ポンコツPAK-ブログサイド-

ミリオタ、エルンストによるブログです。
pixivでダラダラ描いてます。

ポーランド軍兵士(1944年イタリア戦線)

2015-08-08 20:06:51 | ミリタリーな話題


イタリアはモンテカッシーノ攻略戦、ダイアデム作戦時のポーランド第2軍団第5”クレソーヴァ”歩兵師団第6"ルヴーフ"歩兵旅団兵士。

イギリス軍じゃないんです。電撃戦以後、イギリスへ亡命したポーランド軍は独自の軍服をイギリスの物へ着替え、戦い続けました。
イタリア戦線でポーランド第2軍団はイギリス第8軍へ属し、ドイツ降下猟兵などを相手に激戦を行いました。

連合軍のモンテカッシーノ一番乗りも彼ら(第2軍団所属の第3"カルパートィ"ライフル師団所属の第12ポジーリャ槍騎兵連隊)でした。

装備はほぼイギリス軍式で、お皿のようなMk.IIヘルメットにボタンの露出したP40バトルドレス。バフ色のP37ウェブギアといった具合。
ポーランド軍であることを示すのは各師団/旅団パッチやヘルメットに描かれた鷲くらいのものでした。

銃はリー・エンフィールドNo.1Mk.IIIやブレン軽機関銃などの英国製のほか、トンプソンM1928短機関銃などが装備されておりました。

背景の修道院は以前書いたやつの使い回しです。

米英連合軍所属のポーランド軍といえば「遠すぎた橋」でも出てきた独立パラシュート旅団も有名ですね。かれらもベレーの色と記章以外は英軍空挺部隊と同じ格好してますけどもね。
いっぽう東でソ連によって創設されたポーランド人民軍(LWP)などは灰色の4ポケット軍服にチャプカ型略帽など、まったく別系統の軍服も見られます。

南軍・騎兵軍曹(1863)

2015-07-22 21:38:28 | お絵かき

南北戦争時の南軍の騎兵です。
主に下馬して銃で戦ったり、機動力を生かして敵地後方で兵站襲撃したり電柱引っこ抜いたりしてました。
アイパッチ+南軍制服って古い西部劇映画の悪役みたい。

軍服は黄色い兵科色の襟と袖口がついた灰色のシェルジャケットに民生品のスロウチハットをかぶっています。前をめくり上げるのが当時の騎兵によく見られるスタイルです。
例にもれず彼らの軍装のバリエーションは豊富で、紺の鉢巻に黄色いトップのケピ帽も被られました。

銃はリッチモンドM1862カービンで、占領した合衆国ハーパーズフェリー造兵廠で接収した機械と部品で製造された1855ライフルマスケットのコピー”リッチモンドライフル”の短縮版です。
元々3つバンドの小銃をそのまんま短縮して"カービン"にしたため、本来この時代の騎兵銃では定番の、機関部左側の騎兵スリング用リングがありません。
また製造工程での混乱か、ストックと第1バンド部以外に、トリガーガード部にもスリング用スイベルリングが残っちゃってます。そのまんま感満載!

拳銃はグリズウォルド&ガニソン社製のコルト51ネイビーの南部製コピーで、フレームが真鍮で製造されておりました。
鋼鉄材の不足から来たものでしたが、これはこれでかっこよくて好きです。

サーベルも当時南部で製造されたタイプです。基本形は合衆国軍が戦前定めた各種兵科用刀剣のコピーでした。細部の違いは茶革のグリップ、ベルト用の輪を嵌める金具が真鍮であることなどです(おそらく上記の拳銃と同じ鋼鉄材不足が原因でしょう)。全体的に北部製との大きな違いは作りが粗いことでした。(具体的にはグリップの金線が捩じられていない・刀身に溝が無いなど)

彼らは騎兵のはずなんですがサーベルすら装備していないことも多かったようで、馬上でカービン+2挺拳銃という西部劇映画のようなスタイルが主流でした。下馬戦闘する騎兵というと”龍騎兵”という言葉がありますが、実質彼らは騎馬ライフル兵(騎乗+ライフル銃の、フロンティア辺境の民兵隊などにみられたスタイル)と区別があまりなかったようです。

赤熊の官軍兵士(明治元年)

2015-07-03 16:44:55 | 幕末


赤熊(しゃぐま)こと赤い熊毛頭をかぶった新政府軍の兵隊さんです。(所属藩の合印は画面の死角にあると思ってください)。

服は古写真で見かける長マンテルにちょっと裾の丈が短くて足首がチラ見えしてるズボン。
刀帯は現存している和製の物を参考にしました。鹿革製で、表側に黒漆が塗られたものが現在にもつたわっております。
ベルトのバックルも古写真で見かける無地のスプーン型というものです。おそらく外国製の物を模倣した国産コピーとも考えられます。

このころ古写真では革靴の武士が写っておりますが、維新以降の明治の戦争くらいまで日本の兵隊さんは革靴よりも足袋+草鞋の組み合わせのほうが野戦で足に馴染んだようです。

刀の拵にフォトショの素材使って遊んでたらなんか派手になってしまった…。錦切れの柄もペイントツールでやってみました。錦切れは裏に総督府の判さえ押されていれば真偽がわかるので、表の錦の柄は様々なものが現存しています。

小銃は外火後装式のスタールM1858カービンで、パーカッションキャップとリンネル巻薬莢を使用するフォーリングブロック式銃です。機関部をオープンした状態で描いてみました。

熊毛頭ですが、以前記事でも書きましたが当ブログでは太田臨一郎『日本近代軍服史』など複数の専門家の方々の研究をもとにさせていただきまして、熊毛の色による藩の区別や階級区別は否定しております。

当時官軍かそうでないかは左上腕部に短冊状につけた「錦切れ」で行われており、各藩の識別は肩や袖に直接縫い付けたり、上腕部に錦切などとともに短冊状につけた「合印(袖印・肩印)」で行われました。
また、大・中・小・半の各隊長クラスはそれぞれ定めた図案の指揮用の小旗(フラフ)を定めており、それで指揮官を識別したようです。

「土佐=赤、薩摩=黒、長州=白」の記述は『戊辰物語』の上野戦争のくだり「根津のほうから進んだ長州は白い毛、土佐藩は赤い毛をしてゐる」が元ネタのようですが、土佐藩はこの時北関東へ兵を進めており、上野戦争へは参戦しておりません。
「本能寺合戦図」など上野戦争を描いた絵図などには黒門口を攻める赤熊の兵士がよく描かれていますが、このカラーリングが事実とすれば(錦絵だし信ぴょう性は薄いけど)戦闘の場所を考えると彼らは薩摩藩兵や熊本、鳥取藩兵と思われます。

実際靖国神社の遊就館に薩摩藩士の遺品の白熊(はぐま)が現存しています。黒じゃないんです。
高知県歴史民俗博物館に現存する土佐藩士の熊毛は白熊で、慶応四年一月の高松征討の際に被られたといういわれの物が現存しております。…江戸開城時の鹵獲品説も怪しくなってきますね…。

そういえば、奥羽越列藩同盟下の南部藩家老、楢山佐渡の肖像画も黒い熊毛の冠り物をかぶった姿で描かれていますね。

チャールズ・ワーグマンが『ジャパン=パンチ』に描いた漫画の中に当時の維新直前の幕軍将兵や新政府軍兵士の姿も見られますが、官軍の兵の中に熊毛っぽい被り物が散見されます。

画面左の絵は漫画絵ながら、当時の官軍兵たちの服装、特に帽子類を知るうえで貴重な資料に思えます。
画面右のほうはボサボサの散切り頭かも知れない…でもそれにしてはボリューミーなんだよなぁ…。



小林清親『絵日記』のフランケットを羽織った官軍兵
明治三年の演習時の新政府軍を描いた錦絵。被り物はバラバラで、赤、白熊毛の兵士も士官ではなく兵卒っぽいです。


元々このチベット原産のヤクの毛の製品は兜や鎧などの装飾品として戦国時代に輸入していたものです。
幕末の遺品には黒熊毛を韮山笠や先反り陣笠に植え付けたものが現存し、山国隊が「魁」前立付の熊毛陣笠を揃いでかぶっていたことは有名です。
しかし直にカツラのように被るタイプ(中に籠状のライナーがある)もあり、結局のところなんでこんなもんが流行したのかはいまだ研究が進められているようです。

西部の南北戦争・その2 もうひとつの「グローリー」

2015-05-21 20:18:51 | ミリタリーな話題


タイトルでは西部って銘打ってるけどそれは地域的な話でありまして、南北戦争におけるこのあたりの戦線の呼び名は”ミシシッピ川流域戦線”となります。

”流血のカンザス”の時期を経て、戦争直前に準州から格上げされた自由州・カンザスの第1志願歩兵(有色人)連隊の伍長です。

映画「グローリー」でおなじみマサチューセッツ第54連隊がワグナー砦を攻撃する1日前、遥か西部のインディアン準州(現在のオクラホマ州)でも北軍黒人部隊がチェロキー族などのアメリカ先住民を主力とした南軍部隊と激戦を繰り広げていました。

カンザス第1連隊はミシシッピ川流域戦線におけるキャビンクリークやハニースプリングスの戦闘を北軍を勝利に導き、東のワグナー砦の戦いに並んで黒人兵士の勇敢さを示しました。

軍装は一般的な当時の北軍兵士の野戦装備です。フォレージキャップにサックコート、下士官用の側線のついた空色ズボンというものです。野戦では目立つためか将校下士官ともに兵卒用の無地のズボンをはくことも多かったようです。

小銃はスプリングフィールドM1842改造ライフルマスケット(元々滑腔マスケットだったM1842にライフリングとリアサイトを追加した在庫処分品)で、69口径のデカいミニエー弾を撃ちます。
彼らが装備していた小銃に関しては諸説ありましたが、書籍資料に明記されたもので描いてみました。

彼らが対峙していた敵部隊のうちのひとつがこちら↓

以前pixivに投稿した絵ですみません。

南軍将官でチェロキー族長でもったスタンド・ワティ准将のもと、インディアン準州で主力として戦ったチェロキー第1騎馬ライフル隊です。(イラストでは1863~4年ごろの軍曹という設定で描かせていただきました)
白人兵と同じ兵科色コードのついた黒いスロウチハットに軍曹の階級章付の灰色のシェルジャケット、鹵獲した空色のズボンにUS章バックルベルトという姿。
この絵ではホルスターに入ったコルト系パーカッションリボルバーにDガードボーウィーナイフを腰に装備し、銃身を切り詰めた双銃身ショットガンを持っております。この他にもエンフィールドP1861などのミニーライフルや
雷管式に改造された旧型狩猟ライフルなど様々な武装をしておりました。

ちなみに彼らを含む南軍インディアン旅団は、南北戦争の終結以後も2ヶ月以上戦い続けた「最後の南軍部隊」となりました。

そんなわけで、はるか西部では北軍の黒人部隊と南軍のインディアン部隊という両陣営の非白人部隊同士が銃火を交えるという現象が起きていたのであります。

西部の南北戦争その1・境界州の南軍ゲリラ(ブッシュワッカーズ)

2015-05-14 21:05:28 | ミリタリーな話題

休みがない!(涙)再開宣言出したのに全然絵を描いてませんでした。とりあえず一枚。
Hurrah!For Southern rights, hurrah!

南北戦争時、境界州だったミズーリ州内部は北部派と南部派に分裂。南北両陣営に州から兵士が参加し、州内では南部派ゲリラと北軍や民間人との間で凄惨な戦闘が行われていました。

その中でミズーリからカンザスにかけて暴虐の限りを尽くしたウィリアム・クァントリル率いるゲリラ部隊、クァントリルレイダースの民兵だったジェシー・ジェームズの服装です。
この連中が何よやったかは、まぁwikiを見てもらえばわかります。↓

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AE%E8%99%90%E6%AE%BA

映画の題材になったりでご存知の方も多いと思いますが、戦後兄のフランクやゲリラ仲間のヤンガー兄弟などと”ジェームズ=ヤンガーギャング”と呼ばれた強盗団を結成して列車や銀行を襲いまくった、あのジェシー・ジェームズでございます。
1876年のヤンガー兄弟逮捕後に組んでいたフォード兄弟に賞金目当てで裏切られ、1882年に背後から撃たれて殺されました。
彼の半生はウォルター・ヒルの映画「ロング・ライダース」(高校生の頃に昼のTV放送で見て以来好きな映画)や、最近だとブラッド・ピットが演じた「ジェシー・ジェームズの暗殺」などが知られてますが、題材のほとんどは南北戦争後をメインにしています。


当時南軍兵士の間で野戦服としても使用されていた”戦闘シャツ”(正式な色や形はなく、通常シャツの上から重ね着された)を着用し、鹵獲品の北軍下士官用ベルトバックルを着用しています。クァントリルの部下の写真には同じベルトをした隊員が複数おり、鹵獲物資の中でも人気があったのかもしれません。
銃は写真中では44口径コルトM1860リボルバーを手や腰に合計3挺も装備しています。いくらアメリカ人でもあんなでかいリボルバー3挺も腰にぶら下げるのはさすがに…なので絵では2挺にさせていただきました。

他の写真ではレミントンニューモデルアーミーやコルト51ネイビーなどの拳銃に各種小銃/カービン、ボーウィーナイフなどがみられます。


自分がこの辺りの歴史に最初に触れたのは厨房の時に読んだ伊藤明弘の「ベル☆スタア強盗団」でした。

たいへん長らくお待たせいたしました。スタール拳銃を持つ幕府陸軍歩兵差図役(慶応二~三年)

2015-03-03 20:22:45 | 幕末
たいへんお久しぶりです。管理人でございます。
一年以上にわたり更新をサボってしまいました…。仕事が忙しいとかそういう言い訳がましいところではなく、完全にブログというものが生活習慣から外れたまま一年を過ごしておりました。
こんなブログにも更新を楽しみにしている方々を放置してしまい、大変申し訳ございませんでした。



また銃買った話になりますが、先日ハートフォードよりモデルガン”スタールM1858アーミー”リボルバーが発売。珍しすぎるラインナップに思わず衝動買いしてしまいました。
アメリカ南北戦争時に流通し、さる西部劇映画でクリント=イーストウッドが使用したことでも有名なダブルアクション・リボルバーございます。
初めて当時のダブルアクションを再現したものに触れましたが…シングルアクションに切り替え利くのはいいですが、後ろのトリガー操作とこんがらがってしまいそうで何ともめんどくさい機構だという感想しか…。
こりゃシングルアクションといえコルトには勝てないわけだと痛感した気がします。

この銃、日本国内でも古式銃として登録されている物が現存しているようで、少数だとは思いますが幕末期に日本へ流れたようです。

というわけで、慶応二~三年当時の幕府陸軍、歩兵差図役(旧軍の陸軍中尉相当)とともに描いてみました。

私が好きな、というか描き慣れた組み合わせの階級を示す陸軍笠・黒いレキション羽織に立襟のチョッキ・ズボンに革靴。装備は指揮鞭に拳銃・バフ革の剣吊ベルトに茶色の突兵拵の日本刀・腰には拳銃の弾薬盒と雷管ポーチを取り付けたスプーンバックルのベルト。

これまで調べてきた文献・絵画・古写真などから好きなものを組み合わせて描いた次第。何せ陣笠の文様・筒袖羽織と家紋の色・ズボンをはくこと以外は規定がないので、士官個人の趣味でいくらでもバリエーションが存在します。

今一度ペースを取り戻していきたいと思いますので、何卒、生暖かい目で見守ってやってくださいませ。これからもよろしくお願いいたします。

近況報告(たいしたことないけども)KTW・スペンサーカービン買ったよ

2014-02-21 22:45:54 | 幕末
御無沙汰してしまって申し訳ありません。
体のいろんなところを悪くしつつpixivでイラスト更新してました。こっちは放置状態ですみません。

ちょっとだけ近況報告をば。
前々から「出たら絶対買う」と豪語していたKTWのエアガン・スペンサーカービン。まさかのエアコッキングで18万5000円という高価格商品となるとは思いもよりませんでした。


自分は…




買いました!発売当日に。

重量は実銃通りとはいかないもののずっしりと重いです。
ハンマーとレバーの操作手順は実物どおり。ハーフコックでセーフティがちゃんと掛かります。なんかハンマーが異状に軽い。
装弾はちょっと変わってて、実銃通りに銃尾の挿弾子を引き出したかと思えば途中で止まり、レバーを引き起こしてトリガー前の穴からBB弾を入れる構造となっております。装弾数34発(弾倉7本分-1発分)

ためしに事前購入したカービン用スリングに引っかけてみたけど、なんか銃自体の重みでリングが曲がりそうで不安になるよ…。

ちゃんとしたサバゲーマーでもない俺じゃあんまりレポらしいレポ書けない…他の有志諸君に購入レビューを丸投げしたい!(無責任)

遅ればせながら謹賀新年・南北戦争アメリカ北軍騎兵卒(1863)

2014-01-05 19:30:35 | ミリタリーな話題


「(わーい、レミントン支給されちゃったー♪スペンサー?何それ)」

明けましておめでとうございます。

1863年、ゲティスバーグ戦時の北軍騎兵です。カスター旅団のミシガン騎兵隊などは歩兵用1860スペンサーライフルで武装しておりました。(カービンはまだ発売されてない)
右手に持ってるのはレミントンニューモデルアーミーリボルバー。このスタイルのカッコよさは異常!CAWのモデルガン買っちゃったし。
北軍の騎兵は一兵卒から将校まで各種リボルバー拳銃1挺、1860軽騎兵サーベル一振り、各種カービン銃1挺で武装しておりました。
なおサーベル振りかざして突撃なんてことはあまりなく、主に下馬して射撃で戦いました。

午年だからね…馬描けよ!!

ああ~KTWのスペンサーカービンが待ち遠しい!!!いくら延びたって待つよ!買うよ!

榎本艦隊旗艦!フリゲート・開陽(明治元年)

2013-12-26 23:49:00 | 幕末


榎本艦隊旗艦。スクリュー推進木造35門フリゲート、開陽丸です。でも雨女・時化女。
江差に復元船もあるみたいですね。いってみたい!

カラーリングは絵画を参照。艤装と一体化しているフロックコートと帽子は
遊就館に現存する榎本武揚の軍服を基にしました(飾りが残ってないので写真も)
右手のは沈没地点で薬莢が引き揚げられたM1862ガトリングガンをピストル風にしたものです。

砲は当初の26門からイギリスで35門に増強。プロイセンのクルップ製ライフル砲やアメリカ製9inchダールグレン滑腔砲追加装備したようです。

鳥羽伏見の戦いのさなか、瀬戸内海で薩摩の春日丸と交戦。榎本艦隊旗艦として品川を脱走しました。
箱館政権成立後、江差への攻撃支援時に時化に会い、座礁、沈没しました。


これで箱館占領時の軍艦は描いたぞ!あと接収されて艦隊に組み込まれた高雄丸も詳細がようやくわかってきた…

次はできれば大晦日に更新したい!

王室御用船HMSエンペラー・蟠龍丸(明治2年)

2013-12-22 22:45:28 | 幕末

元イギリス王室ヨット、幕府海軍御用船/砲艦の蟠龍丸です。

1858年、日英修好通商条約の手土産として英国より将軍に献上され、日本で砲艦に改造されました。
箱館湾海戦では松岡磐吉艦長指揮のもと、官軍の朝陽丸を爆沈させたことで有名です。
王室御用船だけあって内装は赤天鵞絨の絨毯に鏡張りの壁面など絢爛たるものだったようです。
箱館戦争時、松前城への艦砲射撃にあたり、城の台場からの反撃で24斤砲が命中、幸い大事には至りませんでしたが、その際に内装の鏡は破損したようです。

武装は砲4~5、6門(資料により複数あり)。今井信郎『蝦夷之夢』では朝陽丸を轟沈させたのは3番砲の『12斤「ナポレヲーン」「カーン」』と記述されており、
6~12ポンドの小口径砲が搭載されていたようです。

朝陽艦撃沈後に陸へ乗り上げて乗員は五稜郭へ脱出、船は焼かれました(自焼か官軍放火の2説あり)。
戦後、焼け残っていた船体はイギリス人商人の手で上海で修復され、2本マスト練習艦として日本海軍”雷電”となり海軍兵学寮で1888年まで使われ、
その後は民間へ無償譲渡。雷電丸として捕鯨船など役割を転々とし、1897年に解体されました。