ポンコツPAK-ブログサイド-

ミリオタ、エルンストによるブログです。
pixivでダラダラ描いてます。

赤熊の官軍兵士(明治元年)

2015-07-03 16:44:55 | 幕末


赤熊(しゃぐま)こと赤い熊毛頭をかぶった新政府軍の兵隊さんです。(所属藩の合印は画面の死角にあると思ってください)。

服は古写真で見かける長マンテルにちょっと裾の丈が短くて足首がチラ見えしてるズボン。
刀帯は現存している和製の物を参考にしました。鹿革製で、表側に黒漆が塗られたものが現在にもつたわっております。
ベルトのバックルも古写真で見かける無地のスプーン型というものです。おそらく外国製の物を模倣した国産コピーとも考えられます。

このころ古写真では革靴の武士が写っておりますが、維新以降の明治の戦争くらいまで日本の兵隊さんは革靴よりも足袋+草鞋の組み合わせのほうが野戦で足に馴染んだようです。

刀の拵にフォトショの素材使って遊んでたらなんか派手になってしまった…。錦切れの柄もペイントツールでやってみました。錦切れは裏に総督府の判さえ押されていれば真偽がわかるので、表の錦の柄は様々なものが現存しています。

小銃は外火後装式のスタールM1858カービンで、パーカッションキャップとリンネル巻薬莢を使用するフォーリングブロック式銃です。機関部をオープンした状態で描いてみました。

熊毛頭ですが、以前記事でも書きましたが当ブログでは太田臨一郎『日本近代軍服史』など複数の専門家の方々の研究をもとにさせていただきまして、熊毛の色による藩の区別や階級区別は否定しております。

当時官軍かそうでないかは左上腕部に短冊状につけた「錦切れ」で行われており、各藩の識別は肩や袖に直接縫い付けたり、上腕部に錦切などとともに短冊状につけた「合印(袖印・肩印)」で行われました。
また、大・中・小・半の各隊長クラスはそれぞれ定めた図案の指揮用の小旗(フラフ)を定めており、それで指揮官を識別したようです。

「土佐=赤、薩摩=黒、長州=白」の記述は『戊辰物語』の上野戦争のくだり「根津のほうから進んだ長州は白い毛、土佐藩は赤い毛をしてゐる」が元ネタのようですが、土佐藩はこの時北関東へ兵を進めており、上野戦争へは参戦しておりません。
「本能寺合戦図」など上野戦争を描いた絵図などには黒門口を攻める赤熊の兵士がよく描かれていますが、このカラーリングが事実とすれば(錦絵だし信ぴょう性は薄いけど)戦闘の場所を考えると彼らは薩摩藩兵や熊本、鳥取藩兵と思われます。

実際靖国神社の遊就館に薩摩藩士の遺品の白熊(はぐま)が現存しています。黒じゃないんです。
高知県歴史民俗博物館に現存する土佐藩士の熊毛は白熊で、慶応四年一月の高松征討の際に被られたといういわれの物が現存しております。…江戸開城時の鹵獲品説も怪しくなってきますね…。

そういえば、奥羽越列藩同盟下の南部藩家老、楢山佐渡の肖像画も黒い熊毛の冠り物をかぶった姿で描かれていますね。

チャールズ・ワーグマンが『ジャパン=パンチ』に描いた漫画の中に当時の維新直前の幕軍将兵や新政府軍兵士の姿も見られますが、官軍の兵の中に熊毛っぽい被り物が散見されます。

画面左の絵は漫画絵ながら、当時の官軍兵たちの服装、特に帽子類を知るうえで貴重な資料に思えます。
画面右のほうはボサボサの散切り頭かも知れない…でもそれにしてはボリューミーなんだよなぁ…。



小林清親『絵日記』のフランケットを羽織った官軍兵
明治三年の演習時の新政府軍を描いた錦絵。被り物はバラバラで、赤、白熊毛の兵士も士官ではなく兵卒っぽいです。


元々このチベット原産のヤクの毛の製品は兜や鎧などの装飾品として戦国時代に輸入していたものです。
幕末の遺品には黒熊毛を韮山笠や先反り陣笠に植え付けたものが現存し、山国隊が「魁」前立付の熊毛陣笠を揃いでかぶっていたことは有名です。
しかし直にカツラのように被るタイプ(中に籠状のライナーがある)もあり、結局のところなんでこんなもんが流行したのかはいまだ研究が進められているようです。

たいへん長らくお待たせいたしました。スタール拳銃を持つ幕府陸軍歩兵差図役(慶応二~三年)

2015-03-03 20:22:45 | 幕末
たいへんお久しぶりです。管理人でございます。
一年以上にわたり更新をサボってしまいました…。仕事が忙しいとかそういう言い訳がましいところではなく、完全にブログというものが生活習慣から外れたまま一年を過ごしておりました。
こんなブログにも更新を楽しみにしている方々を放置してしまい、大変申し訳ございませんでした。



また銃買った話になりますが、先日ハートフォードよりモデルガン”スタールM1858アーミー”リボルバーが発売。珍しすぎるラインナップに思わず衝動買いしてしまいました。
アメリカ南北戦争時に流通し、さる西部劇映画でクリント=イーストウッドが使用したことでも有名なダブルアクション・リボルバーございます。
初めて当時のダブルアクションを再現したものに触れましたが…シングルアクションに切り替え利くのはいいですが、後ろのトリガー操作とこんがらがってしまいそうで何ともめんどくさい機構だという感想しか…。
こりゃシングルアクションといえコルトには勝てないわけだと痛感した気がします。

この銃、日本国内でも古式銃として登録されている物が現存しているようで、少数だとは思いますが幕末期に日本へ流れたようです。

というわけで、慶応二~三年当時の幕府陸軍、歩兵差図役(旧軍の陸軍中尉相当)とともに描いてみました。

私が好きな、というか描き慣れた組み合わせの階級を示す陸軍笠・黒いレキション羽織に立襟のチョッキ・ズボンに革靴。装備は指揮鞭に拳銃・バフ革の剣吊ベルトに茶色の突兵拵の日本刀・腰には拳銃の弾薬盒と雷管ポーチを取り付けたスプーンバックルのベルト。

これまで調べてきた文献・絵画・古写真などから好きなものを組み合わせて描いた次第。何せ陣笠の文様・筒袖羽織と家紋の色・ズボンをはくこと以外は規定がないので、士官個人の趣味でいくらでもバリエーションが存在します。

今一度ペースを取り戻していきたいと思いますので、何卒、生暖かい目で見守ってやってくださいませ。これからもよろしくお願いいたします。

近況報告(たいしたことないけども)KTW・スペンサーカービン買ったよ

2014-02-21 22:45:54 | 幕末
御無沙汰してしまって申し訳ありません。
体のいろんなところを悪くしつつpixivでイラスト更新してました。こっちは放置状態ですみません。

ちょっとだけ近況報告をば。
前々から「出たら絶対買う」と豪語していたKTWのエアガン・スペンサーカービン。まさかのエアコッキングで18万5000円という高価格商品となるとは思いもよりませんでした。


自分は…




買いました!発売当日に。

重量は実銃通りとはいかないもののずっしりと重いです。
ハンマーとレバーの操作手順は実物どおり。ハーフコックでセーフティがちゃんと掛かります。なんかハンマーが異状に軽い。
装弾はちょっと変わってて、実銃通りに銃尾の挿弾子を引き出したかと思えば途中で止まり、レバーを引き起こしてトリガー前の穴からBB弾を入れる構造となっております。装弾数34発(弾倉7本分-1発分)

ためしに事前購入したカービン用スリングに引っかけてみたけど、なんか銃自体の重みでリングが曲がりそうで不安になるよ…。

ちゃんとしたサバゲーマーでもない俺じゃあんまりレポらしいレポ書けない…他の有志諸君に購入レビューを丸投げしたい!(無責任)

榎本艦隊旗艦!フリゲート・開陽(明治元年)

2013-12-26 23:49:00 | 幕末


榎本艦隊旗艦。スクリュー推進木造35門フリゲート、開陽丸です。でも雨女・時化女。
江差に復元船もあるみたいですね。いってみたい!

カラーリングは絵画を参照。艤装と一体化しているフロックコートと帽子は
遊就館に現存する榎本武揚の軍服を基にしました(飾りが残ってないので写真も)
右手のは沈没地点で薬莢が引き揚げられたM1862ガトリングガンをピストル風にしたものです。

砲は当初の26門からイギリスで35門に増強。プロイセンのクルップ製ライフル砲やアメリカ製9inchダールグレン滑腔砲追加装備したようです。

鳥羽伏見の戦いのさなか、瀬戸内海で薩摩の春日丸と交戦。榎本艦隊旗艦として品川を脱走しました。
箱館政権成立後、江差への攻撃支援時に時化に会い、座礁、沈没しました。


これで箱館占領時の軍艦は描いたぞ!あと接収されて艦隊に組み込まれた高雄丸も詳細がようやくわかってきた…

次はできれば大晦日に更新したい!

王室御用船HMSエンペラー・蟠龍丸(明治2年)

2013-12-22 22:45:28 | 幕末

元イギリス王室ヨット、幕府海軍御用船/砲艦の蟠龍丸です。

1858年、日英修好通商条約の手土産として英国より将軍に献上され、日本で砲艦に改造されました。
箱館湾海戦では松岡磐吉艦長指揮のもと、官軍の朝陽丸を爆沈させたことで有名です。
王室御用船だけあって内装は赤天鵞絨の絨毯に鏡張りの壁面など絢爛たるものだったようです。
箱館戦争時、松前城への艦砲射撃にあたり、城の台場からの反撃で24斤砲が命中、幸い大事には至りませんでしたが、その際に内装の鏡は破損したようです。

武装は砲4~5、6門(資料により複数あり)。今井信郎『蝦夷之夢』では朝陽丸を轟沈させたのは3番砲の『12斤「ナポレヲーン」「カーン」』と記述されており、
6~12ポンドの小口径砲が搭載されていたようです。

朝陽艦撃沈後に陸へ乗り上げて乗員は五稜郭へ脱出、船は焼かれました(自焼か官軍放火の2説あり)。
戦後、焼け残っていた船体はイギリス人商人の手で上海で修復され、2本マスト練習艦として日本海軍”雷電”となり海軍兵学寮で1888年まで使われ、
その後は民間へ無償譲渡。雷電丸として捕鯨船など役割を転々とし、1897年に解体されました。

アボルダージュ!幕府海軍外輪コルベット・回天(明治二年)

2013-12-17 20:21:44 | 幕末


北上「あの武器だけは、やっぱ載せないでよね。頼んだよ」
回天「Mach dir keine Sorgen(心配するな)!今度こそあのフランス娘を乗っ取ってくれる!」(以上、会話のドッヂボール)

というわけで蝦夷共和国最後の旗艦、回天丸です。宮古湾海戦における単独でのアボルダージュで有名ですね。

全長76メートルの木造外輪式コルベット。幕府海軍時代の兵装は50ポンド施条長砲(おそらくダールグレン5.1インチライフル砲が該当する。絵で右手に持ってるのもそれ)1、40ポンドブレークリーライフル砲10、15拇ホウイッツル2。速度は最高10~12ノット。

元は見事な三本マストのコルベット艦でしたが、蝦夷上陸時には途中の台風で後部マストを残して帆を失い、変わり果てた姿になっておりました。
その時の姿が同行したフランス軍事顧問ブリュネのスケッチに残されております。
ちょっと模写してみました。宮古湾海戦や最後の箱館湾海戦まで、この後部マストと仮設前部マストだけを立てた姿で戦ったようです。
あと回天丸の絵画にある外輪覆の車輪型模様ですが、元のダンツィヒの絵にはなかったので後者を採用しました。

甲鉄奪取のため艦長の甲賀源吾、陸軍奉行並土方歳三と海軍奉行新井郁之助を乗せて宮古湾へ出動。
協同するはずだった高雄と蟠龍に合流できずに単身、アメリカ国旗を掲げて宮古湾へ突入。甲鉄の横腹へ突きかかり
「アボルダージュ」が実行されました。しかし、ガトリングガン(小杉雅之進の記述を参照すれば1インチ口径の1865型)などを用いた甲鉄艦内からの必死の抵抗で移乗攻撃は失敗、
乗り込もうとした新選組隊士や彰義隊士、艦長の甲賀をはじめとした乗員など多くの死傷者を出して宮古を去りました。
(この時甲鉄乗員が使用した”短槍”はおそらく和槍ではなく、当時の欧米艦に装備されていた移乗攻撃防止装備のパイク。甲板上で数人で槍衾を作って敵の乗り込みを防ぐもの)

箱館湾では機関故障により浮き砲台となって味方唯一健在だった蟠龍を支援。敵艦から100発以上の砲弾を受けながら戦い、
最後は官軍に放火(味方による自焼説もある)されて最期を遂げました。


二枚目は移乗攻撃カード(またかい!)。斬り込み隊のメンツは資料によってさまざまなので、ちょっと大雑把に。

プロイセン製でイギリスにいたこともあるので、フランス生まれの甲鉄艦とはどのみち仲良くなさそうですね…。

備前岡山藩・遊奇隊士(明治元年)

2013-11-30 22:21:48 | 幕末

唐突に戻る。

戊辰戦争時の岡山藩の農兵部隊・遊奇隊の兵士たちです。正規の武士が脇差を挿しているのに対し、彼らは大刀一本のみなので区別がつきます。
集合写真から軍装を再現してみました。ちなみに写真中では全員断髪しており、ザンギリ頭です。
出陣当初は紺筒袖・黒ダンブクロという服制でしたが、開港場で中古洋服を調達したようです。
右側の人物はネクタイらしきものをした開襟の紺マンテル上下に楕円形バックル(中の文字は読み取れませんがたぶんこれでしょう)、刀一本を携えております。

エンフィールドP1861小銃、胴乱負革、韮山笠と識別各章は実戦時を想定して付け足しました。
左袖と韮山笠の釘抜紋が合印です。
左は詰襟マンテルに東西各藩で見られるスプーン式ベルトバックル。そして上着よりも薄い色で濃い色の側線が入ったズボンを履いております。
おそらく北軍(アメリカ合衆国軍)の下士官用ズボンと思われ、写真中ではもうふた方ほど似たものを履いています。
韮山笠と錦章は付けたしました。

古写真中では釘抜の合印はなく、薩摩藩兵のように右肩に白布を巻いてますが、遊奇隊特有の印とは考えられず実戦では藩士と同じ白釘抜紋を右袖に付けていたものと思われます。
また錦章を右肩に付けていますがこれは別の藩士の古写真から引用いたしました。

彼らは房総半島の脱走撒兵隊討伐へ参加後に奥州戦線へ転戦、帰郷後はその功績から郷士となって廃藩置県までの短い間を末端士分として過ごしました。

オリジナル艦娘幕末編・甲鉄艦と千代田形

2013-09-27 20:59:50 | 幕末

もうちょっとだけお付き合いくださいませw。
オリ艦娘「CSS ストーンウォール」こと甲鉄艦「東」です。
フランスで南軍装甲艦として建造され、その後いろいろあって日本の幕府海軍が購入…のはずが政治的事情で新政府海軍の甲鉄艦となりました。
なので見た目は外国人、艤装は和製洋式戎服(レキション+義経袴)っぽくしてみました。官軍なんで錦切れと、その下の朱斜白布は「箱館海戦図」中の甲鉄に掲揚されてたものです。
大きな衝角は艦首ごとカービンっぽくして左手に持たせました。
11inchアームストロング砲が前と左右の砲門に方向転換して相手を狙います。
右手にくっついてるのが後部の戦闘室で4つの砲門が開いており、2門の6.4inchアームストロング砲がレールで方向転換して多包囲をカバーする構造でした。(ちなみに両者とも前装式で、有名な後装式は故障が多くて使われなかった模様)

この艦は宮古湾で旧幕海軍の回天艦にアボルダージュされたり、若き日の東郷さんが乗ってたりととても有名ですね。
フランス艦だから「~ですワ!」とかいうんだろうか…。





国産初の蒸気軍艦であるトップスル・スクーナー砲艦”千代田形”です。とうとう装甲すらなくなってしまいました。

彼女は”千代田”のつく艦としては最初で、艦これの千代田さんのおばあちゃんにあたります(?)。
石川島生まれの江戸湾育ち、隅田川口で産湯をつかい…。戊辰戦争では脱走軍に加わるも実戦をほとんど経験することなく箱館で新政府軍に捕獲、そのまま日本海軍練習艦として1888年(東艦と同年)に除籍。
その後は民間会社で漁船として1911年まで働き続けました。
主砲には文献によって諸説あり(十二斤クロップ砲×1 or三十听(150ミリ?)砲…明治以降?は後装式で知られる40ポンドアームストロングなど様々)副砲は6ポンド青銅砲×2でした。
パーカッションリボルバー風にしてみたら単発だからカンプピストルにも見えますね…。
衣装はブリュネのスケッチ内で長鯨丸の士官らしき方々が着ていた三斎羽織にしてみました。左袖のは幕府海軍のエンサインと日の丸を袖印っぽくしたものです。
小型艦なんでそのままちっこくしてみたよ!ねじり鉢巻させたらお祭りの半纏にも見えてきたような…。
出身が出身だからこの子の台詞はたぶん江戸弁だな…。一人称は「あたし」「あたしゃ…」だな多分。

【戊辰戦争】スペンサー銃のこと【南北戦争】

2013-07-21 20:34:42 | 幕末
お久しぶりです。
だらだらとこんなものを描いておりました…。

「八重の桜」会津戦争終結&KTW製エアガン発売記念!pixiv用に描いたものですがこちらにも丸ごとpします。
サッパリな方も少しでもご理解いただけたら幸いでございます。

表紙の方々は特徴的な半首笠をかぶった戊辰戦争時の薩摩藩兵とアメリカ南北戦争、1864年頃の北軍騎兵です。

























一番ケツのネタはなんなんだよ!という感じですが、実際に地方の幕末関連展示や書籍の古写真解説などでは
こんな感じで銃器の名前を平気で間違う事態がよくあり、それの風刺みたいなもんです。

上田藩・鼓手(慶応四年・長岡)

2013-05-10 12:11:44 | 幕末

唐突ですが、上田藩兵の鼓手です。北越戦争に参戦し、長岡藩と激戦を戦いました。

古写真で三人の鼓手が藩主松平忠礼とともに写っております。
軍服は三者三様でフロックコート、丈の少し短い丸襟のサックコート、肋骨風の飾りと袖口がボタンで飾られたシェルジャケットが確認できます。
他の集合写真ではシングルブレストやダブルブレストの洋服や、三斎羽織に胸に紋の付いたレキションなどが確認できます。
「忠」の字を標目にあしらった袖印と、襟の縞柄が識別章となっております。
(集合写真中にこの縞柄襟っぽいものが確認できますが、12人中一人だけです…本当に正式の識別章かこれ?)

被り物は藩主の物と思わしき陣笠以外、写真などには見当たりません。

洋式太鼓は古写真中ではロープテンション式(南北戦争時のものなどはこれが主流ですね)のものが1、他2つは金属製のテンションボルト式タイプが確認されます。

なお太鼓や軍服、袖印などは現存しており、上田市の博物館のHPから見れます。(太鼓はロープテンション式の国産コピー品のようです。)


おまけ(全然関係ないけど)



仕事の合間に夜なべして塗った「ワールドタンクデフォルメ」のティーガーI。
どうしても三色迷彩のものが欲しくって…ついでにマーキングとウォッシング塗装も(しょぼいけど)
一応ノルマンディのSS第101重戦車大隊のものです。