ポンコツPAK-ブログサイド-

ミリオタ、エルンストによるブログです。
pixivでダラダラ描いてます。

六ツ星と雪輪のもとに 足利藩兵と誠心隊士(慶応四年)

2013-03-29 20:52:50 | 幕末


戊辰戦争時、関東諸藩は多くの地方と同じく新旧入り乱れのような状態で、宇都宮・笠間など甲冑装備のまま新政府への恭順を余儀なくされた藩もありました。

北関東の小大名家であった足利藩戸田家は殿様が陸軍奉行並を務めた経験もあってか、しっかりと西洋式兵制を取り入れおります。
足利藩は慶応四年、新政府へ恭順。官軍として上州戸倉で会津藩と戦闘を交えました。
一万一千石の陣屋大名家でしたが安政年間から三度に分けて兵制が改革されておりました。

左は遺品を元に再現した誠心隊の兵士。彼らは画家の田崎早雲も差図役として勤務していた藩の町民・百姓を募って編成した草莽隊で、市中の警備や百姓一揆の鎮撫に活躍しました。雪輪の合印を右肩に付けた黒い三斎羽織に金雪輪入りの韮山笠。足元はダンブクロです。(小銃は元込で、1挺25両という価格からスナイドル銃と推測しました)早雲のスケッチにはボタン掛けの上衣を着た兵士も描かれています。

右は慶応四年8月ごろ、今市出兵時の藩士の軍装を想定して描きました。
同年4月の改定では藩の合印が正式に定められ、銃士は洋服を着用、被り物は笠かシャッポー(帽子)が奨励されてました。古写真などに足利藩士の軍装が残っていないため、他藩の洋装の武士など複数の資料を基に一般的な官軍軍装を再現してみました。錦切は戸倉戦争後の慶応四年5月21日以降に総督府から下賜されたようで、それ以前の北関東官軍諸藩は「左手に白布を結びつける」ことで識別していたようです。

同伴に関する資料が手元になかったのですが、「シリーズ藩物語 足利藩」を読んだら一発でした。おもしろい!
田崎早雲と誠心隊の活躍も詳しく読めました。

きっとまだまだ自分の知らない諸藩の戊辰戦争時の軍制とか、詳しく調べれば沢山でてくるんだろうな。

ジブスケ袴アイドル・響と貴音(慶応三年)

2013-03-11 22:23:56 | 幕末

pixivにて垂れ流しております拙作「七六五隊始末記」で七六五の面々のライバル的位置になる…であろうご両人。

「笛亜里組」元蟠南藩士の幕臣・黒井崇康が当時最新装備の仏式伝習歩兵を無理行って一個小隊引き抜き、自分用の私的警護部隊(兼治安部隊)として創設。

七六五隊が全員銃士なのに対し、見てわかる通り彼女らは士官待遇で迎えられました。

二人とも、衣装は当時の幕府フランス式伝習隊の士官の古写真などから再現しました。カラーリングは幕軍の文献と同時代のフランス軍の服制から再現。

正面左から四条貴音。独特の上衣はフランス軍ズアーブ兵士官の制服を真似た「襞取りマンテル」。ズボンもダボっとした仏軍使用の「ジブスケ(デュ・ブスケから転化)袴」です。
このタイプの制服は伝習隊士官と思われる集合写真に一例だけ残されております。(イラストも残っています)
サーベルはフランス軍1845式歩兵士官用のものです。

右が響。着ている服は元大手前の伝習第一大隊差図役頭取だった方の古写真から再現しました、(腰の水色のサッシュとサーベルベルトはここっちで描き加えたもの)
ズアーブっぽい上衣ですが、図のような肋骨状の飾りがついたものは仏軍ズアーブには見当たりません。そのかわり仏軍擲弾兵の制服にはこの形状の肋骨飾りがついております。
ちょっと明治八年制定の兵下士官正衣に似てますね。
書籍によっては「フランス植民地騎兵風」などと説明されてますが、それに該当するアフリカ猟兵(Chasseurs d'Afrique)とは軍服のデザインが全然違います。

ハム蔵のデザインは完全にアニメ版準拠です。声を担当した中村繪里子さんの演技が光った素晴らしいキャラクターでした。

出羽の強兵 庄内藩・奇銃兵(慶応四年・秋田)

2013-03-01 21:34:43 | 幕末


戊辰戦役の戦いの一つ・秋田戦争時の庄内藩兵です。
秋田方面では、薩摩、佐賀藩などの増援を受けた久保田藩などの東北官軍諸藩を相手に奮戦しておりました。北越にも長岡支援の為に派兵していますね。
猛将酒井玄播に率いられた第二大隊の”破軍星旗”は有名ですね。

慶応三年暮れ、翌年の鳥羽伏見の戦いの発端ともなった三田の薩摩屋敷焼き討ちを実行したことで知られる同藩ですが、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の一翼を担い、活躍しました。
藩御用商人の本間家からの献金と軍艦の売却費を使い、スネル商会から大量に武器を購入して装備を整えておりました。
主力のエンフィールド銃をはじめウィットワース銃や、シャープス、スペンサーなどの後装単発/連発銃を装備していたようです。
対する久保田(秋田)藩は甲冑に火縄銃装備だったようです。

天頂部が丸くなった朱の丸入り陣笠は現存。筒袖だんぶくろの色は致道博物館のある「戊辰戦争絵巻」を参考にしました。
絵の庄内藩兵は黒い朱の丸入り陣笠に筒袖紺・ダンブクロ黄色の者、筒袖黄色・ダンブクロ紺の者、全身紺の者に全身黄色の者か白いダンブクロのものなどバリエーション多彩です。
この絵図のカラーリングは参考になるかは不明です。しかし、当時軍装を黒に統一していた米沢藩兵が「米沢の烏」、仙台藩の衝撃隊が「烏組」と呼ばれていたあたり、
奥羽の諸藩では紺や黒で統一した軍装は珍しかった物と思われます。(太田臨一郎『日本近代軍服史』参照。庄内藩兵の軍装に関しては『武器と防具 幕末編』も参考にさせていただきました)

イラストではスペンサー1860騎銃を持たせてみました。左腰のでかい箱はブレークスリー式70発入りカートリッジボックスです。
この弾薬盒、ストラップの片方がフック式で取れやすく、腰ベルトを後ろのループに通さないとダメみたいです。
スリング代わりに紐を使っていますが、これは北軍の騎兵と先住民の戦士の遺品にある装備方法と同じようにしてみました。
もともとスペンサーカービンにはハンドガード部にスイベルリングがなく、騎兵用の担帯の使用を前提としていました。
しかし使い勝手が悪かったのか、銃身部に革製リングを付けて歩兵用スリングを装備したものが現存しています。
1865年型になってようやくスイベルが追加されました。

黒マンテルの女傑とスペンセル銃(慶応四年)

2013-01-10 22:54:00 | 幕末


「八重の桜」観ていてもたってもいられなくなって描きました。鶴ヶ城籠城戦時、スペンサー銃の装填をしてる山本八重(どっちかってぇと本人に似せるつもり…だったんすけどね)。

スペンサー銃は南北戦争でも使われた、52口径56-56スペンサー弾使用の1860カービンで描きました。

左手に持ってる弾倉筒はマガジンではなく、銃床側の穴に弾を直接入れた後に嵌めるただのバネの付いた蓋です。これがぶっ壊れるだけでただのショボイ単発銃になっちゃう仕組みです。

左腰の黒革製カートリッジボックスには弾丸7発入りのブリキの筒(右手に持ってるのがそれ)が6本入っており、そのまま銃床の穴に弾を流し込んで使うものです。
(このボックスには6本、10本、13本のバリエーションがあり、10本入りが騎兵型・13本入りが歩兵型とされておりました)

↓海外サイトで買った6本入りケースのレプリカ。実物とはほんのすこしだけ違います。隣のは担銃環(カービン銃用スリング)。









後はKTWさんのエアガンを待つばかりだね!!

鶴ヶ城籠城開始時には断髪し、二本差で弟さんの遺品の着物を着ていたようですが、籠城が進むにつれて白虎隊と同じような黒マンテルにズボン姿でいるところが目撃されております。
おそらくスネル商会が武器弾薬とともに持ち込んだ南北戦争時の中古軍服か、和裁の自家製の可能性があります。絵では北軍の野戦将校用ブラウスをベースに描きました。
断髪した髪型は長谷川恵一画っぽくしました。当時の会津にはまだ散切の習慣はなかったため、髷くらいは結っていたと思われます。
ただスペンサー銃の弾薬が尽きた(実際には途中で銃が壊れたんじゃなかろうか)ため、途中からゲベール銃装備だったようです。

袖印に関してですが、右袖の黄色い布は容保公が藩兵に配った識別章、右のが藩の合印となります。
よく見かける光線付きの丸い赤星+旧字体の會の字ではなく、白虎隊記念館に現存する会津新遊撃隊の遺品と同じ意匠にしました。
構成が同じなんでたぶんこっちが正しいんじゃないかと思います。

のっけからゲティスバーグとかマジ俺得。

pixivにて野底川ぬぬぬ様のコメント観て改めて見てみました。あの有名な後年の新島八重の写真ですが↓

ttp://bookweb.kinokuniya.co.jp/imgdata/large/4860086058.jpg

この持っている銃、どうもスペンサーカービンに見えない…というわけで南北戦争時の騎兵銃の本とにらめっこした結果、

ttp://media.liveauctiongroup.net/i/8027/9513679_1.jpg?v=8CCCA02301DC500
ttp://www.antiquearmsinc.com/images/ballard-carbine/ballard-carbine-6.jpg

Ballard Carbineという南北戦争時の後装単発銃に似ております。撮影上の都合でしょうか?
ちなみにこの銃、古写真で薩摩藩士とみられる侍が持っているのが確認でき、スペンサーなどと共に幕末日本に入ってきてはいたようです。
そもそも八重が本当に鶴ヶ城籠城戦でスペンサー銃を持っていたかどうか…という議論もあったりします。

なお、央羽越列藩同盟軍では他にも庄内藩、米沢藩、上山藩などでスペンサー銃を使用していた記録があるようです。

越後の六竅砲 ガトリング砲と長岡藩兵(明治元年)

2012-11-18 21:22:37 | 幕末



官軍との”小千谷談判”決裂により戊辰戦争にやむなく参加するも、
名将・河合継之助に率いられて活躍した長岡藩兵と、日本で初めて使われたガトリング砲(当時は野砲扱い)です。

士官、兵士共に古写真から軍服を復元しました。士官は甲冑用の袖無し陣羽織を筒袖ダンブクロ(暗くてよくわからないけどマンテルっぽくも見える)の上から着ており、肩にはでっかい合印をつけています。大刀はバフ色っぽく写っている剣吊りベルトで吊っているようです。
合印と韮山笠の文様は別の長岡藩士の写真から。

銃士の被っている陣笠は岩手のほか、埼玉県にも現存するバケツ状、釘抜紋入りのものです。
写真では砲兵用エンピール銃を持っているようですが、絵では同じくスネル商会が持ち込んだシャープスカービン銃にしてみました。

輸入されたガトリング砲は諸説ありますが、絵では南北戦争でも使われた58口径の1862年型(ホッパー弾倉式)を描いてみました。
”コーヒーミル”と揶揄されてたのがなんとなくわかる気がする…。  

手の届かない甲鉄艦 CSS ストーンウォール

2012-09-15 21:39:55 | 幕末

宮古湾海戦”アボルダージュ”の一方の主役、甲鉄艦ことCSS STONEWAL(大日本帝国海軍装甲艦”東”)と、
本当は使いたかったのに使えなかった2ヶ国の海軍さんです。
造船地のフランスを含めると実に6ヶ国の手に渡り、最終的には日本海軍で役目を終えました。
なお、装備されてたアームストロング砲は前装式のタイプだったようです。アームストロング式の後装砲はちょっと機械的問題が多く、
あまり使われなかったようです。その後備砲はパロット前装ライフル砲に換装されています。

オスプレイ社の南軍装甲艦の資料を参考にしようとしたら、なんか再現イラストが全然写真と別物だったよ…。
なので比較的解像度の高い写真などから再現しました。
南軍はこの手の装甲衝角艦が大好きで、自国でも大小さまざまなものを建造しています。

左は幕府海軍(※箱館政権時)軍艦頭の軍装。蟠龍艦長松岡磐吉の写真を参考にし、帽章は靖国神社に現存する榎本武揚のものを参考にしました。
アメリカ政府から購入する予定が幕府瓦解で契約頓挫、宮古湾で奪取を計画するも失敗し、結局帝国海軍の軍艦となりました。

右は最初の発注元であるアメリカ南部連合海軍の大佐の軍服です。サーベルはペリーも持ってた1852年型。南軍は海軍服もやっぱりグレーで、彼らの水兵服のほうは幕府海軍に払い下げられていた可能性があるそうです。
右上の南軍のサザンクロスは図形だけで短時間で作った自分用素材です(前回のハンレーからの使い回し)






さる古写真に写っていた薩摩藩兵(?)の持ってるカービン銃2種類の正体が判明!テンションが上がりまくりな昨今です。

幕府陸軍・八王子千人隊(慶応二年)

2012-08-31 09:31:36 | 幕末


慶応二年、第二次長州征伐に赴いたころの八王子千人隊の千人隊之頭見習(向かって左)と組頭の差図役下役(曹長)です。
出陣前に大坂で撮影されたと思しき古写真と、八王子の郷土資料館で展示されていた遺物を基に描いてみました。

幕末まで「八王子千人同心」槍奉行支配下の槍同心だった彼らも安政年間より洋式砲術の訓練を受けました。
慶応年間には陸軍奉行支配下となってミニエー銃隊として組織されておりました。(遺品では海軍モデルのエンフィールドP1858短小銃が現存。これは官軍の丹波山国隊が甲陽鎮撫隊から鹵獲したものと同じで、この辺に新撰組とのつながりのようなものを感じます)

二人とも、毛織物っぽいレキション羽織にフュスト(チョッキ)の和製洋式軍装です。


八王子千人隊組頭、二宮光鄰。リストでは千人隊差図役下役と表記されており、曹長クラスであったことがわかります(組頭級は下級士官~下士官とされていたようです)。
手に持っている軍帽、おそらくは韮山頭巾の派生型のようですが、詳細は不明です。ディテールも謎で、写真の情報からできる限り再現しました…。



肩印は現存品を参考にしました。展示物はこのほか、独特の標目の入った韮山笠や英軍式に近い形状の葵紋入り胴乱(表面の仕上げを見る限り国産コピーではなく輸入品を改造したもの?)もありました。



千人頭見習の陣笠は陸軍笠ではなく、それ以前の家格だけを色で識別するタイプ(布衣以上=表黒裏金・御目見以上=表藍裏金。正面に金輪抜)のようです。レキションや革靴は複数の方の写真からミックスしました。

第二次長州征伐では小倉藩、久留米藩、肥後熊本藩兵らとともに小倉口の戦闘に参加し、長州藩の高杉晋作、山形狂介率いる奇兵隊と戦いました。(あまり戦闘には参加せず、損害は病死者のみ)

千人隊自体は戊辰戦争には参加することはありませんでしたが、離反して彰義隊に加わったり、官軍への日光無血開城の根回しを行ってから責任を負って切腹された方がいたりと、彼らも維新の波にのまれていきました。

幕府騎兵組(慶応年間)

2012-07-08 00:17:02 | 幕末


幕府騎兵組(慶応二年)
文久三年より幕府陸軍の歩騎砲三兵が制定され、番方旗本より馬を養える余裕のある者で騎兵組が編成されました。
といっても長崎で西洋式の乗馬術を習った程度で、あとは文書のみを参考に編成を行ったようです(和鞍で洋式馬術って大丈夫なんだろか…)。
おかげで西洋騎兵とは似ても似つかない格好になりました。

右端:
慶応元年の錦絵「摂州須磨浦真景」及び勝安房「陸軍歴史」の騎兵陣笠の絵図から、慶応元~二年ころの騎兵組の軍装を再現しました。
歩兵とは違い、黒い三斎羽織を着ているようです。足元はダンブクロ。
錦絵では手綱が日本式の白と紺のストライプで描かれていることから、このころの馬装はまだ和式だったようです。当然馬も在来種の木曽馬。
「銃隊式沿革図」でも元治元年の和製洋装の陸軍将校が和鞍で騎乗している絵があります。

中央:
慶応三年ごろの騎兵組です。靖国神社の「騎兵練兵之図」より再現してみました。
フランス式伝習開始に伴って軍装装備ともにフランス式へと様変わりしました。
「ランス幟」による槍騎兵訓練のほか、徒歩でカービン銃を使っての下馬戦闘訓練も行っていたようです。

しかし、創設からその終焉まで、日本では近代騎兵の使い方があまり理解されなかったようで、戦役でも使番くらいの役割しかあてがわれていなかったみたいです。

ディテールは同年代のフランス軍軽騎兵用馬具を元に描いてみました。なお馬の正面の葵紋のバックルは想像です。
うっかりアラブ馬で描いちゃいましたが、実際には従来の日本在来馬に洋式馬装を使用していたようです。

左端は同図の慶応三年頃の騎兵差図役(中尉)です。右手にルフォショー軍用拳銃を持たせてみました。サーベルは1822年型軽騎兵用のものです。
兵士官ともにフランス軍のぶっとい騎兵ブーツを履かせてみました。これ、日本に輸出されてたか疑問でしたが、
同時代にフランスの傀儡政権であるメキシコ第二帝政軍騎兵が使ってたので日本でも使われていた思われます。

pixivでの初投稿作品がこの幕軍騎兵でしたが、初心に帰ってみました(?)。


軍鞍は慶応三年から軍事顧問デシャルム大尉の指導で日本の馬具業者が国産化を行い、軽騎兵用の物を製造したそうです。
それが各大名家や旗本の家へ納入されたようで、古写真では上田藩主の松平忠礼の洋式馬具での騎乗写真が残っています。

また、錦絵の「東都日本橋大隊練行図」では組合銃隊の将校が茶革製の洋式馬具で騎乗しているのを見ることができます。
リンク
ttp://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/yokoyama/nishikie/cover.html
の0380-35番、2ページ目で見れますよ!

将来的には重騎兵用の馬具製造も視野に入れていたようで、もし維新が遅れていたら鳥羽街道の薩軍関門へ
葵紋をつけた幕府軍のフランス式胸甲騎兵がサーベル振りかざして突撃かましていたのかも…(イヤイヤ

ヘイル・コロンビア!横浜の合衆国海兵隊兵卒(嘉永七年)

2012-06-04 20:34:06 | 幕末

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1854年3月、横浜の幕府応接所前にて。アメリカ海軍東インド艦隊二度目の日本上陸時のアメリカ海兵隊の兵卒です。
1852年式礼装を着用し、整列する姿が描かれています。
シャコ帽や燕尾式の制服の形状は1830年代のイギリス陸軍の制服に準じているみたいです。
1859年に服制が改まり、シャコ帽の形状変更とケピ帽の採用、フロックコート式制服へと変化しました。
白い負い革の胴乱や銃剣帯は1860年代末まで使われているみたいです。

この時期の海兵隊の服装は米墨戦争と南北戦争に挟まれてるせいかとても少ないです…。(さる資料と格闘しました…絵が少ないうえに細かい英文なんだもん)
シャコの帽章はたった一枚の兵卒の写真から復元。それ以前の陸軍と同じような鷲のみの図柄から、現在のものとよく似た錨の上にワシの止まった構図となってますね。
(でも1859年からは一時的にラッパ章になっちゃいますが)

持っている銃は古いM1816フリントロックマスケット銃を雷管式に改造した69口径滑腔式マスケット銃です。管打ゲベール筒ですね。
ミニエ式弾丸のP1855が採用された後も、南北戦争の第一次マナサス会戦あたりまで合衆国海兵隊(ほか多くの南北地上部隊も)は滑腔式マスケット銃を使用してました。

隣にいるのは「横浜上陸図」に描かれている日本の鉄砲同心で、旗印から小倉藩小笠原家中と思われます。
浅葱色の足軽半天に股引脚絆(膝がタッツケ袴っぽくふっくらと描かれてますが、洋式調練導入まで足軽が袴をはく風習はなかったようので股引にしました)、
肩には火縄銃の入った革製の鉄砲袋と思わしきものを担いでいます。

ちなみにこのころすでに、神奈川奉行所では異国船に備えて洋式砲に加え、長崎で購入されたフリントロック式マスケット銃が備えられていたそうです。

背景のペルリも1852年式礼装で描いてみたよ!ちょっと久○田ペリー入っちゃったけど…。

おまけ

こちらは前年の1853年、初めて日本に上陸した際の夏用トラウザーズの海兵隊員。
日本人が初めて目にしたマリンコーの軍装でした。

スペンサー・リピーティング・カービン!…のゴム銃。

2012-05-21 21:33:26 | 幕末
ちょっと最近のお買いもの報告。



スペンサー・カービンです。立体だ!




実はこれ「共榮」http://www.kyoei.ecweb.jp/という木製品メーカーさんで作っているゴム鉄砲なのです。
現物は実物より少し小さめにできております。


本来この機関部左側には担銃環と呼ばれるスリングベルトのナス管を通すリングが付いておりますが、本製品は小さい&めっちゃ軽いので無問題です。



輪ゴムをリボルビングする機関部と、ゴムを引っかけるリアサイトっぽいもの。装弾数は実銃より-1発の6連発。ダブルアクションなので、引き金を引くだけで弾が出ます。


しかし、このようにレバー部も撃鉄もちゃんと可動するので、こだわりのある方(主にオレ)は発射前に撃鉄をハーフコック→レバーをコッキング→撃鉄フルコックで発射!という正規の手順を踏みませう(そして指で撃鉄を降ろす…)。
(ここがウィンチェスター銃などと違う点。撃鉄とレバーが連動しないのです。ちなみにスペンサー社は1869年に同じ連発レバーアクション銃メーカーのウィンチェスター社に併合され、短い一生を終えます。”西部を征服した銃”に負けてしまうのです)

初めてゴム銃というものを触りましたが、撃ってみて輪ゴムが見えないくらいの速さで飛ぶのには驚きました(え?お前の動体視力の問題だって?キコエナーイ)。

なぜ会津の袖印と一緒に写しているのかと言いますと、この共榮さんが会津若松に在り、本製品は来年の大河の主役・新島八重さんに因んだものだからです。

・Spencer Repeating Carbine
 1863年に製造が開始、アメリカ南北戦争時に合衆国陸軍騎兵でシャープスやスターなどの後装単発銃とともに使用されました。また、重心の長い歩兵銃タイプも一部で導入されています。
このスペンサーやヘンリーライフルなどの当時の連発銃の弱点として弾丸をチューブ状に縦に並べる構造があげられます。
これは装弾数が多い代わりに薬莢の長さが制限されてしまい、後装単発銃に比べて弾丸の威力が劣ってしまうことにありました。そのほか、初期の連発機構にもまだまだ技術的限界もありました。

南北戦争終結後、アメリカ陸軍はこの過渡期の連発銃を棄て、P1863ライフルマスケットを後装化した単発式・高威力の50口径スプリングフィールド1866トラップドアを制式銃として採用します(1865年からスプリングフィールド銃の後装化が始まる。M1865・M1866を経て1873型がその後使われる。歩兵型は二つバンドの短ライフルタイプ)。
しかしこの選択が仇となり、1876年、M1873トラップドアカービンで武装していたカスター将軍(降格されて当時中佐だった)率いる第7騎兵連隊はリトルビッグホーンの戦闘でインディアン連合軍に敗れています(諸説あり)。
ボルトアクション5連発のスプリングフィールドM1892(クラッグ・ヨルゲンセン)が採用されるまで、アメリカ陸軍ではこの後装式単発銃を主力としていました。

一方でそのおこぼれに預かったのが動乱期の我が国でした。南北戦争終結で余剰となったこのスペンサー銃は、外国人武器商人の手によって日本国内へ高額でばら撒かれました。
佐賀藩、薩摩藩などの官軍雄藩のほか、佐幕派では郡上凌霜隊や米沢藩、庄内藩が使用しております。そして会津鶴ヶ城籠城戦で山本八重子さんが使用したことでも知られています。

しかし、前述のとおり、銃自体が高価なこともさることながら、その金属薬莢は当時の日本の技術的限界で国産化できず、連発銃であっても弾丸を大量に供給できる代物ではなかったようです(弾倉機構を潰されて単発に改造された物もあるほど)。”最強の新式銃”では決してなかったという事ですね。


これをリアルでモデルガン化しようもんなら50000は確実に超えますね。いや100000台いくな…。
なので、立体を5800円で手に入るのはうれしいもんです。

共榮さんではそのほか現代銃から火縄銃まで、さまざまなゴム鉄砲がラインナップされています。
機種によっては決して安いものではありませんが、いかがでしょうか?


『木製品の共榮』さま
http://www.kyoei.ecweb.jp/