って八王子にいってきました。
ちょっと収穫があったので、発表できるかもです。

白虎隊(会津藩・士中白虎二番隊。慶応四年八月)

2012-03-15 21:00:34 | 幕末


戊辰・会津戦争時の会津藩・士中白虎隊隊士です。そのなかでも飯盛山で自刃したことで知られる士中二番隊の服装です。演武や一部の絵図などの切袴と違い、黒マンテルにズボンというのが一般的な服装だったみたいです(マンテルは各家でも自作させてたようです)。
持ってる水筒はアメリカ南部製の北軍コピー品です。絵に描いている「CS」バックルは現存してませんが一緒に持ってきた可能性もあります。
なお、日新館生徒の遺物の中には無紋?のスプーンバックル式のベルト(和筒用改造胴乱付属)が現存しています。

このころの会津藩の火器や装備などはスネル商会が持ち込んだ南北戦争時の中古品でした。白虎隊の中にも灰色のズボンを履いていた方がいたそうです。西のグラバーや東のスネル、そのほか多くの武器商人たちが南北戦争の中古品を日本に売り込み、中には前の持ち主の名前が入ったものも発見されています。

銃はヤーゲル銃(ミニエー銃以前の狩猟/猟兵用ライフル。球形弾を布や薄革でくるんで装填する)の中からチョイスしました。
白虎隊の火器はゲベールかこのヤーゲル銃で、ミニエー銃はおそらく朱雀隊などの主力部隊に支給されたものと思われます。
現在の会津でも少数ですが短エンピール銃などが発見されてるそうです。
この頃の会津藩はエンピールなどの各種ミニエー、ゲベール、ヤーゲルなど銃の装備が不統一で、部隊ごとに水準が異なっていたようです。

韮山笠の文様と、朱鞘の大小刀のデザインは「白虎隊自刃図」を参考にしました。絵図自体は昭和期の作ですが、筆者の方は会津戦争経験者です。また、韮山笠は現存するものもこのように金泥で彩られたものが多いです。(記述では白虎隊は帽子は付けずとあります。伊藤悌次郎のみは軍帽を被っていたとも。アメリカ軍のマクレラン帽やフォレージキャップの可能性あり?)
前回の新政府軍兵士と比べてみますと、改めて合印や錦切れの大切さがわかります…。そして両者の装備の違いも…。

戊辰戦争時の新政府軍兵士(明治元年) 赤ゲットの起源

2012-02-11 21:26:08 | 幕末



会津戦争も後半くらいの頃の官軍兵士。

左は薩摩藩の喇叭手で、半首笠(骨董ではトンキョ帽の一種に分類?)にマンテル姿。駄荷袋を背負ってスナイドル銃を携行しています(機関部をよくみないとわかんない…)。
首に手拭いを巻いているのはたまに武士の写真にみられるモノを参考にしたものです。
ラッパは会津の記念館にのこるものを参照。
鳥羽街道において、薩摩藩兵最初の射撃を伝達した英式喇叭譜「Commonce Firing(撃ち方始め)」によって戊辰戦争の火ぶたが切られました。

右は所属不明のどっかの藩兵です(合印がないと敵味方の識別すら困難でした…)。中古軍服のサックコートに白熊毛頭をかぶってますね。
ディテールは下記に記す「越中島景色之図」に描かれた軍装のほか、古写真や現存する実物資料を基に描きました。

熊毛頭は広く言われているような「薩摩=黒、長州=白、土佐=赤」という識別は実際には無かったようで、士官特有の被り物でもなかったようです。津藩では殿様や士官が被っていますが丹波山国隊のように一隊揃いで被っていたり、変な流行だったみたいです。
明治元年九月、東征軍将兵に防寒用のブランケットが下賜されました。赤や緑で黒いラインが二本入ったデザインのものが確認できます。「赤ゲット」の始まりです。


小林清親の「絵日記」に描かれた新政府軍の帰還兵。熊毛を被ってますね。


「越中島景色之図」より。おそらく調練中の新政府軍兵士(どこの藩かはこの絵からでは不明)を描いたもので、赤/白熊を被った兵士や韮山笠に洋式軍帽、もしくは無帽に鉢巻の兵士がごちゃまぜで行進してます。
これは維新後間もなく、明治三年12月に軍服が制定する以前に描かれたものと思われますが、東征時の新政府軍の軍装の状況を垣間見ることができます。マンテルに交じって赤や紺のブランケットにひもを通して纏った兵士が見えます。

すみません。幕末軍装としてのブランケットを紹介したところで、今回はここまで。それでは!

謹賀新年!幕府組合銃隊司令官

2012-01-05 21:48:38 | 幕末


明けましておめでとうございます。新年は幕末軍装で迎えさせていただきます。
慶応三年正月に描かれた錦絵「調練歩行の図」より、幕府陸軍・組合銃隊の司令官を描いてみました。
赤い笹縁と袖口に折り返しの付いた紺か紫のレキション羽織に緋色のベスト、金で破軍星と雲の描かれた韮山笠をかぶっています。

絵では後に続く鼓手は黄色のそぎ袖羽織、笛手は紺のレキションにバスドラム担当は緋色のレキション。教導方の下士官は紺のそぎ袖羽織を着ているようで、兵卒はいたって普通な韮山頭巾に筒袖ダンブクロ姿です。しかし隊長のみならず、楽手も下士官も革靴履きです。
一隊ごとに相当金かかってます…。

慶応二年の兵制改革では洋式銃隊の拡充を図るべく、従来の歩兵組とは別に旗本の石高に合わせて決められた数の兵卒を雇わせ、雇い主の旗本を士官とする「組合銃隊」制を定めました。
これは七千石以上の家で歩兵小隊が一個出来る計算でしたが、六百石くらいだと十個以上の家の人員を合わせなければ小隊が揃いませんでした。
これでは一個大隊作るだけで大変で、しかも各家から差し出された士官と兵員の質がバラバラという有様でした。
結局見直しが決定されて翌慶応三年九月に廃止となり、一度雇った兵士も解雇されました。その数実に4000人!この多数の失業者の群れは江戸の社会問題にもなりました(最も歩兵組も人員増強の必要があったため、再就職は可能だったでしょう)

その軍装ですが、士官兵とも各家・小隊ごとに朱色や黄色、萌黄のそぎ袖羽織に装飾の施された韮山笠や突盃頭巾など、それぞれが意匠を凝らして着飾っていたようです。
期間は短かったものの、その派手な姿が町人には面白く写ったようで、よく錦絵の題材にされて今日にその姿が残っています。
組合銃隊の一個大隊が日本橋を渡る図、越中島の訓練場で大規模な調練を行ってる図。また双六の題材などにも使われました。

軍装の一例
第一小隊は連雀町の皆川連之丞の隊にて真先に二つ巴の定紋染め抜いたる縮緬の旗を押し立て二人の鼓手は緋羅紗のそぎ袖に白羅紗揃ひの
戎服に金紋打ったる韮山笠を冠り歩兵は紺呉絽揃ひの服装にて笠は役員と同じものを戴き意気揚々たる後とに続いて第二番小隊は駿河台の…(太田臨一郎「日本近代軍服史」より)

それではこの記事をもって新年のご挨拶とさせていただきます。(なんて無理やりな…)今年もよろしくお願いします。

幕府陸軍・仏式伝習第一大隊兵卒

2011-10-17 00:09:20 | 幕末


ひさしぶりの更新になります…。長いこと申し訳ありません。
休日ですらなかなかペンを握ることがなくなってきました。ひたすら寝てるかもな…。

最近読んでる漫画は花沢健吾の「アイアムアヒーロー」と、かわぐちかいじの「兵馬の旗」今回は後者の影響を受けて
幕府陸軍、伝習隊の兵卒を描いてみました。
作中の伝習隊兵士はいまだでのメディアでは一番考証された姿で描かれていますが、贅沢を言うともうちょっとディティールをこう…ね。

なので描いてみました。
ケピの日除け布は「日覆い」すなわち騎兵伝習図に描かれてるように帽子にスッポリ被せるタイプであることが確認されています。
いつもお世話になってる「Men at arms series-Mexican adventure」によればフランス軍制式品はボタンもストラップも露出しない形状のようです。
上衣はフランス軍シャスール兵のメキシコ遠征時の半マンテルを参考に、赤いパイピングを施してみました。
これに関して根拠が次のイラストです。

ブリュネ大尉が描いた、太田陣屋を警備する伝習隊の兵卒。遠景で見づらいですが腰のあたりに切れ込みが入った上着を着ているのがわかります。
これは前述したメキシコ遠征時フランス軍服にも同様の特徴があること、伝習隊の記録にあった「赤い山形袖章」と同様、黄色い山形袖章が
シャスール兵の軍服に付いていたことなどから、その色替え風にしてみた次第です。
あと、海外サイトで見つけた1854年型背嚢(俗に言う「仏式ランドセル」)の実物ディティールアップ写真があったことに興奮し、
後姿も描いてみました。
ちなみにブランケットロールの上に乗っかってるのは簡易な飯盒です(蓋がなく、ちょっと深い皿くらいの感じです)。
M1845胴乱は腰の真後ろに回してますが、ズアーブ兵など一部の兵科は正面に装備してることもあります。
水筒は1856年型。空気抜きでしょうか、コルク付きの飲み口のようなものが二つ付いております。後年の水筒にも同じ特徴が見られます。
記録などにはありませんが行軍には必要なため、輸入していたと思われます。

銃器は漫画作品中に描かれていたシャスポーMle1866小銃で描いてみました。左側面から見た図が少なく、google先生で海外サイトを必死で探しました…。

歩兵組のランドセルの傾向とかその他色々

2011-07-28 18:16:25 | 幕末
 以前やった幕軍装備紹介の続きっぽいものです。ちょっと考察みたいな、そうでないような事をやってみました。

 元治元年(推定) 慶応二年(ILN1866)
慶応三年
 ランドセルの語源はオランダ語の"Ransel"。幕府陸軍で採用された背嚢のことです。
この時代の背嚢は大きく分けて、革を張ったものとタールなどの防水油布で作られたものとに分けられます。
前者はプロイセンやフランス軍、後者はイギリス軍やアメリカ軍などが使ってました。
蘭式陸軍で使われていたものは現存品がないので不明ですが、ILNのスケッチや、慶応期の錦絵や明治期に描かれた幕軍調練図など複数の資料を合わせて見ますと、
蓋を二本のバンドで留め、上部に一文字にブランケットロールを取り付けるタイプのようです。
伝習隊は前者のフランス軍のもの(M1854)をそのまんま使っております。


南北戦争初期まで使われていた「ハードパック・ナップザック」です。タールを塗ったキャンバスを木枠に張って作られてます。イメージとしては近い感じがします。
赤毛布は近場で買ったフリース。その上に防水具のガム・ブランケットを巻きつけて錦絵などのカラーイメージに近付けてみました。


ひっくり返してみます。バリエーションによっては追い紐の正面を固定するストラップが付いたものもあります。追い紐の右脇はフックになっており、戦闘時などにすぐ脱ぎ棄てられる設計になっております。

慶応三年(ILN)
ILNの装備方法をマネしてみました。北軍の水筒を用いてます(←水筒は少なくとも戊辰戦争時には輸入されてました)。

<ここから番外・輸入した個人装備編>


銅製のキャンティーン。これによく似たものが国内でコピー生産されていたようです。ILNの絵にも歩兵の腰に円形の水筒らしきものが描かれています。
慶応二年(1866ILN)


当時の写真によくみられるスプーン式ベルトバックルが手に入りました。幕府軍八王子千人隊の組頭や土佐藩兵など、多くの写真などで装備例が伺えます。


アメリカ式胴乱の中身をお見せしませう。蓋は二重になっております。

胴乱にはブリキのケースが二つ入っており、上段にパトローネ(紙早合)10発・下段に10発入りの包みを収納。計40発の弾薬を携行します。外側のポケットには工具を入れるようです。

これはエンフィールド銃用コンビネーションツールで、私が所持する唯一の実物南北戦争グッズです。



雷管盒も二重蓋になっており、中は羊毛が貼られていてパーカッションキャップを保護します。

ああ、肝心の衣装を紹介してませんが、筒袖ダンブクロの解説は、また今度にしよう…。

「坂本龍馬の銃」モデルガンとか色々

2011-07-18 22:29:08 | 幕末

絵も描かずに…また買っちゃった…。マルシンの「坂本龍馬の銃」ことスミス&ウェッソンモデル2アーミーリボルバーです。
龍馬や高杉さんだけでなく、幕府海軍の開陽丸の残骸から引き上げられており、戊辰戦争で広く用いられていたようです。明治期には軍用拳銃としての他”郵便物保護銃”として郵便配達夫の護身拳銃としても使われていました。

組み立てキットでございます。が、一筋縄で行くものではありませんでした。
ハンマーのパーツにだいぶヤスリをかけました。

トリガーとハンマーはちゃんと連動しますが、ここまで来るのに時間をかけた…。不器用な私の指はボッコボコです。

この銃の特徴、中折れ!ここもちょっとヤスリをかけないとキッチリハマりません。

龍馬ファンの女性の方や模型を作ったことない方には素直に完成品のものをオススメします…。あっちは桐の箱に入ってるしね。


以前に買ったCAW製レミントンニューモデルアーミーと比較。レミントンは44口径なのに対しこいつは32口径。同時代の銃ですが偉い違いです。

スミス&ウェッソンが1867まで持っていた特許、リムファイア式金属薬莢を用いたシリンダーです。現在の薬莢とは違い、リム部分に雷汞が入っており、この薬莢底部を叩いて発火します。下は同時期の他社のリボルバーが使っていたパーカッションキャップです。





もうひとつ買ったもの。コトブキヤのメタビーです。メダロット!ゲームはやらんかったけどアニメは見てました。おもしろかったなぁ。
パーツがきれいに色分けされており、その数も多いですが、モデル2アーミーを完成させた自分は…「もうなにも怖くない!」
すんなり具合が気持よかったです(ボールジョイントちょっと硬かったけど)。買って帰ってすぐ作っちゃいました。

反応弾だってばよ!(CV.竹内順子ってキャラ違うよ)あとリボルバー(謎の共通点。まぁどこがリボルバーやねんって言っちゃえばそれまでだけど)のスプリングギミック飛びすぎw。
まだ素組みですが、スミ入れくらいしようかな…。

アン…ヒュール!高島流砲術

2011-07-07 20:57:41 | 幕末


おひさしぶりです。暑くてもう…色々と工夫もしたかった気もするけどこれが限界ですょ…。

今から170年前、板橋区高嶋平の名前の由来となった、フリントロックマスケット銃を使用した戦列戦闘演武が行われました。
その時の砲術家、高島秋帆の門下生の軍装です。
笠はトンキョ帽とかペロトン笠と呼ばれる物で恐らくは西欧のシャコ―風にデザインしたと思われる陣笠で、
その奇抜なスタイルは物議を醸しました。
筒袖は立襟でボタン留め、タッツケ袴の脚絆部分も同様だったようですね。
「高島四郎太夫砲術稽古業見分之図」では全員が左の青い筒袖に淡い朱色っぽい立襟、
「阿蘭陀直伝高嶋流炮術巻」では戦列の後列2列が右の緑の筒袖となっております。
絵図にある三日月紋付のトンキョ帽は実在したようです。装備品のディティールはナポレオン戦争前後の欧米各国のものを参考に推測しました。
あれ、徳丸ヶ原演習はペリー来航前だけど「幕末」に入れちゃって…いいよね!(・ω<)
しかし、この高島流砲術完成の後に江戸初期の写本「雑兵物語」が出版刊行されるのだから、面白い事態だよなぁ…。

あと、幕末期の被り物に関して大変よいサイトを見つけました。トンキョ帽と半首笠のコレクションがすごい!慶応年間制定の幕府歩兵組陣笠と同様と思われるもののほか、例の朱色総角付の半首笠も見受けられます。

http://ogawa-korekusyu.info/

19世紀の歩兵の友!と幕府陸軍自作装備その他

2011-06-02 22:38:30 | 幕末

久々に幕末関連の記事を書くよ。絵ばっか描いてたからそろそろこういう話題も、ね。

休日なのでお料理でございます。南北戦争時のレシピを参考に、ハードタックを自作してみました。
幕府陸軍でも戦闘糧食として、この手の堅パンを支給してました。
今回二回目になりますが、今度はベーキングパウダーを入れず、強力粉のみで焼きました。試食してみましたが、案の定堅いです!まあこれもリエナクメントグッズのひとつですね。

軍装品を買うついでに購入したハードタック用型抜きです。決して中世の拷問器具じゃないのよ!でもこれ使ったのになぜ歪んだし。


もう一個作ったもの


某所から発売されるはずが諸々の事情でポシャってしまったので、自分で大雑把に造ってみました。
幕府歩兵組官給”真鍮胴金造脇差”です。
実はこれの原型はどこにでも売っている木刀。短いものをさらに実物の寸法に合わせてカットして、形状を整え、エポパテで鍔を固定。金具もパテで造りました。
栗形はあまった木片で追加。ちょっと位置が上過ぎたかな…。仕上げは漆スプレーとガイアカラーのブライトゴールドで色分け。
ちょっと鞘部分が細い印象を受けますが、なに遠目からはわかるまい…。戦国期の一部の雑兵や大名登城のさいに同行する小者たちの中には見せかけの為に、刀身のないダミーの脇差を支給してたそうですが、まさにそれだな…。


ついでに撮ってみた。アメリカ軍M1855型カートリッジケース(胴乱)とたしか輸出エンフィールド用だったかな?キャップポーチ(雷管盒)です。(形状が幕末期の写真や絵図などと近いものを買いました。)
日本で発見される胴乱やその国産コピー品もこれに近い形状をしています。(国産の革製品は鹿革で、黒漆で仕上げてあることが多いです)


エンフィールド用銃剣、革バンドと自作韮山笠。バンドは当時の写真にあったフレームピンバックルのものを自作しました。


装備品関連集合~。エンフィールドP1853ライフルマスケット(長エンピール)はデニックス製の改良型です。
短を買う以前にバイト代で購入。松陰神社の祭りや上山のリエナクメントで寝食を共にした私の相棒です。

その1はこんなところかな。まだ写真撮ってない装備品も公開しようと思います。見てる人、ついてきておくんなまし!

ところで最近配信されたらしいアイマス2の某ヴァンパイアガール動画をチラホラ見かけますが、………イイですねあれ。
というわけで誰か、マイディアヴァンパイアの衣装着たアイドルと、デハビランド・ヴァンパイア戦闘機のイラストを、オナシャス!(何言ってんだコイツ)

トワンテ山の赤隊・イギリス軍第一次横浜駐留部隊の軍装

2011-03-07 10:52:15 | 幕末


日沈まぬ国の兵士たち、日出づる国に来る。
ワーグマンのスケッチに描かれた姿を、当時の服制をもとに再現してみました。でもやっぱり一筋縄にはいかなかった…リエナクターの装備やコレクターのHPも参考にしました。
生麦事件などの一連の外国人襲撃を受け、イギリスは治安維持のため横浜へ陸軍部隊を駐留させました。そのあと主力部隊が入れ替わりながら、明治初期まで駐留は続きました。
幕末期の駐留軍主力歩兵部隊は以下の通り
元治元年:第20連隊(イーストデヴォンシャー)第2大隊※1881年ランカシャー・フュージリアと改称
慶応二年:第9連隊(イーストノーフォーク)第2大隊
慶応四年:第10連隊(ノースリンカーン)第1大隊※同大隊の楽隊長が日本近代音楽の礎を築いたフェントンでした。
その他、馬関戦争などで日本に従軍した部隊などはRA(王立砲兵)、RE(王立工兵)、RMLI(王立海兵軽歩兵)、歩兵第67連隊(サウスハンプシャー)の一部など、色々な名前が見られます。

1つめのイラストは元治元年一月二四日、横浜でオールコック卿を迎える第20連隊第2大隊分遣隊の兵卒と中尉。連隊フェーシングカラーのパールイエローで飾られた1856年型シングルブレストチュニック。P1861”クィルテッド”シャコー帽(戦列兵のポンポンは上白下赤)。
雷管ポーチ&胴乱、右腰にP59ボールバッグ。儀礼時の為かレギンスはなし。銃はエンフィールドP1853ライフルマスケット銃。
中尉は同将校用チュニックに深紅のサッシュ(下士官は右肩から)、P1822/45ソードを装備。一見兵用とほとんど同じように見えますがエポレット(紐上で左肩だけ)のデザインやベルトバックルも違います。



2つめは同年十一月三十日、鎌倉事件の下手人、清水清次の処刑に同行した同隊の将兵。雑嚢や水筒などの余分なものを付けてません。
帽子は”キルマーノック”フォレージキャップ(略帽)。正面に金色で連隊番号。頭頂部のポンポンは青。(擲弾=白で連隊番号上に金の擲弾章・軽=緑で同上にラッパ章)。

この一週間近くの労力ががほぼすべてこの絵の為に費やされました…。ああ、なんか達成感。
背景はさんざん迷った挙句、元ネタのスケッチから模写しました。

第9連隊なんかはなんか黒っぽいジャケット(P59ファティーグジャケットか?)を着ている絵なんかもあったり、まだまだ研究の余地ありですね。